
はてなキーワード:オヤジとは
本日逝去の報せがあった村山氏だが、自社さ連立政権の成立により突如首相の座に登る事になった。
ところが周囲は賛意を送りながら頭を抱えてしまった。村山氏はロクな服を持っていなかったのだ。
背広(スーツでなく)の肘は伸びて出、ズボン(パンツでなく)は生地が薄くなって穴が開いた箇所をパッチと裏あてで繕ってあり新品のラインは無くなりオールドジーンズのようなラインになっていた。シャツも昭和中期の商店街の洋品店で買ったようなワイシャツ(襟が大きくて開いてるデザイン)で、やはり袖口や襟元がボロボロ。
要するに昭和の古い社会主義者そのままの出で立ちであった。しかも家にある予備も全部同じ状態。
「世界一貧しい大統領」と呼ばれたウルグアイのホセ・ムヒカとそっくりだ。因みにホセ・ムヒカ氏も今年に亡くなっている。
それで、労働者や弱者の為の政治する社会主義者としてならそれも良いかもしれないが、日本の首相としてはかなりマズイ。洋服の青山に行って「どのような場面での服をお探しですか?」「今度首相をする事になりまして」と言う訳にもいかない。しかも総理の親任式では天皇陛下の前に立たねばならないのだ。
という事でスタイリストとファッションコーディネーターが付くことになったのだ。大急ぎで身の丈計って服を数セット揃え、美容(と言っても洗顔方や調髪に関して程度だが)の指南などをする人が付くことになった。
こういう職業人をいきなり探すというのも難しいので、どうも自民党関係者が紹介したらしい。
村山氏の総理在職時の写真を見ると、かなり服装はシャキッとしているし、ネクタイもTPOに合せてコンベンショナルなガラ、カジュアルなガラと使い分けている。しかもネクタイの結び目も細い(昭和は結び目が太くなる結び方が一般的だった。昭和オヤジの襟が広い&デカい結び目は民民の玉木代表を参照のこと)。
それら全ては派遣されたコーディネーターらが指定した通りのものを着用した為であったのだ。
ただ、この人らは付き人のようにずっとそばにいるんじゃなくて、最初につきっきりで服装指導やスーツの購入をしたら、状況別の服の組み合わせを置いて行って何か特別なことが無い限りは来ないという風にしたそうである。
総理退任後の写真を見ても結構シャキッとした服装をしているので、服装のセンスは総理経験で上昇したようである。
ついでに言うと、高市氏はタレント出身なのに化粧が変なことがよくある。コンベンショナルな化粧じゃなくて変な色のリップを塗ったり、フラッシュを焚かれる仕事なのにUVファンデを厚塗りしてきて顔が真っ白く飛んだ写真が新聞に載ったりとメイクの基礎がおかしい事があるのだ。肌の黒ずみを気にしているようなのだが。多分だが、年を重ねて若い時のメイクが通用しなくなっているのだと思う。
弱者男性は女性や恋愛に対して強烈なコンプレックスを持ってるわけだが
例えば中卒のアホやハゲたオヤジでも結婚して家庭を持って立派に父親やってるわけですやん
嫁がバカでもブスでも、だ。
で、非モテの弱者男性は自分を愛さないオンナを逆恨みしてるワケだども
そんなキモキモ弱者男性に惚れた美女がいたとして、結婚してぇ~ん♥️子作りしてぇ~ん♥️と迫られてさ、君はニョーボやコドーモのために人生捧げれるかい?
無理でしょ❓️結局キミら弱者男性は自分が一番大事なんだから。そんなだから誰からも相手にされないんだよ??
牢屋の部屋は、コンクリートと鉄格子の組み合わせで、コンクリートと鉄格子をボルトのねじで固定している。床は人工芝と書いている政治家もいるが
2003年の話で、人工芝は語弊があり、実物は道路。部屋の奥に、流れないトイレと流し場があり、灰色のラインで囲われている。フローリングといっているが
床をフローリングにしただけで床は床である。我慢していれば生活は職員が維持してくださるが自由はない。どこかの時点で大声を上げるときは来る。
幽閉だからここで死ぬのではないかという思いは湧いてこないが、精神的苦痛しかないからそれをいかに流すかの勝負となる。
オヤジたちの鼻息を仰ぎ、刺されないように起居動作をしなければならない。生活の中心は、書籍の閲覧と、筆記になるが、書籍の閲覧と筆記は分けなければならない。
書籍だけを閲覧していると、勾留延長決定に対する抗告申し立て期限が間に合わなくなったり、のんびりしているとオヤジたちにいいようにされていくだけである。
勾留延長決定に対する抗告は弁護人はしないから自分でするという手がある。それによって勾留が取り消されることもあり、今回の私がその例である。
人工知能ではない。正体は、 上空からの衝撃波で刺してきているだけでそんなにかわいいものではない。 刑務官のオヤジたちの鼻息を仰ぐ(つまり、消息や鼻息、
何をすると切れて襲い掛かってくるのかを毎日のように考えて過ごせばそっれはうんちではない生活というだけで、居室の横を足音を立てて歩き回るオヤジたちの
動向や、気分を黙って察知する生活に耐えられるかということ。
なんだかなぁ、最近はどこもかしこもAI、AIって騒いでるけど、どうも手放しで喜べないんだよな。昭和の時代からコンピュータに触ってきて、インターネットの黎明期も知ってる身としては、この熱狂ぶりには違和感しかない。
確かに、生成AIは便利だ。文章は書くし、絵も描く。ちょっとした調べ物やアイデア出しにも使える。まるで魔法みたいに何でもパッと答えを出してくれる。若い連中が「未来の技術だ!」と目を輝かせるのも無理はないだろう。
でも、その裏側を想像したことはあるかい? このAIが動くには、世界中に点在する巨大なデータセンターが休むことなく稼働している。膨大なサーバーが唸りを上げ、とてつもない量の電力を食いつぶしているんだ。データセンターは「デジタル界の発電所」とでも呼ぶべき存在だ。
しかも、その電力がすべてクリーンなエネルギーで賄われているわけじゃない。石炭や石油を燃やして作られた電力も相当な割合を占めているはずだ。そして、サーバーから排出される熱を冷やすために、さらに多くの電力が使われる。データセンターから立ち上る熱気は、都市のヒートアイランド現象をさらに加速させているとも言われている。
便利さの追求の先に、こんなにも巨大な環境負荷が隠れている。これの一体どこが「明るく健全な未来」だっていうんだろう? 「持続可能な社会」を掲げながら、その影でとてつもないエネルギーを消費し、熱をまき散らしている。なんだか、バブルの頃の「イケイケ」な風潮にそっくりだ。
もちろん、技術の進歩を止めることはできないし、それはそれで良いことだ。だけど、このままではいけない。便利さの代償があまりにも大きすぎる。この技術を真に未来に繋げるためには、もっと別の、環境に配慮したあり方を模索しなきゃいけないんじゃないか。昭和の頑固オヤジの戯言だって笑われてもいい。でも、このままでは本当にいけないと思うんだ。
若い頃、銀英伝を片手に「民主主義とは何ぞや」なんて語ってた俺も、今じゃ“手放しで銀英伝を絶賛!”なんてとてもじゃないが恥ずかしくてできないオッサンになってしまった。いや、誤解するなよ。未だに大好きだ。眠れない夜にラインハルトの金髪やヤンのコーヒーを思い出しては、むせび泣きたくなることも、ある。しかし大人になればなるほど「こんなにすごい作品なんだよ!!」と部外者に熱弁するのが妙に照れ臭い。まるで昔の彼女の話を同窓会で嬉々として語るような、あの居心地の悪さときたら。
ロードス島戦記もそう。小学生の頃はあの“エルフ!”“魔法!”で本気で異世界転生した気になってたくせに、今は「ハイ・ファンタジーとして素晴らしい!」なんて真顔で言う気にはなれない。いや、言ってもいいけど、隣の35歳会社員にウインクされそうでムズムズするのだ。スレイヤーズ、十二国記、アルスラーン…(このへん全部世代バレ)。当時は「自分の人生観を変えた神作!」と思い込んでた。でも大人になった今、旧友が本気モードで語り始めるのを見ると、なぜか心臓がムズ痒くなる。これ、分かるやつは分かるはずだ。
多分、ブギーポップは笑わない、とか、マリみて、灼眼のシャナとかも同罪だよ。当時は「俺だけの金字塔!」と信じ切ってて、少なくとも3回は全巻再読した。でも今になっても「やっぱ最高!」と連呼するのは、どうしても“青春の遺産”棚に仕舞っちゃう。この感じ、青春小説は卒業して大人になったら“ちょっと一度距離を置く”のが暗黙ルールになってる気がする。そのまま本気で“文学作品”扱いしすぎると、「民主主義の本質を学んだのは銀英伝!」なんて言い出す厨二オヤジになりそうで、やっぱ居たたまれなくなる。
結局、「銀英伝を全力で推すのはちょっと恥ずい」みたいに、自分なりの“古典的こっぱずかし名作”って誰にでもある。その象徴が俺にはロードスだったり、時代によってはスレイヤーズだったり。それを本気で讃えるとき、そこには青春の痛みと甘酸っぱさが混じる。
ところがどっこい、「指輪物語」だけは違う。あれも本来なら若者特有の妄想爆発ファンタジーで片付けられてもおかしくなかったのに、全くそんな扱いにならなかった。なぜなら、トールキンが一人で神話と歴史と人工言語まで自作し、物語を“リアルな伝承”に昇華させてしまったせいだ。本当、無駄な労力の天才。あの“どう考えても読み手を選ぶ重厚さ”で、読者の成長や再読に耐えるし、大人になってからも新しい角度でいくらでも味わい直せてしまう。ここが銀英伝と決定的に違う。
銀英伝は“時代の熱狂”を体現した記号的面白さがあり、キャラクター大河ドラマとして世代ごとにバズる。でも根本は「エンターテインメント」に収束しやすい。片や指輪物語は読者に「現実そのもの」くらい重い世界観を突きつけて、それが時代や歳を取ることさえ包み込むレベル。「若気の至りじゃない」から、いつまでも堂々と褒められる。“文学に昇格できた稀有なエンタメ”ここに極まれりだ。
まとめると、銀英伝は俺たちの青春だけど、大人になると正面から全力で褒めるには「ちょっと気恥ずかしい古典」。指輪物語は、青春にとどまらず歴史や文化みたいに語り継がれていく化け物作品。その違いを感じる時、自分もひとつ「卒業」してしまったんだなと、ちょっとだけ切なくなるのだった。