
はてなキーワード:カンカンとは
やっと説明がついた。
兄の口を借りて私の悪口を言い、私を黙らせることで「悪口を気にしない寛容で穏やかな人間」になってたんだ。
だからちょっと悪口言われたくらいでカンカンにキレて、兄の悪口を一切咎めないどころか囃し立てて、私へはちょっと不愉快そうな顔をしただけで過剰反応だ被害妄想だと言い続けてたんだ。
他人の財布に手突っ込んで奢りたがる、太っ腹気取りで、他人の負担なら100000年でも耐えられて自分の負担は1秒でも耐えられない、そんな人だったんだ。だから「悪口言ったら叱ってたよ」なんて言葉が出せるんだ。
典型的な、本当に典型的な、善人であろうとしてる、性格が信じられないほど悪い人間だったんだ。
誰も叱ってくれなかったし、めちゃくちゃ甘やかされてきたんだろうな。自分の主張が全部通ってきた典型例の性格してる。まあしょうがないな、祖母からして先回りして母親の擁護をする(マジで何も言ってないのに突然「お母さんも頭悪いなりに頑張ってるから許してあげて~~~」って言われた)、ずっとヨシヨシされて生きてきた世代だし。自分と他人の区別が付かないのも、そんなベッタリな親がいたからだろうし。
御本人が「私は不幸!」って思ってそうなので、まあ健全に生きてほしいな。難しいだろうけど。
久しぶりに友人(A)と遊んだ。といっても一緒に何かをするるわけではない。誰かの家でお互いに違うゲームで遊んだり、TVでYouTubeを見る人もいる。
Aと他にも別の友人がいて合計6人。
で、そのAは同人誌を作っている。締め切りが近いとのこと。
思いっきり奇声をあげる。そこまでは構わなかった。しかしその後に手をたたき始め、大きな音を急に出す。
びっくりした。テレビの音くらいしかないのに急にとんでもない爆発音を出す。
そして「あ"ーーーーー!!!!!💢」って言いながら足をドンドンする。文字だとただ叫んでいるだけかと思うかもしれないが、違う。怖いのだ。人がいる中で急にキレ散らかすのだ。怖いのだ。
尋常じゃないキレ方だ。持ってるタブレット壊れちゃうよ!って言いたくなるくらいあばれるのだ。
恐怖を覚える私に友人らは「ちょっと前からこんな感じなんだ」とスルーしている。
いやいや、「締め切り近くて狂っちゃうわ笑」のレベルを超えているが?まず椅子を蹴飛ばすのは怖いよ。それで急に自分を殴りだすのも怖いよ。髪をむしるんだが…。
その状態でAは意味不明な言葉も発する。そして急に「くそくそくそ」「酒でラリんないと」「(よくわからないが、何かこちらに自慢気に話している)」とブツブツ言う。
しばらくすると普通になる。そして狂って、また落ち着く。
ちょっとついていけない。無理だった。恐怖だった。自分もちょいと前に同人誌を書いたが、流石にこうはならない。というかそんな暴れないし、疲れても暴言や暴力しないし…。
社会人になったのに、人がいる中で暴言暴力でそれを咎めない周りもちょっと無理だった。
Aはそれで何か諭してくる。恐らく物語の基礎とか言葉の本来の意味とかそういうのだ。でもさっきまで暴れ散らかして、こちらが「びっくりするから、控えてほしい」といったのにも関わらずに何か叱るように自慢気に作品とは何かと言い始める。そして急にバカでかい音を鳴らす。キッチンに行ったかと思えば奇声とともにカンカンカンカンと爆音を放つ。
こちらが言ったことに対して「いやでも」と否定を重ねる。その毛は前からあったが、今は上記の謎ギレの匂いも合わさって怖い。将来像を聞いたら怖かった。なんというか他人は全て自分自身の寂しさや虚しさを埋めるだけの存在でしかない感がやばい。相手の感情はどうでもいい感じ。
前はこんな感じじゃなかったんだが、どうしちゃったんだろう。他の友人に聞くと鬱→酒飲みのせいらしい。他の友人らはAによく会うから知っている。あぁ、だからAに対して介護というか何か「大丈夫だよ〜」とよしよしするのか。もうAが介護される側で、他の4人が介護する側な雰囲気だった。
助けたい気持ちより恐怖が勝ってしまった。長い付き合ったんだが、助けたいより怖いがかった。ごめん。自宅に帰ったらどっと疲れたんだ。友人らと遊んで楽しい思い出より、疲れたって思いと否定ばかりされた悲しさが勝った。
もう、遊ぶのやめようかな。
2025Rock this Party / timelesz
2024ライラック /Mrs. GREEN APPLE
2023 唱 /Ado
2022 Habit /SEKAI NO OWARI
2018 U.S.A /DA PUMP
2016 恋 /星野源
2014Let it Go ~ありのままで~ /May J.
2013RPG /SEKAI NO OWARI
2011Rising Sun /EXILE
2010ヘビーローテーション /AKB48
2009Believe / 嵐
2008 366日 /HY
2007Love so sweet / 嵐
2004 花 /ORANGE RANGE
2001ultra soul / B‘z
1995LOVELOVELOE /DREAMS COME TRUE
1994innocent world /Mr.Children
1992涙のキッス /サザンオールスターズ
1981センチメンタル・ジャーニー /松本伊代
1976およげ!たいやきくん /子門真人
1969三百六十五歩のマーチ /水前寺清子
1963見上げてごらん夜の星を /坂本九
1954 お富さん /春日八郎
ふと思ったのよね。
美味しいクッキーってなんなのかしら?
これが最強に美味しいザ・クッキーってやつ。
クッキーを食べてもこれが美味しいものなのか美味しくないものなのか、
よく分からないまま食べているような気がするのよね。
でも一応として標準クッキーってのが人それぞれにあると思うんだけど、
これが私のクッキー。
口の中の水分を全部持っていかれそうなぐらい牛乳のお供が欠かせないほどのマリー。
そんな遠い記憶を呼び起こしそうなほど久しぶりに私クッキーを食べたのね。
となりの私がまえいた会社の同じフロアにある部署にお客さんが来てその人のお土産らしいそのクッキーを私もお裾分けでちょっといただいたの。
それがきっかけ。
早速だからといただいたのでせっかくだからいただきましょうってことで食べてみたの。
もちろんボソボソとしたあの苦手なクッキーのそれはあるけれど、
なんとなく口の中で転がしていると、
ふわっと咀嚼されたそれは溶けて無くなっていったの。
ああクッキーだからあのマリー的な食べごたえなのかしら?ってまあせっかくいただいたなんか缶入りの上等そうなクッキーだったので、
思わず口にしたのよね。
なのに予想だにしないクッキーなのにふわっとした口溶け。
率直に言うと美味しかったのよね。
今までに文字通り味わったことのないそのクッキーに私のクッキー最高得点が更新されたとともに、
あれ?もしかしてマリーも私の今の実力で食べたら美味しく味わえるかも!?ってそう思ってまだ試してはいないけれど。
あれ?
クッキーって私の中では好き嫌いで言えばあんまり好き好んで食べる類の食べ物ではなかったんだけど。
こんなこともあるのねって正直思った不思議な体験だったのよね。
いただいたクッキーはなんかふわっと口の中で溶けて無くなってしまう感じ。
この違いってなんなのかしら?
だからもしかしたら「良いクッキーって良いクッキーなのかもしれない!」って
なんか当たり前のことを当たり前のようにいってしまいがちなクッキー体験だったのよね。
とはいえ、
私はこれを機にクッキー探検家になるつもりはないけれどさらさら。
ときを同じくして、
私はこれも絶対に自分では買わない米菓である「おにぎりせんべい」を買って食べてみたの。
もちろん、
これが私のマイファーストおにぎりせんべいってわけではないけれど、
最後に食べた私のおにぎりせんべいメモリーは遡ることいつかしら?ってぐらい覚えていないほど食べていない久しぶりのそのおにぎりせんべいを口にした時、
あれ?こんなおにぎりせんべいって柔らかったっけ?って
もっとカチカチで齧るときに歯が欠けないように気を付けないと!ってぐらいの身長差を持ち合わせて齧りつかなくてはいけないとばかり構えていたけれど、
そんなに思ったほど固くなく、
ちょっと拍子抜けの感じ。
これってもしかして、
物価原材料費高騰で少ない原材料で同じ体積分のものを作るのを保ってキープしているから
つまり密度が低いクッキーはおにぎりせんべいがこうやってできているのかしら?って思ったの。
あり得るかも!?
そうなると合点がいくわね。
じゃがりこがじゃがりこたる所以のじゃがりこじゃがりこした感じはそのまま健在なのよね。
そんなじゃがりこじゃがりこした畳語を巧みに使えばいいと思ってよく調べてみたら、
うわ!これありえるかもしれない。
正確にはじゃがりこの長さを測って比べたことはないけれどソースは未確認。
たぶん有り得る話よね。
でも、
食感としてのじゃがりこは健在なので、
少ない原材料でいつもどおりの嵩の商品をつくる企業努力があんのかも?って思ったわ。
ただならぬクッキー界隈やおにぎりせんべい界隈では人に知られないそういった努力があんのかなって。
クッキー1枚食べただけなのにそんなことを思ったのよ。
クッキーがカンカンの缶缶に入ったクッキーはもしかして美味しいのかも!って。
結論は出ないけど、
森永マリーがその缶缶のクッキーをも軽々と超えてる美味しさかもしれないけど!
うふふ。
今日はゆっくりな朝のお休みの朝の早朝から早く起きてまだ朝ご飯はまだな朝よ。
ホッツルイボスティーウォーラー入れにしてこしらえておけばたくさん飲めることができるから、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
どうすればよかったのか分からなくて毎日ふとした瞬間に思い出してしまう。
義姉は2023年秋、相手方のDVが原因で離婚した。元夫氏は、姪が生まれて歩くようになったくらいから義姉に対してだけ暴力を振るうようになったという。
ただ彼は、大して力のない私と腕相撲をして負けるような人だった。どうして暴力を振るうようになったかは、わからなかった。
離婚成立時5歳の姪は、義姉の前ではしきりに「パパはゴミ。ママが可哀想。ママだけが好き」と言う一で、義姉がいないときは「パパに会いたい」と一晩中泣いた。5歳ながらに母親の顔色を伺っているのは傍目に見てもよく分かった。
その後義姉と姪は義実家(彼女らからすれば実家)に身を寄せた。義姉は元々専業主婦だったので近所のコンビニでアルバイトを始めたものの、身を寄せてから僅か1ヶ月で「彼氏が出来た」と義両親と大揉めしながら姪を連れて家を飛び出した。
夫も義両親もカンカンで、未だに彼女らの話をすると顔色を変えて「もうあんな奴は家族じゃない」という。
私と義姉は仲が良かったと思う。だから着の身着のまま、たった50万のお金(元夫から取れた慰謝料)を手に男の元へ飛び出そうとしていた義姉に慌てて連絡をして「あなたがどうしてもその彼氏が大切なら、幼い姪はあなたの生活が整うまで義実家においていけないか。養育費は私が出す。もし彼氏とダメになったとき、子供の人生を巻き込むようなことがあってはならないから」と伝えてしまった。これは悪手だったと思っている。
当然「私にとってこの子は誰にも譲れない。子供を産んだことがない人にはわからないだろうけど」と睨みながら言われた。
私はその頃、子宮を取ったばかりだった。確かに、私には生涯分かりえない親子の愛だ。
心配していたくせに、彼女に渡そうと思っていた100万を渡せなかった。
私は士業を仕事にしており、それなりに収入もある。義姉が義実家に身を寄せ続けるなら、将来的に金銭的な援助をするつもりだった。
義姉の彼氏はここには書けないような経歴のある人だった。今も一緒に暮らしているのか、別れたのかは分からない。
まだ縁が切れる前、私と会った時に姪はピンクのランドセルが欲しいと言っていた。買ってあげようね、という話をしていたけれど、好みがコロコロ変わるのでもう少ししたらと言われているうちに会えなくなってしまった。
周りに相談すると「別の家族なのだからあなたが干渉することではない」「どんな親でも子供にとっては唯一なのだから、あなたが親代わりになれることはない」「義姉の自業自得なので忘れた方が良い」と言われる。
姪を引き取りたかったのかと言われると、そんなつもりはなかった。義姉には、子を持てぬ私が娘を奪う悪者に見えていたに違いない。
義姉にブロックされたLINEのアイコンが前まで姪とのツーショットだったのに、義姉ひとりの自撮りになっていることに気がついた。
義姉が住んでいた義実家の一室に、姪が残した「ばあばとずっと一緒に住まわしてください」の手紙が、今になって残された荷物の中から出てきたのを義母から知らされた。
彼女らの住んでいるエリアは見当がついているので手を尽くせば探し当てることはできるだろうが、義両親に「あなたがそれ以上情けをかける必要はない」と断られてからポッキリと折れてしまった。
姪がこの先、幸せになれるならそれで構わない。これはただの他人のおばさんのイチャモンで、要らぬ心配なのだと思う。
やりたいと言っていたピアノとバレエを習わせてあげたかった。ピンクのランドセルも買ってあげたかった。
何が正解だったのだろうか。
長男6歳、次男4歳で、二人とも知的障害を伴う自閉スペクトラム症と診断されている。
長男と次男で、知的障害の度合いも自閉スペクトラム症の度合いもだいぶ違います。
それに、自閉症スペクトラムも知的障害も、単純に重い軽いというものではありません。
ある分野では定型発達児よりも発達が進んでいたり、反対にある分野では遅れていたりする、「デコボコ」で、ケースバイケースです。
自閉症スペクトラムがなんなのかというよりも、定型発達とはなんなのかを考えさせられます。
2~3歳くらいの時の長男は、どんなに強く言っても、叩かれても、つねられても、引きませんでした。
カンカン照りでも、次男が頭から血を流していても、散歩をやめさせてくれませんでした。
ママにものすごい勢いで怒られ、叩かれ、強情な長男でさえ泣いて怯えますが、楽しいことを見つけると次の瞬間でもキャッキャするのです。
欲しくなってしまった玩具や食品の購入を拒否されても、絶対に引きません。
力づくで店から連れ出されても、どんなに強い言葉を浴びても、ほっぺや耳を引っ張られる痛みに涙しても、買って貰うまで耐えきり、買って貰えさえすればニコニコです。
長男に対して、妻は。話を聞かない、反省しない、と非常に不満を持ってます。
対照的に、次男は怒られてることは理解しても、なにに怒られてるのかわからない子です。
3歳の頃、お風呂上りにリビングでおしっこをジョボジョボしてしまって、怒られるとひどく泣きじゃくりましたが、としても、全く悪びれもせず次の日も同じ様にジョボジョボでした。
外出を拒否されたとき、欲しい玩具の購入を却下されたとき、次男は泣きじゃくります。
仕方ないから外出してあげようとしても、玩具を買ってあげても、拒否された、叱られたという事実が大きすぎて、回復しません。
次男は、上手くいかないとき、要求が通らないとき、身体的に不快な時、モノやヒトに当たります。
暑いとか喉がかわいたとか眠いとか、そういう理由で壁を殴ったり蹴ったりします。
妻に似てるような気がします。
妻はよく「私のほうが大変!」あるいは、「私はこういう気持ちにさせられた」という論陣を張ります。
そういうときに私が
「まずは問題を解決すること、次に効率性、問題を解決した後に公平性に着手すべきだよ」
「こういう気持ちにさせられたということは相手が悪いというロジックだと、それでは常に訴えた側が正しいことになってしまう。
お互いの譲れる部分譲れない部分を聞いて落としどころを見つけるべきでは?」
と諭すのですが、自分が大変な時に楽をしてる人をみるのが許せないとか、自分が不幸なときに幸せそうな人を憎んでしまうとか、そういう思考を捨てることができない人です。
なので、上手くいかないとき、気分を害されたとき、不機嫌になるし、それを表にだします。
次男の場合はまだ幼児、しかも知能の発達も遅れているので、暑いとか眠いとか、そういう身体的な不快を、モノやヒトにぶつけるのです。
少し、話が回り道しましたが、そんな時に長男が理不尽に殴られたり蹴られたりします。
しかし、驚くべきことに、長男は多少泣くことはあっても、基本的に反撃しないんです。
遊びを中断させられたとき、欲しい玩具を買って貰えないときはあんなに強情に粘るのに、理不尽に殴られたり蹴られたりしても、逃げるだけです。
ある日など、自分の顔に思いっきり踵を入れた暴れる弟に対して、弟の涙を拭きに近寄りさらに蹴られてました。
こう書くと、長男は仏、次男はどうしようもないヤバいやつかのようですが、次男のほうがはるかに御しやすいです。
質問に答える知能はなくとも、名前を呼ぶだけで反応してくれると助かります。
なにに怒られてるかわからなくても、あるいは大きな声に反応して行動を中断してくれるだけで、ずいぶん楽です。
最近、4歳にしてトイレができるようになり、オムツが外れました。
トイレで排泄するたびに褒め、パンツを履かせて褒めを繰り返したら、トイレを覚えました。
年上の子たちを真似て、リュックを背負ったり、靴を履いたり、知恵遅れなりに背伸びします。
長男は褒めても効きません。
長男のほうがいつも笑顔で、何かを達成するたびに喜びの叫びをあげ、飛び跳ね、あるいは「ドヤっ!」ってみせにきますが、興味がないことで褒められても、全く響かない。オムツを履かせないでいれば勝手にトイレで用を足すけれど、ガンとして布のパンツは拒否です。
みんながやってるから自分もしたい!、出来るようになりたい!という感情もほとんどない。
次男がお留守番で、長男と妻がこっそり出かけなくちゃいけないようなシーンで、長男と妻が帰宅すると、次男は怒り狂います。
「俺を置いてどこに行ったんだ!」
長男はヒトの気持ちがわからないのかと思ってましたが、最近、妻が怒ってるのを見て「angry」と言いながら、指で持ち上がった眉毛を作ります。
妻が怒ってることはわかってるのです。
さらに、「smile」といって、指で妻の口角をもちあげたりします。
妻が怒ってるのをわかってる。自分がなにをしてしまったのかもわかってる。なのに、「笑え」とやるわけです。
説明が遅れましたが、長男はまだ単語しか喋れません。時々、頑張って2語文が出る程度です。
そして、語彙の半分くらい英語です。
私も妻も日本生まれ日本在住で、日本語しか喋れないし周りに英語をしゃべる人もいませんが、なぜか英語です。
やはり言葉を覚えるには、
②他人の音声に注意を向ける
「ダメ」という単語は理解できない月齢でも、強く「ダメ」と言われたら、その熱量にけおされてやめるものです。
長男はその能力がないので、家族が喋ってる日本語より、YouTubeから流れる英語を覚えてるんです。
英語でなら100まで数えられるようで、足し算なんかも理解してるようです。
そういうゲームで遊んでるのをみてそう判断してるだけで、質問に答えたりドリルを解いたりはしてくれません。
ピクミンやマリオで、様々な謎解きをクリアできてるので、言語とか共感とか以外は同じ6歳児相当な気がします。
さてさて、長くなりましたが、自閉スペクトラム症の長男は、ある種、悟りに近いともいえるような気がします。
クリスマスなのに恋人が居ないという人は、誰かを好きだから一緒に居たいではなく、周りが楽しそうにしてるのに自分が楽しくないから、そのギャップに苦しんですわけです。
みな、いい大学に行きたいと願いますが、いい大学とはなにかというと、偏差値が高い、つまり人気の大学であると考えがちです。
結局、自分が行きたい大学ではなく、みんなが行きたい大学に自分も行きたいということです。
他人と比べて優越感に浸ったり、他人と比べて惨めになったり、嫉妬したりして、忙しく生きているわけです。
その根底には、他人が欲しがってるものは自分も欲しくなるという、感情の同化があるわけです。
相手が反省したかどうかも、相手がどれだけ精神的に落ち込んだかで判断しがちです。
自分が不幸な時に幸せそうにしている人々を憎く感じるのは、自分の不幸が共有されないことに対する抗議です。
もちろん、大人はそれを口に出したらしませんが、うちの次男のようにまだ幼いと、暑いとか眠いとか、そういう不快という感情さえ他人に共有させようとして、暴力をふるいます。
どう思われたいとか、どういう気持ちになって欲しいとか、勝ち負けがない(少ない)から、嫉妬したり、危害を加えてくる相手にやり返したりしない。
普通なら、やり返して、年上の腕力で屈服させないと気が済まないところ、弟の涙を拭きにいく。
長男の知的障害は、言語と社会性の遅れからそう診断されてるのですが、狂ってるのは長男ではなく、定型発達の我々のほうなんじゃないかと思います。
Permalink |記事への反応(16) | 13:57
唐突だけれど、私はもうすぐ死のうと思っている。理由は簡単で自己表現だ。こうしないと世間の誰も私の苦しみに気付きもしないで素通りしていくばかりなので、世間様に目いっぱい迷惑をかけてこれから死ぬのだ。いえい。
まずプロフから。私の名前は■■■■■と明かさないが漢字五文字で、少し変わった名前だった。これが原因で小中といじめられて高校では無視をされ、大学に行ったはいいものの当然ながら社不なのでひとりぼっちで何も出来ず社会からの矢を一身に受けて内蔵はこぼれて血まみれなのだが、ライフラインは助けに来てくれないのでずっと視界は赤いままなのだ。うえん。
んで、何を書きたいんだっけ。
そうそう、私がこうして自己表現に至ったその理由を、電子のどっかに書いておきたいのだ。すでに糞尿以下の汚物と化したインターネッツを私の駄文でさらに汚してやりたいと、まあそういう意図趣旨目的でつらつらつらりと文字を打っている。
まず小・中学校のいじめについて解説しよう。でも長々と書いたら飽きられそうなので端的にまとめるね。殴られ蹴られ盗まれ突き落とされ殴られ殴られ落とされ濡らされまた盗まれたのだ。オーソドックスないじめである。でも問題はクソの教師にあると思っていて、アイツらは自分たちは偉いみたいな顔をしておいて所詮は地方の駅弁大学教育学部をなんとか卒業した程度のバカなので、平気で権力を慮っていじめを見て見ぬふりしやがるのだ、クソが。
ある日のこと、いつものようにホウキの尖った部分で男子数人に身体中を叩かれていた私は、後ろのほうの男子が笑いながら金属バットを取り出したあたりで『妄想代理人』を思い出し、命の危険があると抵抗してそのうちのひとりを殴って逃げ出したのだ。それでどうなったかというと、学校に呼び出された。
「お前、A(私が殴った子)を殴ったって本当?」
私は黙ってうなずいた。
先生は怒鳴るように言った。
「なにがあっても暴力は駄目でしょ。A、たんこぶ出来てたわよ。Aに謝りなさい」
私は身体中に痣をこさえ、目の周りは黒ずんで鼻血を出していたが、先生にそれは見えなかったらしい。ちなみに先生は今も教員として学校にいて、私の呼ばれない同窓会に大切な恩師として呼ばれているらしい。
まあそういう色々があった私はどうしても小・中学校の連中と同じ高校は嫌だったので死ぬ気で勉強して県で一番頭のいい奴らが集まる高校に進学した。
私を殴る以外に能のなかった出来損ない連中はその辺のヤンキー校に行って無事にヤリマンヤリチンに変化したと聞くが、私はこの進学校でようやく普通の生活が送れるとワクワクしたものだった。
でも小・中で受けた傷は思いのほかキツくて、私は人間を目の前にすると何も喋れないようになってしまった。体が強ばるんだよね。んでいつの間にやらやっぱり一人よ。クラスラインは私抜きで作られてた。ウケる。
嫌になってきたな。
でもがんばって大学に進学した私は徐々に人と接するように努力したこともあって人間恐怖症を克服しかけるのだけれど、それが今になってどうして死ななきゃならんのかと言うと、それは先日、人生で初めて愛の告白を受けたからなのである。
は?なんだよクソリア充がと思うかもしれないけど、私は告白されて死ぬほど気持ち悪くかんじてしまった。相手はすごく良い奴で顔も悪くないし勉強もできるという私にとってはもったいねいくらいの人だったけれど、ドン引きしてしまったのだ。そしてその理由を今まで考えていて、ふと思い当たった答えが私の死ぬ理由だったり。つまりは私は、もう誰からの褒め言葉も愛の言葉も、嘘にしか捉えられなくなってしまったのである。
私を貶したり悪くいう言葉しか信じられないのだ。罵倒して蔑んで嘲笑して殺すような言葉以外は全部偽物に思えるのである。それはあの地獄の九年間を経て学習したことで、人に過度に期待すると裏切られたときのダメージが半端なくて、それから身を守るためには全員を疑ってかからなくてはいけなくて、だから誰が私のことを愛してくれてもそれは多分全部欺瞞にしか見えなくて、ああ、とそこで絶望が去来。私はもう、苦しむ以外の道しか残されていないのでした、ちゃんちゃん。
よく未来には希望があるとかほざく奴がいるけれど、そんなものは私にはねーのである。
死ね。
なんつーか全然書ききれてないしダイジェストにもほどがある人生の概略だったけど、実はもっと色々な困難がまだまだあって、語りだしたらキリがないのでもうこの辺で手打ちにするけれど、いやさ、もうね。絶望ったならないですよ。こんな文章を書きながらもね、私はこれまで受けてきたささやかな励ましの言葉や暖かい言葉を思い出す訳ですが、それでもやっぱり、そういう言葉ってなんというか、弱者に施しを与えて悦びを得ているんだとか、そういう邪推をしてしまうんですよ。いや、邪推ってことは分かってるんですよ?論理では理解してるんですけど、心が受け付けてくれないんですよ。
もう無理なんですよ。
これから私はね、一生幸せになれないんです。そんななかで、かつて私を殺し続けた某さんたちは幸せに結婚して子供を産んで――って着々と平凡でけれど堅実な幸福を掴んでいくわけですよ。私を殺した事実など一切忘れて。
疲れちまった。
まあすぐに死ぬことはないだろうけど、なんか美味いラーメンでも食って、幸福に少し近い状態になったらそれで満足して、私はきっと死ぬんだと思うます。
んでね、何が言いたいかっていうと、みんなには自覚して欲しいんだよね。
みんなって、恵まれてるんだよね。
愛してくれる家族がいて、
守ってくれる大人たちがいて、
支えてくれる恋人がいるわけでしょ?
それってね、普通じゃないんですよ。
あなたは幸運にも私みたいな生き方をしなかった。失敗や不幸もあったかもしれないけど、私みたいに全部ダメにはならなかった。
恵まれているんですね、皆さんは。
だからこう、なんていうか。
あとこれだけ覚えといて。
私は苦しかった。
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
※ もしこの文章を読んで不快な気分になる方がいれば、申し訳ありません。
※音声入力でスマホにメモした内容をChatGPTで直してもらった文章なので、読みづらかったらごめんなさい。
今回の年末年始休暇を利用し、東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市と福島県双葉町を訪れた。震災当時、私は日本を離れ海外に滞在しており、テレビの画面越しにその映像を見ていたが、心が恐怖で拒絶しているのか、どこか現実感がなかった。
その後10年近く時間が経ち、ようやくYouTubeで津波の映像を目にする事ができるようになったがやはり実感が湧かず、「一度自分の足で現地を訪れ、体感してみたい」という思いになった。
実際に現地を訪れてみると、写真を見て想像通りの部分と想像を超える部分があった。
陸前高田では、津波で壊れた建物が震災遺構として残されている一方、広大な更地が続く風景が広がっていた。津波によって街全体が流され、人々の生活そのものが根こそぎ奪われた跡を目の当たりにし、普段は優しい海の圧倒的な暴力性に言葉を失った。Google Earthで震災前の衛星写真で家が並んでる所を見た後、何もない広大な更地をみると無力感を強く感じた。正直建物が壊れた学校などの震災遺構を見るよりも何もない広大な更地の方が胸にくるものがあった。
福島県双葉町では、駅前でレンタル自転車を借りて街を少し巡らせていただいた。
震災で崩壊した民家が13年経った今でもそのまま残り、帰宅困難地域の看板がいくつかあった。人がほぼ全くいない街の中で巡回する消防車のカンカンという音が響いており、申し訳ないが正直少し怖さを感じた。
今回訪れて学んだこと
一つ目は津波が来たら迷わず逃げること。家族や他人を助けたい気持ちがあっても、まず自分の命を守ることが最優先。高台に向かって一秒でも早く逃げることが必要。(津波てんでんこという言い伝えがあるらしい)
二つ目は、政府や権力者を盲信しないことである。震災や原発事故が起きた時、政府や権力者が提供する支援は「焼け石に水」レベルにもならないことが多い。双葉町の光景を目にして、以前訪れた満蒙開拓団記念館で聞いたエピソードを思い出した。当時政府の宣伝を信じて満州に移住した人々は、「豊かな土地で楽園のような生活が待っている」という言葉に期待を膨らませた。しかし、実際にはゼロから耕作を始め、他民族の土地を奪って生活せざるを得ず、戦争に敗れた後も男性がシベリアに抑留され、女性は酷い目に遭った。
これは政府に限らず、企業経営者や教育機関のトップなどでもどの組織でも同じかもしれないが、「限られた情報の中でも偉い人の言葉を鵜呑みにせず、自分の五感をフルに使って違和感がないかを確認する」とか、言葉通り「歴史に学ぶ事」が改めて大事だと思った。