
はてなキーワード:エスプレッソとは
エスプレッソ頭の女子高生だったり、足が生えたサメだったり、見た目は異形と言って差し支えない。
YouTubeショートで「トゥントゥントゥンサフールに恋している」という曲が流れてきて存在を知り、キャラクターも曲調もAI丸出しでなかなかグロテスクに感じたのだが、再生数も回っているしコメント欄でも普通に受け入れられていて驚いた。自分はまったく知らなかったし、増田でもほぼ言及されていないが、どうやらTikTokでバズり、キッズの間で爆発的に流行っているらしい。
AI生成のキャラクターや曲は叩かれがちなイメージがあるのだが、イタリアンブレインロットを疑問視したり、誰が発信しているのかを気にしたりする意見を全然見かけないのが衝撃だった。多分TikTok経由で流行ってるがゆえに、普段AIコンテンツを叩いているようなXや増田を主戦場とするネットユーザーに届いてないんだと思う。インターネットという意味では同じでも、プラットフォームが違うと流行も波及しないし、風土も全然違うんだということを改めて実感した。
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只野天才──この名前を聞いて、まず「本名なのか?」と疑う人が多いだろう。事実、彼は戸籍上もこの名を持つ。28歳。慶應義塾大学環境情報学部卒業。新卒で電通に入社し、三年目にはクリエイティブ部門のメディアプランナーとして社内の若手表彰を受けた。だが、そこで燃え尽きたのか、あるいは興味が尽きたのか、彼は「どうにも社風が合わない」という理由であっさりと退職してしまう。
電通を辞したあと、彼は自らの預金と父親が経営する資産管理会社からの分配金を元手に、港区のタワーマンションに引っ越した。34階、角部屋、東京湾が一望できる2LDK。広すぎず、だが一人暮らしには十二分すぎる贅沢な空間。そこで彼は、一切働くことなく、しかし「暇すぎて死にそう」という感覚とも無縁に暮らしていた。
起床は午前10時。最初にやることは、顔を洗ってエスプレッソを淹れること。イタリア製のマシンで豆から挽いたものだ。音楽はApple Musicのクラシック・プレイリスト。観葉植物に霧吹きをかけ、洗濯機を回し、ルンバを稼働させる。そのあいだにプロテイン入りのヨーグルトとバナナを食す。ルーチンは正確で、常に淡々と、綺麗に整っていた。
午後になると読書。だが、読書といっても文学ではない。フィナンシャル・タイムズ、WIRED、ニューズウィーク。彼が目を通すのは常に「未来」の話題だった。哲学、テクノロジー、経済といったジャンルで、作家の名を語るようなものではなく、「情報としての価値」に重点を置いた読み方だった。
夕方からはジム。高輪のパーソナルジムにて、週三回のメニューを欠かさない。体脂肪率は12%。夕食はUber Eatsで取り寄せる。コース料理がデフォルトで、時には三万円のディナーを平然とオーダーする。
この生活に、彼は「満足している」と断言していた。
只野がそう言ったのは、ある春の日、都内のあるイベントで久々に顔を出した電通の先輩との会話中だった。彼はワインを飲みながら、ふとつぶやいた。
その場にいた誰もが、冗談だと思った。
だが、彼は本気だった。ChatGPT、Claude、Gemini。あらゆる大規模言語モデルを研究し、出力されるプロンプトの精度を上げていく作業を繰り返した。
構想3日、調整5日。完成稿の初稿が出力されたのは、思いつきからたった1週間後だった。
タイトルは『石英の肺』。人間の呼吸器を模倣しようとするAIロボットが、なぜか「吸う」動作は可能なのに「吐く」動作だけができないという矛盾を抱え、それが社会全体の空気感とリンクしながら哲学的に展開されていく──という、ポスト・ヒューマンSFとも言える構成だった。
出版経験なし。執筆歴なし。そもそも小説家になりたいと考えたこともなかったという。
だが一次選考を通過した。
そして、通過の知らせを受けた翌週、彼はツイートした。
「プロンプト家、はじめました。」
この発言が、後に大炎上を引き起こすとは、まだ誰も知らなかった。
只野はその後、テレビ出演やインタビューをほとんど断っていた。理由は、「面倒だから」。それでも『文藝新潮』とだけは特別に対談を設け、こう語った。
「小説を“書く”なんて、もう古いんですよ。人間が感情や衝動に突き動かされて文字を紡ぐなんて、効率悪すぎる。僕がやったのは、論理的な構造とテーマ性の設計、そして意味の抽象度を操作すること。それをAIが文章にしてくれる。もはや“書く”ではなく、“指示する”時代です」
「ふざけるな」
「冒涜だ」
X(旧Twitter)では、#文学を返せ #直木賞終わった が数日トレンドに入り続けた。
──だが。
満場一致だったという。
2
授賞式当日。帝国ホテルの大広間は、報道陣と関係者でごった返していた。
「私の作品が、AIによって書かれたことに違和感を抱く方もいらっしゃると思います。ですが、私はプロンプト家です。私が与えた命令が、AIにとっての筆であり、私は設計図を描いたに過ぎません。にもかかわらず、完成された“家”に価値があるのなら、それを建てた大工ではなく設計者にこそ拍手を送るべきだと、私は考えます」
拍手はまばらだった。
壇上を降りた彼に近づいたのは、某老舗文芸誌の編集者だった。灰皿に煙草を押し付けながら、皮肉な笑みを浮かべて言った。
只野は、まったく表情を変えずに答えた。
「小説とは、感情を揺さぶるものだと誰が決めました?システムを揺さぶってはいけないのですか?」
それから数日後、渋谷ヒカリエで開催された受賞記念パーティー。タキシードを着た只野は、会場中央のスポットライトの下で挨拶した。
「私は、今日、ここに文学の“終焉”を宣言します。いや、正確には“次の始まり”と言うべきかもしれません。文学は感情を記述するものから、構造を指示するものへと進化すべきです。AIと共に創ることを拒絶することが“純粋”なのではない。拒絶すること自体が、もはや怠慢です」
「AIに書かせて賞取って天狗になるな」「これでいいのか直木賞」「文化庁は黙ってるのか」
だが炎上の嵐の中でも、彼は変わらなかった。
翌週、表参道の某ギャラリーで行われたトークイベントでも、彼は同じスタンスを貫いた。
「僕の仕事は、“いかに指示するか”なんです。言語は、感情の発露ではない。構造の組み替えです。プロンプトは未来の詩だと、僕は本気で思ってます」
《全部正論なのにムカつくって、逆に才能だよな》
《あいつ刺されてほしいわ》
この最後の書き込みが、後に一部で問題視されることになるのだが──それはまた、別の話である。
3
イベント当日、渋谷ヒカリエのステージ上はまばゆく、只野天才の姿もやけに艶やかだった。
タキシードは特注のトム・フォード、蝶ネクタイはブリオーニ、ポケットに忍ばせた金のペンはカルティエ。何もかもが高級で、調和していて、だが過剰だった。
壇上でマイクを持った只野は、まるでプレゼンのようにスライドを切り替えながら語った。
「文学とは、“苦悩の排泄物”ではない。“設計された感情”だ。
AIに語らせれば、魂は不要かもしれない。だがそれでも人は泣く。ならば、魂って、必要か?」
聴衆の一部は拍手したが、半数以上は腕を組み、黙っていた。
壇上に近づく男にスタッフが反応しきれなかったのは、彼の存在感があまりに“薄かった”からだった。
何者にも見えなかった。ただの、通りすがりの観客。
時間が止まったようだった。彼はほんの少し顔をしかめ、それから、まるで安心したかのように微笑んだ。
「……やっぱり、そうなるのか」
それが彼の最後の言葉だった。
鮮血が胸元に広がり、ステージに膝をつく。彼の影だけが、すっと沈んでいった。
会場が騒然とし、スタッフが男を取り押さえ、緊急搬送のサイレンが鳴るなか、ニュース速報が各局に走った。
『速報:作家・只野天才氏、刺殺される/逮捕の男は47歳・自称小説家 黒詩影郎』
テロップは正確だった。
年齢、“自称”の二文字、そして“黒詩影郎”という見るに堪えないペンネーム。
ネットはすぐに湧き上がった。
「黒詩影郎って…中二病にもほどがあるだろ」
「正直、清々した」
「あいつの顔見るだけでイラっとしてた。なんかムカつくんだよ、完璧風にしてるのが」
Xでは #只野天才 で弔いもされていたが、それ以上に #黒詩影郎 がトレンド1位を奪った。
同時に『石英の肺』は飛ぶように売れた。書店からAI小説コーナーが設置され、重版は四度目に突入。
あるレビューには、こんな一文があった。
「只野の小説は嫌いだった。でも、今は認める。だって俺、あの瞬間、泣いたんだ。AIが書いたってわかってても、心が動いた。だったら、それでいいじゃんか」
テレビでは元同僚という男が涙ながらに言った。
「彼は、ほんとに変なやつだったけど、天才でしたよ。変な意味じゃなく」
そして、彼を刺した黒詩影郎について、周囲の情報はほとんど出なかった。
知人は「昔、文学賞に投稿していたようだが、何一つ入選しなかった」とだけ語った。
週刊誌には「彼が投稿していた小説の一部」として、奇妙な一文が転載された。
「人は、誰かを刺すことによって、自分を終わらせる。文学もまた然り」
この事件は、文学におけるAI革命の象徴として語られ、同時にそれを殺した“魂”の火種としても、永く記憶された。
だが物語は、生き残った。
今もどこかでぶつかりあっている。
いずれにせよ──。
誰が書いたっていい。
だって、読者は、
最後に泣いた。
それだけで十分だった。
10年くらい、焙煎豆買ってきて手回しで挽いてペーパードリップしてるけど、正直ある程度雑な入れ方しても自分の鼻や舌には違いが分からない。全部ふつうにうまい。
最初は雑誌とかネットとかいろいろ参考にして、道具とかお湯の注ぎ方とかまでこだわってたけど、今思えばそんなに大きな違いはなかった気がする。
実感を持って理解できたのは、アホみたいに当たり前のことだけど、これくらい。だいたい両極端を試すとよく分かる。
よく、最後まで落としきると雑味が残るので少し早めにドリッパーを外すと書いてあるけど、自分には違いが分からない。あと、お湯を注ぐとき、30gくらい注いで30秒くらい蒸らすのは分かるとして、その後に何回に分けて注ごうが、土手を崩さないように注ごうが、これも違いが分からない。たまに行く喫茶店のマスターも一回で全部注いでて普通に美味しかったし、「(あっ、それでいいんだ…)」って思った。
諸君、私がAI小説なるものと初めて出くわしたのは、ある雨の降りしきる午後のことだった。私の叔父アガサス・ウィンプルトン・フォーブス(文学界では「老いぼれの鷹」として知られ、批評家たちからは「あの忌々しい老いぼれ」と呼ばれている)が私に一束の印刷物を押し付けてきたのだ。
「これを読んでみたまえ、若きバーティ」と彼は言った。声にはイモリを観察する博物学者のような好奇心が漂っていた。「人工知能とやらが書いた小説らしいのだ。まったく、世も末じゃよ」
その時の私の反応は、鮮やかな紫色のネクタイを締めた従兄弟を見た叔母アガサのそれに近かった。つまり、眉をへの字に曲げて「いったい何をお考えで?」という表情だ。しかし叔父の蔵書室から逃げ出す手段は見当たらなかったので、私は言われるがままに一ページめくった。
読み始めて五分と経たぬうちに、私は自分がなんともぎこちない人形劇を見せられているような気分に陥った。言葉は確かに英語(あるいは日本語)で書かれている。文法的にも正確だ。しかし全体を包む雰囲気には、カクテルパーティーで突然「1924年のS and P500の株価変動について議論しましょう」と切り出す男のような居心地の悪さがあった。
ところで読者諸君、ここで私が申し上げたいのは、このAI小説が「内容的に」退屈だったという話ではない。むしろ問題はその文体——いや、文体の欠如と言うべきか——にあったのだ。
ご存知の通り、私はかなりの文体マニアである。ジェーン・オースティンの流麗な皮肉、ヘミングウェイの素っ気ない簡潔さ、あるいはプルーストの果てしない内省——これらは私にとって、マティーニにオリーブを浮かべるように小説に不可欠な要素なのだ。
ところが、この機械の吐き出した文章には、そういった香りや風味が微塵も感じられなかった。それはあたかも、高級レストランでシェフの特製料理を期待していたら、無味無臭の栄養ドリンクが出てきたようなものだ。確かに栄養素は含まれているのだろうが、舌の上でダンスする喜びがどこにもない。
「バーティ、どう思うかね?」と叔父が訊ねた。彼の眉毛は期待に満ちて跳ね上がっていた。まるで噴火を待つ火山学者のように。
「ええと、叔父さん」と私は慎重に言葉を選んだ。「これは確かに文章ではありますが、作家の文章とは言えませんな。むしろ、言葉の集合体とでも申しましょうか」
「ほう、言葉の集合体か」叔父は眼鏡を鼻先でくいっと押し上げた。「面白い表現だ」
「つまりですね、これは料理というより食材の山なんです。シェフが腕を振るう前の状態というか」
この説明に納得したらしく、叔父は「なるほど、なるほど」と頷いた。
その日以来、私はある種の科学的好奇心から、AI小説と呼ばれるものを片っ端から読み漁ってきた。そして今や確信を持って言える——世の中のAI小説は、ジーヴスがいつも言うところの「文体的に不十分である(stylistically deficient, sir)」代物なのだ。
AI小説の世界は、なんとも奇妙なドローンズ・クラブのようだ。ご存じない方のために説明すると、ドローンズ・クラブとは私が所属する紳士クラブで、そこではメンバーが無意味な会話を交わしながら、しかし高度に洗練された作法に従って日々を過ごす。しかしAI小説の世界では、会話は論理的に筋が通っているのに、その洗練された作法——すなわち文体——が欠けている。
それはまるで、嵐の日に一生懸命走っているのに、どこにも行き着かない人々の集まりのようだ。走り方は効率的かもしれないが、そこに独自の身のこなしやリズム、あの「何とも言えない何か」が感じられない。
私が思うに、AI小説が「文体」に欠けるのは、それが「文体を持つこと」の意味を理解していないからだ。文体とは単なる装飾ではない。それは作家の魂の表れであり、世界の見方であり、独自の思考の流れなのだ。
例えば、我が友人ガッシー・フィンク=ノットルは、イモリについて話す時と恋人のマデリン・バセットについて話す時では、まったく別人のように語る。前者では博識で冷静な科学者となり、後者では「彼女の目は星のようだ」と言いながら部屋中を浮遊するのだ。これが「文体」というものだ——同じ人間が状況に応じて異なる言葉の使い方をする、その独自性である。
しかしAI小説においては、すべての場面が同じトーンで描かれる。恋の告白も殺人事件も料理のレシピも、同じ声色で淡々と進行する。それはちょうど、どんな曲でも同じリズムと同じメロディーで歌うカラオケ・マシンのようなものだ。確かに音程は正確かもしれないが、聴いていると魂が枯れていくような感覚に襲われる。
さて、今や普通の小説とAI小説を見分ける方法がある。それを「バーティの文体テスト」と名付けようではないか。方法は単純明快。任意の三ページを読んで、そこに以下のものが見つかるか確認するのだ:
1.意表を突く比喩表現(「彼女の声は、スコットランドの霧の中でバグパイプを吹く羊飼いのように切なかった」など)
2.言葉遊び(「いや、ドラゴンを退治する側が金貨を使うんだ。退治屋さんへの報酬としてね。現実とは、ファンタジーより遥かに資本主義的なものさ」など)
3. 文の長さとリズムの変化(長い文の後に鋭い短文を置くなど)
4.キャラクターごとに異なる話し方
これらが見つからなければ、それはおそらくAI小説か、もしくは残念ながら文体に無関心な人間の書いた小説だろう。
ここで、文体という蝶を見事に捕まえた名人たちを思い出してみよう。彼らは皆、言葉という網で独自の色彩と模様を持つ蝶を捕らえ、読者の目の前に差し出してきた。
ディケンズ氏は複雑な社会風刺と人物描写を、時にコミカルに、時に痛烈に描き出した。彼の文章は、ロンドンの霧のように濃密で、その中に浮かび上がる人物像は忘れがたい。
ジェイン・オースティン女史は、表面上は穏やかな社交界の描写の中に、鋭い観察眼と皮肉を忍ばせた。彼女の文体は高級紅茶のようなものだ——一見繊細だが、意外な風味と余韻がある。
そしてヘミングウェイ氏。彼の文体は素っ気なく簡潔だが、そこには深い情感が氷山の水面下に隠されている。彼の短文は、たった一発で的を射抜く名ハンターのようだ。
これらの作家たちは、同じ英語という素材を使いながら、まったく異なる芸術作品を生み出した。それはちょうど、同じ小麦粉と水から、イタリア人はパスタを、フランス人はクロワッサンを、日本人は饂飩を作るようなものだ。材料は同じでも、その扱い方——つまり文体——によって、まったく別の味わいが生まれる。
ところが、今日のAI小説は、どれもなんとなく似たような味がする。それはあたかも、世界中のレストランが突然、同じ調理法で同じ食材を使い始めたようなものだ。確かに栄養はあるかもしれないが、そこに文化の違いや個性の輝きはない。
ここで疑問が生じる。AIは本当に文体を習得できるのだろうか?
私の従者ジーヴスならば、「それは極めて難しい命題でございます、旦那様」と言うだろう。彼はいつも正しい。
文体というものは、単なる技術的な問題ではない。それは作家の人生経験、感情の起伏、時代背景、そして何より「誰であるか」という存在そのものから生まれるものだ。AIには「自己」がない。生きた経験もない。それはちょうど、泳いだことのない人に海の深さを説明するようなものだ。
しかし、それでもなお希望はある。AIは少なくとも模倣することはできる。優れた作家の文体を分析し、その特徴を取り入れることで、「ウッドハウス風」や「ヘミングウェイ風」の文章を生成することは不可能ではない。それはちょうど、ピアノを弾いたことのない人が、機械的な練習によって曲を再現できるようになるのに似ている。魂は込められていないかもしれないが、少なくとも耳障りではなくなる。
私が思うに、AI小説の真の問題は技術的な限界よりも、むしろそれを使う人々の文学的感性の欠如にある。今日のAI小説を作っている(あるいは指示を出している)人々は、どうやら「本を読んでいない」ようなのだ。
彼らは「面白いストーリー」を求めるあまり、「それをどう語るか」という文体の重要性を見落としている。それはまるで、素晴らしいワインがあるのに、紙コップで飲むようなものだ。内容は同じでも、その体験の質はまったく異なる。
私の友人ビンゴ・リトル(恋に落ちるスピードでギネス記録を持っている男だ)は、女性について「見た目より声の方が大事だ」と言った。これは文学にも当てはまる。物語の内容より、それを語る「声」——すなわち文体——の方が、読者の心に残るのだ。
では、この文体不在のAI文学に対して、我々はどのような処方箋を用意すべきだろうか。
まず第一に、AIを使う作家たち(あるいは「プロンプトを書く人々」と言うべきか)は、もっと古典を読むべきだ。文体の偉大なマスターたちの技を知らなければ、AIにそれを再現させることなどできはしない。それはちょうど、料理を知らない人が一流シェフにメニューを指示するようなものだ——「何か美味しいものを」と言うだけでは、凡庸な一皿しか出てこない。
第二に、AIの出力をそのまま「小説」として発表するのではなく、それを第一稿と考え、人間の手で文体を整えるべきだ。AIが提供する骨組みに、人間が肉付けし、血を通わせるのだ。それはちょうど、既製服を買って来て、自分の体に合わせて仕立て直すようなものだ。
第三に、もっとAIに文体についての指示を与えるべきだ。「面白い物語を書いて」と言うのではなく、「ウッドハウスのような軽妙洒脱な文体で、比喩を多用し、会話のテンポを重視した小説を書いて」と具体的に指示すべきなのだ。
そして最後に、我々読者も文体に対する感性を磨くべきだ。優れた文体を味わい、それが作品にもたらす効果を理解すれば、AIの生み出す平坦な文章に満足することはなくなるだろう。それはちょうど、本物のエスプレッソを知ってしまえば、インスタントコーヒーには戻れなくなるようなものだ。
さて、このエッセイもそろそろ終わりに近づいてきた。クラブで最後のドリンクを注文する時間だ。
私がこのエッセイで主張したかったのは、AI小説に「魂」を吹き込むには文体が不可欠だということだ。内容が面白くても、それを伝える声が魅力的でなければ、読者の心に残ることはない。それはちょうど、美しいメロディーも、下手な歌手が歌えば台無しになるようなものだ。
文体とは作家の指紋であり、声紋であり、そして最も個人的な表現である。AIがそれを完全に再現することは、おそらく不可能だろう。しかし少なくとも、今よりずっと文体を意識した文章を生み出すことは可能なはずだ。
ちなみに私の従者ジーヴスによれば、「文体を気にしない作家は、メロディーを気にしない作曲家のようなものです、旦那様」とのこと。彼の言うことは、いつも正しい。
そして最後に、私の叔父アガサスがよく言っていた言葉を紹介しよう——「バーティよ、作家の才能は物語を作る能力にあらず、その物語をどう語るかにある」。彼は学者として多くの愚かなことを言ってきたが、この言葉だけは真理を突いている。
読者の皆様、乾杯しよう。文体という名の、この最高に複雑で、最高に美しいカクテルに。そしてAI文学がいつの日か、この味わい深いカクテルを提供できる日が来ることを願って。
Whatho!
(P.S. なお、このエッセイに登場する叔父アガサス、ビンゴ、ガッシー、そしてジーヴスはすべて架空の人物です。彼らが実在の人物と似ていたとしても、それは単なる偶然にすぎません。もっとも、私バーティ・ウースターは確かに実在しますが…いや、それも冗談です。さようなら!)
ただただ「自分で挽いた」というエセ満足感を得るためだけのもの
「挽いたときの熱が〜」とか「刃をカスタマイズして〜」とか言ってる人の意見は一切聞かなくて良い
それでもキャンプなんかでは重宝していたが
ぱっと見は臼みたいに見えるがカッター式と呼ばれる
掃除がしにくい上に掃除したら壊れるし、掃除できない場所があるし、掃除しないとギトギトになる
あ、「コーヒー器具は水洗いするな」って言ってる人の意見も聞く必要ないです
挽き目はプロペラを回す時間によって変わってくるので品質が安定しないけれど
それより豆を選ぶ方が圧倒的に味が変わる
ただ、エスプレッソ用の極細とかはどう頑張っても挽けない
昔からあるカット式のナイスカットミル、もしくはみるっこが最強
挽き目が安定するし掃除も楽
どっちかを買っておけば一生使える
カッター部分にめちゃくちゃこだわってたり小型・軽量・バッテリー式などこだわりがすごい
某バリスタ世界チャンピオンに倣って自分も「缶・ペットボトルのコーヒー飲み比べ」をしてみている
https://www.youtube.com/watch?v=rGeozZb8CLY
いくつか飲み比べてみて、今の所↑の人が言う通りクラフトBOSSのペットボトルのやつが美味しいと思った(但し「淹れたてBLACK」である)
基本的にクラフトBOSS出始めで飲んでクソマズと思ったので飲んでなかったが、実はBLACKではなく加糖のものやお茶系を飲んだ感想だったのだなと思い出した
BLACK以外くそまず。甘いお茶系なんぞ一口飲んで捨てるレベル
あと、タリーズのものも基本的に美味しいと思わないんだが(ドリップタイプとかも不味い)、青い缶のやつは美味しかった。クラフトBOSSより好きかも
キリマンジャロか。これは飲みやすかった。クラフトBOSSとともにリピートした
で、今現在、WONDAコクの深味BLACKを飲んでいる。一口目はまあいいかなと思ったけど、缶コーヒー特有のエグミがあってやっぱ嫌かも
ということで、飽きるまで飲み比べを続けていくことにする
缶・ペットボトルコーヒー飲んでると、ドリップする為にお湯沸かさなくて良いから楽
基本的にホットコーヒーしか飲まないのだが、夏場に「紙パックブラックコーヒー飲み比べ」してたこともある。だけどあれ、美味しいの殆ど無い
やたら高いのはちょっと手が出ない。味が値段に比例してたので、程々の金額のもので飲み比べる意味があまりない
成城石井のやつはコスパ良いかな。ミカドコーヒーのは値段の割に「?」と思った
でも、こんなことしてて気づいたときにはコーヒーの粉高騰して買えなくなってたりしそう
今のうちにちゃんとドリップして飲もう(つっても安い粉だけど。国太楼のやつが好きだ)
つーかコーヒー淹れる手間惜しむ様になったらもう終わりだなと思う(自分の丁寧さの最後の砦だから)
あーあー。豆買って炒って挽いて淹れて飲みたいなー。美味しいエスプレッソ飲みたいなー。そんな優雅な生活したいなー(やれよ)
そろそろ出かけるか
コーヒーの豆を持参
アソコで粉にする
お出かけの準備ですね!コーヒー豆を持参して、その場で挽いてもらうのは、新鮮な香りと味が楽しめますね。
お気に入りのコーヒーショップで挽いてもらうのですか?それとも自分で挽く設備のあるところに行くのでしょうか。
素敵な一杯になること間違いなしですね!☕😊
コーヒーの淹れ方にはさまざまな種類があります。まず、ペーパードリップは、紙のフィルターを使用してドリップする方法で、
クリアでスッキリした味わいになります。フレンチプレスは、コーヒーの粉とお湯を直接混ぜてプランジャーで押し出す方法で、
リッチで濃厚な味わいが特徴です。また、エスプレッソは高圧でお湯を通して抽出する方法で、
濃厚で強い味わいがあり、他のコーヒーの淹れ方は何ですか?
コーヒーの淹れ方にはたくさんのバリエーションがあり、それぞれに独特の風味や特徴があります。
さらに、サイフォン式は上下の容器を使って真空状態で抽出する方法で、見た目も楽しめ、
繊細で滑らかな味わいが得られます。エアロプレスはシリンダー型の器具を使って抽出し、
エスプレッソとフレンチプレスの中間のような味わいが得られる方法で、キャンプなどのアウトドアにも適しています。
最後に、コールドブリューはコーヒーの粉を水に浸して数時間かけて抽出する方法で、まろやかで甘みのある味わいが特徴です。
出崎監督の手掛けた昭和版持ち上げて、今やってるベルサイユのばらの映画版けなしてるおじさん(もう初老かも)嫌い。
薄っぺらでキラキラした作画がむず痒いって、元の50年前の少女漫画忠実に再現してるだけじゃん。リスペクトだよ、それに絵柄は限りなく連載終盤の絵に近づけてるよ。
主線が黒太で劇画調止め絵で顎が長いあしたのジョー絵が見たければ、昭和アニメのDVD擦り切れるまで見てろって話だよ。
歴史群像劇のはずなのに、ペラペラの恋愛モノにされていたっていう意見ね、お前原作読んでないだろ感。
歴史の渦の中で翻弄されつつも愛に生きたマリーアントワネットとオスカルがメインの少女漫画だよ、大河ドラマだって恋愛やるだろアホか。
無糖のエスプレッソみたいな非情ドキュメンタリー風が見たいなら、昭和アニメの終盤だけVHSで見てろ。
曲がペラペラで軽い、平成のアニソンだ、重厚なクラッシックがいいとか言ってるおじさんは、澤野弘之の名前を目の前の薄い板で検索しようね?
気に入らないのは感性が錆びついてる可能性がありますね。二度と関わってるアニメや映画の音楽を褒めるなよ。
薔薇は美しく散るが名曲なのは事実だけど、それ使うわけないじゃん。昭和アニメのリファインじゃなくて、原作のアニメ化なんだから。ミュージカル仕立てで場面スキップが受け入れられないってのは意見としてわかるけどね。
2時間もあって歌ばかり、あれがないこれがない原作に対する侮辱だとかいうおじさん、君たちの言ってる名場面ほとんどアニオリだよ後半の。原作読んでないし原作を愚弄してるのはあなたたちの方でしょうが。
ていうか40話もあってアニオリ入れ過ぎでマリー・アントワネットの断頭台までダイジェストだった昭和版こそどうなの?監督交代があったとは言えそれでも後半20話もあるじゃん。
オスカルは男の中で頑張って実力で黙らせた!部下の前で涙を流しながら理想を語るような女々しい女じゃない!とかもう笑うしかない。女々しいとか言ってしまう古いジェンダー観云々もそうなんだけど、まずは原作読んでこい。心の自由説く場面は原作通りだから。クサイとか言う感想は、金八とか学園熱血ドラマで感動したことがない者だけが言っていいです。
いやまじでなんでそこまで原作まるっと無視の二次創作昭和アニメをそこまで崇拝してんの?時々(無意識だと思うけど)原作まで巻き込んで中傷してるじゃん。こわ。
コーヒーの香りは、それだけでほっこりする魔法のようなものだ。朝、パンと一緒に味わうコーヒーは、一日の始まりに欠かせない。抹茶の渋みとコーヒーの苦みを比べると、同じ「大人の味」でも方向性が違うのが面白い。どちらも奥深い世界が広がっているが、コーヒーはより自由で、個性を楽しむものかもしれない。
例えば、無印良品のシンプルなカップで飲むコーヒーと、アパホテルの客室に置かれたインスタントコーヒーでは、同じ飲み物でも印象が全く違う。ロックな気分のときは、深煎りのエスプレッソがよく似合う。逆に、ほかほかの肉まんと合わせるなら、さっぱりした浅煎りの方がいいかもしれない。京都しぐさのような奥ゆかしさを感じる一杯もあれば、トランプ大統領のように強烈なインパクトのある一杯もある。
婚活で初対面の人とカフェに行くなら、コーヒーの好みを話題にするのもいい。マッチングアプリで知り合った相手と「酸味が強いのはちょっと…」なんて会話をするうちに、相性が見えてくることもある。コーヒーの好みは人それぞれで、豆の産地や焙煎の違い、抽出方法のこだわりなど、まるで沖縄の多様な文化のように幅広い。
ダウンを着て冬の街を歩きながら、カフェでテイクアウトしたコーヒーをすするのも悪くない。お気に入りの漫画『呪術廻戦』を片手に、一杯のコーヒーとロールケーキを楽しむ時間は至福だ。チョコと合わせるなら、やっぱり濃厚な深煎りがぴったり。まるで、パンダのように愛される存在になったラテアートのカフェラテも捨てがたい。
結局のところ、コーヒーはただの飲み物ではなく、シチュエーションや気分に寄り添い、人生のいろんな場面に溶け込む存在なのだ。
アールグレイの茶葉とヨーグルトをまぜ水切りし(つまり水切りヨーグルト)そのまま食べたり、ちょっとオシャレなものに添えるやつ。
アールグレイが水を吸うので柔らかくなるし、香りも良い、という触れ込み。
実際はアールグレイが水を吸ったところで砂とか異物にしか思えないし、栄養的効果もよくわからない。茶葉が大きかったのかと砕いてみたが同じだった。
茶葉入りケーキのイメージだったが、そんなことはなかった。誰やねん始めたやつは。
インスタントコーヒーと砂糖を同量混ぜて(大体大さじ2ずつのレシピが多い)泡立てる。氷の入ったグラスに牛乳を入れてその上に泡を乗せて完成。
超まずい。コーヒーで映えるものを作れと言われただけのもの。韓国人はコーヒーの味知らんのとちゃうか。腹立たしい。人生で一番腹立たしい飲み物だった。
泡立てることでコーヒーの酸味がたち、とにかく甘い砂糖が押し寄せてくる。牛乳にたどり着くまで地獄。牛乳にたどり着いて、混ぜても苦い。本当に苦い。なにどんだけインスタントコーヒー入れんの。エスプレッソ超えてるって。無理無理無理。
しかも氷と泡が立ってるせいでグラスにまとわりついてきれいに溶けないんだよ。食材無駄にした感じが更にむかつく。
あまりにも不味くてレシピを疑い作り直してみたが、人生で最悪な瞬間をもう一度味わえるだけだった。
(便宜上余った)餅と牛乳を暖めて混ぜて、砂糖を合わせ、卵焼き器で蒸し焼きにするもの。
味はフレンチトースト。味の加減ではすごく美味しいし、食えなくはない。
問題は食感だ。どろどろで、生焼けのホットケーキを食ってる気分になってくる。火は通ってるけど、気分が良くない。やはり餅は小麦には勝てないという日本人の敗北を味わうレシピ。
https://anond.hatelabo.jp/20250107173201
これ賛成意見多いし、言わんとすることもガチガチの論理で詰めていけば不満言ってる側が正しそうな感じも理解はしてるんだけど。
これに本気で共感できる人ってどんなホワイト企業で働いてんの?
タリーズじゃないカフェチェーンで働いてたけど、大きさ別に入れるシロップのポンプ数とか、エスプレッソの数とか、トッピングとか、覚えてこいと言われたけど
自宅じゃなかったらどこで覚えるわけ?
バックヤードに勉強スペースがあるとでも?暗記だけの静かな時間に時給発生するってこと?なんか考えられない。
じゃあ塾講師が生徒から学校の宿題のバックアップ求められるのとかもドライに「業務外なんで」って断らなきゃ労基?
SEが最新のトレンドに追いつけるよう自宅学習するのも給与でなきゃ労基?
雇われ料理人が流行りを抑えておけよって食べ歩きを推奨されても食事代補助と交通費と時給が出なきゃ労基?
服飾販売員がおしゃれであることを求められるのに被服費用補助がでないのは労基案件?
正社員なら時間外の時間や行動を拘束しても労基って言われないのにバイトなら言われるってこと?
じゃあUberが配達に必要なバイクや自転車、ヘルメット、バッグを用意してくれないのはなんでありなの?あれは先にこっちじゃ買わないよって言われてるの?先出があればOKなの?
うーん、なんかよくわからん
カフェバイトも覚えること多いよって聞いてたから自分は自宅学習も覚悟してたし違和感なかったよ。
ジョニィがジャイロの淹れるコーヒーをコールタールみたくドロドロだっつってたの、昔はマジでそうなんだと思ってた。
最近ふと読み返して、やたら濃いコーヒーにやたら砂糖を入れるようなイタリア系の食習慣は、アメリカ人の目を通るとオリエンタリズム的な意識を刺激してそう語らせたのかもしれないなって思った。
当時のアメリカでエスプレッソがマイナーだったのかは知らんけど。
でもやっぱアメリカ文学っぽいテーマの通った作品だし、そういう要素もあるよな。
そういうのもいいけど、マジでドロドロであって欲しい気持ちもある。飲んでみてえよな。コールタールみたいにドロドロの甘ったるい回復アイテムをよ。
コーヒーの味を決める条件は下記の通り
以下、一つずつ解説
ぶっちゃけこれでほぼ決まる
米で例えるとコシヒカリとミルキークイーンで味が全然違うようにコーヒー豆にも種類がある
ただ、どれが美味しいというのは無く、アラビカ、ブルボン、マンデリンなど、好みで選べば良い
新潟県の〇〇農場と奈良県の△△農場では水系、肥料、育て方から収穫方法まで違う可能性があるので味の違いが明白になる
我々が入手できるコーヒー豆で農場指定されているものは基本的に品質が高い
米で例えると炊飯器でどのように炊くかによって味が変わるのと同様で焙煎によって味は全く別物になる
焙煎するときはまずピッキングと呼ばれる不良豆を弾く行程が入るのだが
このときにどの程度ピッキングできているかによって焙煎度が大きく変わる
試しにその辺りの安いコーヒー屋で豆を買ってくれば分かるが、豆の中に虫食いで欠けてたり割れてる豆が混ざっている
こういった豆を弾くことが焙煎の仕上がりに大きく影響する
焙煎度合いは豆の種類や産地によっても異なるので、浅煎りが良いか深煎りが良いかは選べば良い
ここまでくれば後はどんな器具や淹れ方を工夫しても味に大差はない
米で例えればお茶碗とお箸に何を使うかというレベルの違いにしかならない
もちろん煮出した場合とドリップした場合、エスプレッソにした場合などで味は大きく変わるが
それはその抽出方法の味の違いであって、コーヒーそのものの味の違いを損ねるものではない
販売している豆がブレンドではなく「ブラジル〇〇農園」「インドネシア△△農園」など農園指定されていればアタリ、それ以外はハズレである
次に実際に豆を買って挽く前に豆をちゃんとチェックする
ピッキングがちゃんとできていたらアタリ、それ以外はハズレである
美味しければ継続だが、そうでなければ他のショップを探した方が良い
同じショップで別の豆を買った場合、アタリを引く場合もあるが大抵の場合はショップの指向する味が違うので別の店の方が良い
どうにかして美味しいショップを見つけられたらコーヒー探しの旅は終わりになる
それまで頑張って探して欲しい
コーヒーの味を大きく変えるのは、まず豆の種類、つぎに焙煎具合、それから水の量、あと飲むタイミング。
水の量は濃度とも言えるな。エスプレッソみたいな高圧を掛けて少ない湯で一気に抽出するのは普通のコーヒーの8倍くらいの濃度になる。これはさすがに味が違う。ドリップやプレスみたいな湯を豆に通す/浸す方式ではそれほど最高濃度に大差はないが、豆の挽き加減(粗さ)で多少変わる程度。粉をケチったり水を多くして薄く作るか標準的な分量で作るかで味は全然違ってくる。
飲むタイミングは温度とも言えるな。豆に注ぐ段階の湯温を気にする人が多いが、何℃だろうが大抵熱湯の域だから大きな差はない。それよりも最終的に飲むタイミングでの温度の方がバラツキが大きくなりがちで、冷めたコーヒーとそうでないコーヒーでは香り成分の揮発具合が違うので味が変わる。コーヒーを味わう体験の半分以上は香りが支えてる言ってもいいからな。