
はてなキーワード:キャシーとは
https://x.com/KatzePotatoes/status/1914677530218652024
https://x.com/KatzePotatoes/status/1914713533952262517
第700話「ダイバーシティとは何か?」というタイトルの回で、ここで丸々1話読める。
https://sekokan-navi.jp/magazine/79277/amp
2016年頃に発表された話らしく、8年前の時点で完全なる正解に既にたどり着いていたことに驚く。
「十分よ、ありがとう」
と答える代わりに、
と未手術トランスジェンダー達までが騒いでしっちゃかめっちゃかになったんだよな。
それな~
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第700話「ダイバーシティとは何か?」というタイトルの回で、ここで丸々1話読める。
https://sekokan-navi.jp/magazine/79277/amp
2016年頃に発表された話らしく、8年前の時点で完全なる正解に既にたどり着いていたことに驚く。
「十分よ、ありがとう」
と答える代わりに、
と未手術トランスジェンダー達までが騒いでしっちゃかめっちゃかになったんだよな。
それな~
ご指摘の「反AI=不勉強でフルボッコされる」という印象は、一部のオンライン議論の断片を見たことに由来しているのだと思います。しかし、以下の点から「必ずしも正しくない」と言えます。
「反AI」を掲げる人々には、大きく分けて──
の二種類が存在します。前者は学会や公的フォーラムで高度な議論を交わしており、むしろAI推進派に対して手痛い指摘をするケースも多々あります。
TwitterやYouTubeのコメント欄のように「即レス・短文勝負」になりやすい場では、
という性質があります。そうした場面だけを切り取ると、「反AI=知識不足」という印象が強くなってしまいます。
など、学術的・政策的に真剣に議論されているテーマは山ほどあります。これらを扱う立派な批判者は、むしろ推進派以上に理論武装していることもあります。
したがって、「反AI=毎回フルボッコ」という印象は、あくまで一側面の切り取りに過ぎず、全体としては正しくないと言えるでしょう。
セルマが自分の無実を証明しようとしなかった理由は、彼女の性格や価値観、そして状況に対する深い心理的・道徳的な葛藤に基づいています。以下に、その理由をいくつか考察してみます。
セルマにとって最も重要なことは、息子のジーンが視力を失う前に手術を受けられるようにすることでした。彼女が貯めていたお金は、その手術費用に充てるためのものであり、彼女の人生そのものがジーンの未来のために捧げられていました。裁判でビルの死の真相や貯金の目的を明かせば、確かに彼女の罪が軽減される可能性はあったかもしれません。しかし、それによって貯金の存在が公になり、没収されたり使えなくなったりするリスクを彼女は恐れた可能性があります。セルマは、自分の命よりもジーンの視力を優先したのです。
セルマは非常に純粋で自己犠牲的な性格として描かれています。ビルを殺したのは、彼がセルマに「自分を撃て」と懇願した結果であり、彼女に積極的な殺意があったわけではありません。それでも、彼女は人を殺してしまったという事実に対して深い罪悪感を抱いていたと考えられます。この罪悪感が、彼女に「罰を受けるべきだ」という思いを抱かせ、自分の無実を主張する動機を奪ったのかもしれません。彼女は、自分が苦しむことで何かを償おうとした可能性があります。
セルマは現実の過酷さに耐えるため、ミュージカルの幻想に逃げ込む癖があります。裁判の過程でも、彼女は現実と向き合うよりも、内なる空想の世界で心を保とうとしていました。自分の無実を証明するためには、ビルとの争いの詳細を説明し、闘う姿勢を見せる必要がありました。しかし、セルマはそのような闘争心や現実的な自己弁護よりも、精神的な逃避を選んだのです。彼女にとって、真実を主張することよりも、ジーンの手術が実現することの方が重要だったのかもしれません。
セルマは移民であり、社会的に弱い立場にあります。彼女の弁護士が無能だったこともあり、アメリカの司法制度が自分を正しく裁いてくれるという希望をあまり持っていなかった可能性があります。実際に、裁判では彼女の背景や動機が十分に考慮されず、死刑判決が下されてしまいます。こうした状況の中で、セルマは自分の声を上げることに意味を見出せず、黙って運命を受け入れたのかもしれません。
セルマ自身が積極的に自己弁護しようとしなかったことは確かですが、それを差し引いても弁護士の対応には問題があったと考えられる点がいくつかあります。以下に、具体的な視点からその無能さを考察します。
セルマがビルを殺した状況には、明らかな情状酌量の余地がありました。ビルはセルマのお金を盗もうとし、争いの末に自分で負傷し、彼女に「自分を殺してくれ」と懇願したのです。この一連の出来事は、セルマに殺意がなかったことや、むしろ彼女が追い詰められた被害者であることを示しています。しかし、裁判でこの背景が十分に提示された形跡はありません。弁護士がセルマから詳細な証言を引き出し、ビルの行動や動機を明らかにする努力を怠った可能性が高いです。セルマが話したがらないとしても、有能な弁護士なら彼女の心理状態や状況を考慮し、積極的に真相を掘り下げるべきでした。
セルマが貯金をしていた理由——息子ジーンの眼病治療のため——は、彼女の行動を理解する上で極めて重要な要素です。この事実を裁判で強調していれば、陪審員や裁判官にセルマの人間性や母親としての献身を示し、殺人に至った動機が利己的でないことを訴えられたはずです。しかし、映画ではそのような弁護が展開された様子は描かれておらず、弁護士がこの点を効果的に活用できなかったことがうかがえます。セルマが黙秘したとしても、弁護士が彼女の生活環境や医療記録などを調査し、証拠として提出する努力をしていれば、判決に影響を与えられた可能性があります。
死刑判決という極端な結果に至ったことから、弁護士が効果的な弁護戦略を立てられなかったことは明らかです。例えば、セルマの精神状態(視力の喪失によるストレスや絶望)、ビルの自殺的行動、セルマの移民としての社会的弱者性などを強調し、殺意の不存在や過失致死の可能性を主張する戦略が考えられたはずです。しかし、裁判の描写では、こうした弁護が十分に行われた様子はなく、弁護士が単に形式的な手続きを踏むだけで終わったように見えます。これは、セルマの協力不足を差し引いても、弁護士としての能力不足を示しています。
セルマは自己犠牲的で、息子の将来を守るために真実を隠そうとする傾向がありました。有能な弁護士なら、彼女のこの性格を見抜き、彼女が話さない部分を補う形で弁護を進めることができたはずです。例えば、セルマが黙秘する理由を推測し、彼女の立場を代弁する形で裁判に臨むことも可能だったでしょう。しかし、弁護士はセルマの心理状態を深く理解しようとせず、彼女の沈黙をそのまま受け入れてしまったように見えます。これも、無能さの一つの表れと言えます。
キャシーの関与:キャシーはセルマの親友であり、工場で一緒に働く同僚でもあります。裁判の過程で、キャシーがセルマの性格や普段の生活態度を証言するなど、彼女の人間性を陪審員に伝える努力をしたことが示唆されます。セルマが利己的な動機で殺人を犯すような人物でないことを強調しようとした可能性があります。
感情的なサポート:キャシーは裁判中やその前後もセルマのそばに寄り添い、彼女を励まし続けます。セルマが自分の無実を主張しない態度に苛立ちながらも、彼女を理解しようとする姿勢が見られます。
手術費用の代替案:セルマが貯めていたお金が裁判や没収で失われる危機に瀕したとき、キャシーを含む友人たちが、ジーンの手術費用を何とか確保しようと動いた可能性があります。映画では直接的な描写はありませんが、キャシーがセルマの目的(ジーンの視力回復)を理解していたことから、彼女が他の支援者と協力して資金集めを試みたことが想像できます。
弁護士への圧力:セルマの弁護士が無能だったため、キャシーや他の支援者がより有能な弁護人を雇うための資金や支援を模索した可能性もあります。しかし、セルマの経済的・社会的な立場が弱く、また時間が限られていたため、この努力は実を結ばなかったようです。
真実を話すよう説得:キャシーは、セルマがビルの死の真相や貯金の目的を隠していることに気づいており、彼女に裁判で正直に話すよう強く勧めます。セルマが黙秘を貫く中、キャシーは何度も感情的に訴えかけ、彼女の命を救うために自己犠牲的な態度を変えさせようとします。この説得は、セルマの頑なな姿勢によって失敗に終わりますが、キャシーの必死さが伝わる場面です。
精神的な支え:刑務所に収監された後も、キャシーは面会に訪れ、セルマが孤独や絶望に完全に飲み込まれないよう支え続けます。彼女の存在は、セルマにとって現実と向き合う最後のつながりでもありました。
死刑執行の阻止:映画のクライマックスに近づくにつれ、キャシーや支援者たちが死刑判決を覆すための最終的な訴えや嘆願を行った可能性があります。例えば、知事への恩赦嘆願や、法的な再審請求を試みたかもしれません。しかし、映画ではこうした努力が実らず、時間切れでセルマの処刑が実行される様子が描かれています。
ジーンの手術の保証:セルマが最も望んでいたジーンの手術が実現したことを伝えるため、キャシーが医師や関係者と連絡を取り、手術が実行されたことを確認した場面があります。これは、セルマの死を無駄にしないための具体的な行動であり、彼女が安心して逝けるよう最後の努力を果たしたと言えます。
映画では、キャシーや支援者の行動が細かく描写されるよりも、セルマの内面的な葛藤やミュージカルの幻想に焦点が当てられています。そのため、彼らの具体的な行動は断片的にしか示されず、観客にその努力の徒労感や無力感を印象づける演出が優先されています。ラース・フォン・トリアー監督のスタイルとして、登場人物の善意や努力が報われない悲劇性を強調することが意図されており、キャシーたちの奔走もその一環として描かれているのです。
この議論は、AI技術やIT教育の重要性、さらには娯楽の役割についての多様な意見が交わされています。以下に、各ポイントを整理してコメントします。
最初の発言では、PS5 Proや反AI技術に対する否定的な見解が示されています。キャシー・オニールのような反AIの立場が求められているとのことですが、これはAIの進化に対する懸念を反映しています。AI技術が進む中で、その影響をどう受け止めるかが重要な課題となっています。
次に、IT教育が基礎的な読み書きや四則演算と同じくらい重要であるべきだという意見があります。これは、現代社会においてITリテラシーが必要不可欠であることを示唆しています。しかし、ITリテラシーは単なるアプリケーションの使用にとどまらず、アルゴリズムやプログラミングの理解へと広がるべきという意見もあります。
一部の意見では、子どもたちが自発的にITに興味を持つためには、PCゲームやメタバースなどの娯楽が重要なきっかけになると指摘されています。これに対して、アルゴリズムへの興味は競技プログラミング(例:AtCoder)から生まれるべきだという反論もあります。この点では、娯楽と教育のバランスが求められるでしょう。
さらに、国全体のITリテラシーが低い中でイノベーションを促進するためには、単なる教育投資だけでなく、起業家を育成する仕組みも必要だという意見があります。規制緩和などによって起業家精神を育む環境を整えることが重要です。
最後に、親世代のITリテラシーが子世代に影響を及ぼすという指摘があります。この負のループを断ち切るためには、まず親自身がITリテラシーを向上させることが求められます。
この議論は、多くの視点から現代社会におけるAIとIT教育の重要性を考えさせる内容です。各意見は異なる立場から出されており、それぞれの視点から新たなアプローチや解決策を模索する必要があります。
Citations:
[1]https://gazlog.jp/entry/playstation-5-pro-too-expensive-disliked-by-fan/
[2]https://fundbook.co.jp/column/business/interfamilial-succession-point/
[3]https://www.youtube.com/watch?v=nbH1r2HrvZM
[4]https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2024-11-27/SNKGS2T1UM0W00
[5]https://note.com/junagashima_0627/n/n1c2120d4b513
[6]https://note.com/xzoon/n/n7facb4d6bf36
増田には難しい話かもだが、
あ?バカにしてんのか?ぶっ○すぞ
なら数学も物理も純粋な娯楽から興味をもたせるルートを作るべきですよねハイ論破
プログラム組みたい・研究したい・創作したい子どもは、自発的に自分で親にねだるし、貧乏でもバイトして買うから別に放っておいてもいいのよ
そうじゃない子(生まれつきITと親和性高くない子)がPCに興味を持つきっかけを作るのが大事なわけで、そうなるとPCゲームとかメタバースになるよね
何いってんだお前?四則演算が重要なんだろ?アルゴリズムに興味を持つきっかけはPCゲームでもメタバースでもなく、atcoderだろ😂
コスパ悪すぎって思わなかったの?
8割くらいIT音痴・興味なし、お利口さんはテストや必要になった時だけ勉強する(そして忘れる)
そんな国でイノベーションなんて起きませんわよ
イノベーションが重要だと言うなら、子供に対する投資よりも、起業家(それもグローバルで通用する)を増やす仕組みを作るべきですよね、規制緩和とかしてさ
だからさ、ITリテラシーってのはまずはアルゴリズムの話であって、特定の誰かが作ったアプリケーションをいじれる能力じゃねぇわけ、コスパ考えろよ
たぶん、論壇のやつらが「イジメ」だったって言いたいのは、
キャシー塚本とか、アホアホマンとか、ヘイポーとか、山崎豊正をなぜか重用するとか、あのあたりの笑いだろう。
だから元増田が言ってただけの受け方では絶対なかった……とは思う。
とんねるずみたいなことも普通にしてたよ。少なかったはあったかもしれんが。
してたんだけど、その上で、やっぱり論壇のやつらの言い分はどうかと思うんだよな。
イジリ以前のことが見えていない。
ああいうイジリの笑いが流行る前ってのはさ、障碍者や弱者ってのは、嫌われて殴られてたんだよな。
そこが「笑われる」になったのは、当時としては緩和だったはずなんだ。
ダウンタウンで全国でイジメが増えたとかいう言説に至っては、アホかと。そんなんでイジメが増えたり減ったりするなら世話ないんだよね。最近は人間の本能に根差した原始社会では合理的な行動とまで言われるイジメだぞ。絶対に、素人が適当に言ってるだけなんだわ。