
はてなキーワード:ウーマン・リブとは
1970年代〜80年代にかけて、「性の解放」(sexual liberation)はフェミニズム、LGBTQ運動、ヒッピー文化、反権威主義の潮流の中で重要なキーワードでした。特にウーマン・リブ運動の一部では、性を抑圧から解放し、女性も主体的に性を楽しむべきだという主張がありました。
しかしこの「解放」は、しばしば次のような批判の対象となりました:
商業ポルノ産業が「性の解放」を巧妙に取り込み、むしろ女性の性的搾取を助長した
→女性の裸体や性行為を「自由」として売り物にすることで、男性の欲望を満たす装置に変貌。
→特に職場や大学などで、「オープンな性文化」のもとにハラスメントが横行した例も報告されています(例:セクハラという言葉が1980年代に米国で普及)。
上流階級・白人女性によるフェミニズムが「全女性を代表する声」とされたことへの批判
→ 実際には、育児労働、家庭内暴力、性産業への従事といった問題が一般女性に集中していた。
このような問題提起から出てきたのがインターセクショナリティ(交差性) の概念です。
1989年、キンバリー・クレンショウ(Kimberlé Crenshaw) によって明確に理論化
→黒人女性として、白人女性中心のフェミニズムでも、黒人男性中心の反人種差別運動でも「見えない存在」にされてきたことを批判。
インターセクショナリティは、性別だけでなく、階級、人種、性的指向、障害の有無などの複数の差別軸が交差することを問題にします。
つまり、「上流階級の白人女性のフェミニズム」が主流を占めていた時代に、性の解放=自由であり善であるという前提が、階級・人種的に周縁化された女性の現実をまったく反映していなかったという批判がインターセクショナリティの視点からなされるようになったのです。
アンドレア・ドウォーキン(Andrea Dworkin)
→ポルノグラフィを性暴力の一形態として厳しく批判。ポルノ産業が「性の解放」を利用して女性の搾取を正当化したと主張。
キャスリン・マッキノン(Catharine MacKinnon)
→性的自由の名のもとに、女性の身体が公共空間で商品化されることに警鐘。
→黒人女性にとってのフェミニズムと、階級・人種を無視した主流フェミニズムの限界を指摘。
bell hooks(ベル・フックス)
→白人中産階級のフェミニズムに対し、「抑圧されているのは白人女性だけではない」と再三批判。とりわけ「性の解放」が階級間で異なる意味を持つことに注目。
性的自由を掲げた70〜80年代のフェミニズムの一部は、今でも「セックス・ポジティブ」な運動として評価されていますが、一方でポルノ・売春・性の商品化をめぐる議論は今なお分裂的です。
インターセクショナル・フェミニズムは現在の主流理論となっており、「誰の自由か」「誰の声が抑圧されているか」という問いが常に問われるようになりました。
性の解放は一枚岩ではなく、誰にとっての自由か? 誰の犠牲の上に成り立つのか? という問いがいまもフェミニズムの核心にあります。
1970年代〜80年代にかけて、「性の解放」(sexual liberation)はフェミニズム、LGBTQ運動、ヒッピー文化、反権威主義の潮流の中で重要なキーワードでした。特にウーマン・リブ運動の一部では、性を抑圧から解放し、女性も主体的に性を楽しむべきだという主張がありました。
しかしこの「解放」は、しばしば次のような批判の対象となりました:
商業ポルノ産業が「性の解放」を巧妙に取り込み、むしろ女性の性的搾取を助長した
→女性の裸体や性行為を「自由」として売り物にすることで、男性の欲望を満たす装置に変貌。
→特に職場や大学などで、「オープンな性文化」のもとにハラスメントが横行した例も報告されています(例:セクハラという言葉が1980年代に米国で普及)。
上流階級・白人女性によるフェミニズムが「全女性を代表する声」とされたことへの批判
→ 実際には、育児労働、家庭内暴力、性産業への従事といった問題が一般女性に集中していた。
このような問題提起から出てきたのがインターセクショナリティ(交差性) の概念です。
1989年、キンバリー・クレンショウ(Kimberlé Crenshaw) によって明確に理論化
→黒人女性として、白人女性中心のフェミニズムでも、黒人男性中心の反人種差別運動でも「見えない存在」にされてきたことを批判。
インターセクショナリティは、性別だけでなく、階級、人種、性的指向、障害の有無などの複数の差別軸が交差することを問題にします。
つまり、「上流階級の白人女性のフェミニズム」が主流を占めていた時代に、性の解放=自由であり善であるという前提が、階級・人種的に周縁化された女性の現実をまったく反映していなかったという批判がインターセクショナリティの視点からなされるようになったのです。
アンドレア・ドウォーキン(Andrea Dworkin)
→ポルノグラフィを性暴力の一形態として厳しく批判。ポルノ産業が「性の解放」を利用して女性の搾取を正当化したと主張。
キャスリン・マッキノン(Catharine MacKinnon)
→性的自由の名のもとに、女性の身体が公共空間で商品化されることに警鐘。
→黒人女性にとってのフェミニズムと、階級・人種を無視した主流フェミニズムの限界を指摘。
bell hooks(ベル・フックス)
→白人中産階級のフェミニズムに対し、「抑圧されているのは白人女性だけではない」と再三批判。とりわけ「性の解放」が階級間で異なる意味を持つことに注目。
性的自由を掲げた70〜80年代のフェミニズムの一部は、今でも「セックス・ポジティブ」な運動として評価されていますが、一方でポルノ・売春・性の商品化をめぐる議論は今なお分裂的です。
インターセクショナル・フェミニズムは現在の主流理論となっており、「誰の自由か」「誰の声が抑圧されているか」という問いが常に問われるようになりました。
性の解放は一枚岩ではなく、誰にとっての自由か? 誰の犠牲の上に成り立つのか? という問いがいまもフェミニズムの核心にあります。
「リベラル・フェミニズムだけがフェミニズム」という主張は、フェミニズムという多様な思想運動を一方的に狭め、他の潮流を不当に排除する傲慢な姿勢です。
フェミニズムは単一の思想体系ではなく、複数の視点や分析枠組みからなる運動であり、ラディカル・フェミニズム、マルクス主義フェミニズム、エコフェミニズム、ブラックフェミニズムなど、多様な潮流が相互に批判しつつ発展してきました。
あなたが言う「リベラル・フェミニズム」こそが、むしろ歴史的には後付けのレトロニムであり、資本主義社会との親和性が高いから支配的に扱われただけのことです。
第二波フェミニズムにマルクス主義の影響があるのは事実ですが、それは階級とジェンダーの交差性を理解しようとする理論的努力であり、フェミニズムを脱線させたものではありません。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ジュリエット・ミッチェル、ナンシー・フレイザーらは、資本主義と家父長制の関係を精緻に分析し、女性の抑圧の構造を暴いたのです。
「女 vs 男」という二項対立に単純化してる時点で、あなたの理解はあまりにも幼稚で、せっかくの批判が分析ではなく情緒に堕している。
ウーマン・リブ(Women's Liberation Movement)は第二波フェミニズムの中の一運動であって、「リブこそ正統でフェミニズムとは別」とするのは歴史的にも論理的にも誤りです。
そもそも“リブ”とは“フェミニズム”のラディカルな実践の別称であり、「フェミニズムとは別物」などという言説は無知からくる無理筋の線引きにすぎません。
フェミニズムは常に男性のジェンダー規範や抑圧にも目を向けてきました。あなたが知らないだけです。
例:ラディカル・フェミニズムは、「男らしさ」や「支配性」が男性自身を苦しめていると繰り返し指摘してきた。
例:第三波フェミニズムでは、男性のマスキュリニティ、セクシュアリティ、権力構造が精緻に分析されています。
そもそも「男も女もジェンダーから解放されるべきだ」という主張は第二波の中核的理念のひとつであり、それが「今のフェミニズムにない」などというのは無知か意図的な捏造にすぎません。
批判されることに慣れていない男性が、構造的権力の分析を「攻撃」と捉えるのは理解できます。しかし、それは被害者意識を根拠にした論理のすり替えにすぎません。
「ミサンドリー(男性嫌悪)」と「構造的批判(ジェンダー制度の批判)」を意図的に混同することで、自分が攻撃されているように感じるのは、特権的地位からの転落感の反映であって、フェミニズムのせいではありません。
フェミニズムは、単に「女性の味方」ではなく、全ての人間がジェンダーの制約から自由になることを目指す社会理論かつ運動体です。
あなたのように「かつてのフェミニズムは純粋だったが今はダメ」というノスタルジックな妄想にすがる姿勢こそ、ジェンダー平等の敵であり、過去に学ぶふりをして現在を理解する努力を放棄した反知性主義の表れです。
ウィイイイイイイッス! どうも〜█████で〜す。
えー…どうも。えー、今日はですねぇ…まぁ、僕の動画を見てくれてる視聴者のみなさんは、非常に、こう、知的なレベルが高い方が多いんでね。今日は、そういうみなさんに、ぴったりの、えー、テーマを、持ってきました。はい。
今日のテーマは、「男女のコミュニケーション」について。えぇ。なんで、女性は、「私の気持ち、察してよ!」って言うのか。そして、なんで、男性は、それができないのか。この、永遠の謎に、僕が、えー…まぁ、じっくり、深く、深く、えー、斬り込んでいきたいなぁと、思いますぅ。
というのもね、なんかぁ、ネットで、ものすごーい長い、論文みたいな記事を見つけまして。タイトルがね、なんか、「視線の逆転」…なんちゃらかんちゃら。まぁ、難しいタイトルやったんですけど。
要するに、ですよ。その記事が言いたいのは、昔は、女の人が、男の人の気持ちを「察する」のが、当たり前やった、と。例えば、武士の奥さんとか、昭和の、あの、「亭主関白」の時代のお母さんとかは、旦那さんが、口に出ささなくても、「あ、今、お茶が飲みたいな」とか、「そろそろ、お風呂に入りたいんやな」とか、全部、察して、動いてたわけじゃないですか。それが、まぁ、良妻賢母の、務めやった、と。
でも、今は、逆ですよね。どっちかって言うと、女性の方が、「なんで私の気持ち、わかってくれないの!」「言わなくても、察してよ!」って、男に求めるようになった。
この、大逆転現象は、一体、いつ、なぜ、起こったのか?っていうのを、まぁ、歴史とか、社会とか、心理学とか、いろんな角度から、分析してる、すごい記事やったんですよ。
で、今日は、その、難しい論文を、僕が、みなさんのために、世界一わかりやすーく、えー、解説してあげようかなと。はい。僕の、この動画を見れば、もう、男女間のすれ違いは、なくなります。はい。僕が保証します。
えーとね、まず、その論文の第一部で書かれてたのが、「昔の女の人は、すごかった」っていう話ですね。
まぁ、武家の奥さんとか、想像してもらったらわかりますけど、旦那さんは、外で戦ってるわけじゃないですか。家のことは、全部、奥さんが取り仕切ってたわけですよ。使用人の管理から、食料の確保、ほんで、時には、政略結婚で嫁いできて、スパイみたいなこともしてた、と。
これって、ものすごい能力ですよ。常に、旦那さんの顔色をうかがって、藩の状況を読んで、家の立場が悪くならないように、水面下で、色々、立ち回ってたわけです。この、「察する」っていうのは、生きるための、生存術やったんですね。
昭和の時代も、まぁ、そうですよね。「亭主関白」って言葉がありますけど。お父さんは、会社で働いて、家に帰ってきたら、もう、王様ですよ。「おい、風呂」「おい、メシ」「あれ、取ってくれ」。これだけで、お母さんは、全部、お父さんが何を求めてるか、察して、動いてたわけです。
これ、なんか、今聞くと、「男尊女卑だ!」とか言う人いますけど、僕は、これはこれで、一つの、完成された、家族の形やったと思うんですよ。男は、外で戦う。女は、家と、旦那を守る。ちゃんと、役割分担ができてて、ある意味、効率的やったんちゃうかなぁと、思いますね。
まぁ、僕の親はねぇ…うーん…まぁ、色々、ありましたけどね。まぁ、お袋は、どっちかっていうと、口うるさい方やったんでね。「あれやっときなさい、これやっときなさい」って。まぁ、僕のことを思って、言うてくれてたんでしょうけど。まぁ、でも、なんだかんだ、僕が落ち込んでる時とかは、何も言わずに、僕の好きな、カレーライスとか、作ってくれてましたからね。あれも、一種の、「察する」やったんかなぁと、今になっては、思いますけどね。えぇ。まぁ、ええわ。
ほんで、話は戻りますけど、じゃあ、なんで、その、「女が男を察する」っていう時代が、終わったのか。
その論文の、第二部ですね。ここで、転換点が来るわけですよ。
戦後ですね。日本が戦争に負けて、新しい憲法ができて、男女平等だ、と。女性にも、選挙権が与えられたり、男と同じ給料を払いなさい、みたいな法律ができたりしたわけです。
ほんで、ウーマン・リブ?とかいう、まぁ、女性の権利を主張する運動が、盛り上がってきた、と。
要するに、女性が、「私たちも、自分の意見を言っていいんだ」「嫌なことは、嫌って言っていいんだ」っていう、そういう考え方を持つようになったんですね。
これが、全ての始まりですよ。
今までは、旦那さんに、理不尽なこと言われても、じっと耐えて、旦那さんの機嫌を「察する」しかなかった女性たちが、力をつけたわけです。「あなたの言うことは、おかしい」「もっと、私の気持ちも考えて!」って、言えるようになった。
まぁ、気持ちは、わからんでもないですよ。うん。抑えつけられてたものが、爆発した、っていうのはね。
でもね、僕は、ちょっと思うんですけど。これが、ちょっと、行き過ぎちゃったんじゃないかなぁと。
権利を主張するのは、いいですよ。でも、その結果、「言わなくても、私の気持ちを察してよ!」っていう、新たな、ワガママが生まれたんじゃないかなぁと、僕は思うんですよ。
よくある話ですよ。女性が、いましてね。で、まぁ、デートとか、するわけじゃないですか。ほんで、男性がレストランとか入って、「何、食べたい?」って聞くでしょ。そしたら、「なんでもいいよ」って言うんですよ。
で、男性が、「じゃあ、パスタにする?」って言うと、なんか、ちょっと、不満そうな顔するんです。「え、パスタの気分じゃないの?」って聞くと、「ううん、別に…」とか言うて。
いや、どっちやねん!って話でしょ。
で、結局、ピザを頼んだら、「あ、本当は、お肉が食べたかった…」とか、後から言うんですよ。
いや、先に言えよ!と。
ほんで、男性が、「じゃあ、なんで、なんでもいいって言ったの?」って言うと、決まってこう言うんです。「私の気持ち、察してほしかった…」って。
…もうね、アホかと。馬鹿かと。
言わなきゃ、わかるわけないでしょ、人の気持ちなんて。エスパーじゃないんだから。
で、こういう、「察してほしい」っていう気持ち。これね、その論文にも書いてましたけど、日本の、とある精神科のお医者さん…えー、ツチイさん、でしたかね。その人が言うには、これは、「甘え」の構造、らしいんですよ。「甘え」。
赤ちゃんが、お母さんに、「お腹すいた」とか「おむつ替えて」とか、言葉で言えないでしょ。でも、泣いたり、ぐずったりすることで、「僕の気持ちを察して!」って、アピールするわけですよ。ほんで、お母さんは、それを察して、ミルクをあげたり、おむつを替えたりする。この、母と子の、言葉を超えた一体感。これが、「甘え」の原点らしいんです。
つまり、「察してほしい」って言ってる女性は、精神構造が、赤ちゃんと一緒なんですよ。相手の男性に、お母さん役を求めてるんです。「私が、言葉にしなくても、私の全てを理解して、受け入れて、私の欲求を満たして」っていう、究極の「甘え」なんですね。
これ、どう思います? 僕、これ読んだ時、なるほどなぁー!と、思いましたね。
だから、「察してちゃん」は、精神的に、自立できてないんですよ。
…逆にね、僕なんかは、人の気持ちを、「察しすぎて」、失敗したことありますからね。えぇ。
まぁ、有名な話ですけど、僕、アンチに、ネカマに騙されたこと、あるじゃないですか。
あれなんか、まさにそうですよ。僕は、相手が、か弱い女性やと思って、なんとか、力になってあげたい、と。相手が、直接「助けて」って言わなくても、その、文章の端々から、「あ、この子、今、悩んでるんやな」「寂しいんやな」っていう気持ちを、僕が、一方的に「察して」、優しくしてあげよう、としたわけですよ。
その結果が、あれですからね。はい。見事に、騙されたわけですから。
だから、人の気持ちを察するっていうのは、もちろん、大事ですよ。でも、「察しすぎる」のも、問題なんですよ。僕みたいに、お人好しは、特にね。えぇ。
えーと、どこまで話したっけ。あ、そうそう、時代の変化で、女性が強くなった、と。
ほんで、その論文の第三部。ここが、一番の、核心部分ですね。
この、「男が女を察するべき」っていう、今の風潮を、決定的にした、元凶。それが、何か。
それは、80年代、90年代の、マス・メディア。特に、テレビドラマと、女性雑誌。これですよ。
その記事で、例に挙げられてたのが、ドラマの『██████████』。
これ、僕もね、リアルタイムではないですけど、再放送かなんかで、ちらっと見たことありますけど。あの、ヒロインの女性、えー、████さん?でしたっけ。
もう、めちゃくちゃじゃないですか、あの人。
自己主張は強いし、感情の起伏は激しいし、言うことはコロコロ変わるし。で、恋人の、███くんに、常に「私の気持ちを察して!」って、無茶ぶりするわけですよ。
ほんで、███くんが、それに、うまく応えられないと、「███のバカ!」とか言って、キレる。
いやいやいや、わかるわけないでしょ、あんなの。
僕、見てて、完全に、███くんの味方でしたからね。頑張れ、███!って。あんな、ワガママな女、ほっとけ!って、テレビの前で、応援してましたから。はい。
でも、世の中の女性は、あの、リカさんに、自分を重ねて、「そうそう!男って、わかってくれないよねー!」って、共感したらしいんですよ。信じられんですね。
で、あのドラマが大ヒットしたせいで、「現代的な、イケてる女は、リカさんみたいに、感情が複雑で、男に理解を求めるのが当たり前」「男は、███くんみたいに、優柔不断で、女心を察するのが下手。でも、それを、必死で学ばないといけない」っていう、おかしな、共通認識が、日本中に広まっちゃったんですよ。
恐ろしいですよね、テレビの影響力って。
昔は、なんか、性の解放とか、難しいこと書いてたらしいですけど、80年代ぐらいから、「恋愛のマニュアル」みたいになっちゃった、と。
「セックスできれいになる」とか、「抱かれたい男ランキング」とか。
恋愛を、なんか、ゲームみたいに、「どうやったら、男を攻略できるか」みたいな、そういう、戦略的なものとして、捉えるようになったんです。
これも、おかしいですよね。恋愛っていうのは、もっと、心と心のぶつかり合いでしょ。駆け引きとか、テクニックとか、そういう、不純なものじゃないんですよ。
僕はね、そういうの、大っ嫌いなんですよ。
好きなら、好きって、ストレートに言うべきなんです。男も、女も。その方が、よっぽど、誠実でしょ。
まぁ、僕の場合、見てくれが、これなんでね。よく、█████の、█████さんに似てるって言われるんで。黙ってても、女性の方から、寄ってくることが、多いんですけどぉ。えぇ。
でも、僕は、ちゃんと、心で繋がりたいんでね。そういう、上辺だけの関係には、興味ないんで。はい。
…と、またまた、話が、逸れましたけど。
えー、まぁ、そういうわけで、メディアによって、「女は察してもらう側」「男は察する側」っていう、今の、歪んだ形が、完成した、と。
ほんで、最後のですね。
「感情労働」っていう言葉、みなさん、聞いたことありますかね。感情の「感」、労働の「労」。
要するに、感情をコントロールするのも、仕事のうちですよ、っていう考え方ですね。例えば、キャビンアテンダントさんとか、看護師さんとか、お客さんや患者さんの気持ちを「察して」、常に笑顔でいなきゃいけない。自分の感情は、殺さないといけない。これも、大変な「労働」だ、と。
で、こういう、感情労働っていうのは、圧倒的に、女性が担うことが多い、と。
だから、女性は、普段から、仕事でも、プライベートでも、人の気持ちを「察する」っていう、大変な感情労働を、いっぱいやってるわけです。
その見返りとして、「私だって、たまには、誰かに、私の気持ちを察してほしい!」って、パートナーの男性に、求めてしまう、と。
でも、それは、やっぱり、「甘え」なんですよ。さっき言ったね。
自分が大変だから、あなたもやりなさい、っていうのは、ちょっと、違うんじゃないかなぁ、と。
で、この「察してほしい」っていう、甘えの欲求。これを、男性が、満たしてあげられるかどうか。これが、愛の証明、みたいになっちゃってる、と。
男性が、女性の気持ちを、うまく「察する」ことができたら、「あ、あなたは、私のこと、こんなに愛してくれてるのね!」って、女性は満足する。
でも、失敗したら、「あなたは、私のことを、愛してないのね!」って、なるわけです。
これ、男からしたら、たまったもんじゃないですよね。いきなり、テスト出されてるようなもんですから。
コミュニケーションの、すれ違いじゃなくて、もう、愛情の、踏み絵みたいになっちゃってるんですよ。
これねぇ、僕、アンチとの関係にも、言えることやと思うんですよ。
僕が、動画で、何か発言するじゃないですか。そしたら、アンチは、その言葉の、表面だけを捉えて、揚げ足を取って、批判してくるでしょ。
あれは、僕に対する、「甘え」が、全く足りてないんですよ。
僕のことを、本当に、リスペクトして、信頼してくれてる、ファンのみんなは、僕が言った言葉の、その裏にある、真意を、「察しよう」としてくれるはずなんですよ。「あ、█████さんは、こういうことが言いたいんやな」って。
でも、アンチには、それがない。だから、いつまで経っても、僕とアンチの心は、通じ合わないんですね。悲しいことですけど。
…僕ね、昔、バイトしてた時、ありますけど。そん時の、店長が、ものすごい、気分屋でね。
機嫌がいい時と、悪い時で、言うことが、180度、違うんですよ。
周りの、バイト仲間は、「今日の店長、やばいな」とか、「また、言ってること違うわ」とか、文句ばっかり、言うてました。
でも、僕は、違いましたね。
僕は、その店長の、眉の動きとか、声のトーンとか、足音とかで、完璧に、その日の店長の機嫌と、次に何を求めているかを、「察して」動いてましたから。
「あ、今日は、機嫌が悪いから、先に、掃除しといた方がええな」とか。「あ、今、声のトーンが上がったから、そろそろ、あれが欲しいんやな」とか。
だから、僕、人の気持ちを察する能力、めちゃくちゃ、高いんですよ。ほんまは。
でも、それを、他人に求めようとは、思わない。
なぜなら、それは、さっきから、何回も言うてますけど、相手への「甘え」だからです。そして、それを求めるのは、精神的に「自立」できてない、証拠だからです。はい。
なぜ、現代では、女性が男性に「察する」ことを求めるようになったのか。はい。僕の解説で、完璧に、理解できたと思います。
じゃあ、どうすればいいのか。
もう、答えは、一つしかないですよ。
男も、女も、大人なんやから、大事なことは、ちゃんと言葉にして、伝えましょう、と。
「言わなくてもわかるだろ」っていう、傲慢な考えも、捨てましょう。
ちゃんと、お互い、向き合って、コミュニケーションを取る。これが、一番大事。
僕は、こうやって、自分の考えを、ちゃんと言葉にして、みんなに、伝えてるじゃないですか。僕は、察してちゃんじゃない。ちゃんと、コミュニケーションを取ろうと、努力してるんですよ。
だから、僕の動画を見ていれば、みなさんも、自然と、正しい、健全なコミュニケーション能力が、身につく、と。そういうことですね。はい。
いやー、しかし、疲れましたね。この、難しい記事を、ここまで、わかりやすーく、噛み砕いて解説できるのは、まぁ、世界でも、僕ぐらいのもんでしょうね。えぇ。元々の文章より、僕のこの解説の方が、100倍、わかりやすかったんじゃないかなぁと、自負しております。はい。
しかし、バーにおいて実際にアルコールを口にしたのは、『青鞜』の中心人物であったらいてうと荒木郁子の二人だけであったという。当時は女性がアルコールを飲みに出かけることが一般的ではなかったため、ほかのメンバーたちは躊躇してしまったのだ。女性解放を掲げる人たちでさえ古い慣習の束縛は強かったのであり、その中でらいてうが非常に自由な精神をもっていたことがうかがえるだろう。
らいてうが訴え続けた女性解放、男女同権の考え方は、戦後社会の中で徐々に結実していく。1950年代から始まる経済の高度成長と、60年代後半からの「ウーマン・リブ運動」を経て、女性が社会に出て仕事を持つことは珍しいことではなくなる。それと同時に、戦前までの女性に対する蔑視や偏見も薄らいでいった。
それを象徴する現象として、女性が飲食店などでビールを当たり前に楽しめるようになったことが挙げられる。1956(昭和31)年の調査では、「女性もビールを飲んでよいか、飲まない方がよいか」の質問に、女性の過半数以上が「飲んでもよい」と回答。高度成長期に入ると、戦前は男性が占有していたビアホールに、続々と女性が進出しビールを嗜むようになる。『青鞜』のメンバーでさえ束縛されていた、女性が飲酒することに対する社会的偏見は、戦後社会の発展の中で急速になくなっていったのだ。
文化人類学者たちの報告によれば、現代においても、アマゾンとまではいかなくても、女性上位の社会はいくつか存在するようである。しかし、地球上の大部分の社会では、我々の社会のように、男性上位になっている。これに不満をいだく一部の女性たちが、最近、ウーマン・リブとやらいう運動をはじめて話題を呼んでいる。ウーマン・リブとはウーマン・リベレイション、つまり女性解放のことである。
だいたい女は男にくらべて脳細胞の数が少ないせいか(日本人の場合、脳の重さの平均値・男1372.9グラム、女1242.8グラム)浅はかさと愚かしさをもってその身上とし、それがまた魅力ともなっているのだが、浅はかさもここまでくれば、いささか許しがたい。
女性解放運動というのは、昔から禁酒運動と同じくらいポピュラーで、同じくらい成功率が低いものである。理由は簡単。禁酒を望む酒飲みと同じくらいの比率でしか、解放されたいと願う女性がいないからだ。
ウーマン・リブの指導者にはくやしいことだろうが、大多数の男が男らしくありたいと望むように、大多数の女は女らしくありたいと望んでいる。
ある日、男らしくない男たちが大同団結して、男らしさが、侵略と反革命を支える。男らしさの返上。男らしさの基準で男の優劣をきめる社会に怒りをたたきっける」とわめいてデモりだしたとしたらどうだろうか。あるいは、突然豚に知恵がついて、豚らしさの返上。豚らしさの基準で豚の優劣を決める社会に怒りをたたきつける」と、ブーブーいいだしたらどうだろうか。
女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することである。
現実の第一。原始、古代社会においては、母権社会、アマゾン社会がかなり存在したにもかかわらず、いまは見る影もないということ。これが意味するものは、女性上位社会は、人間社会史において自然淘汰された不適応社会であるということ。社会の不適応性は、その社会体制維持のために、どれだけのエネルギーを必要とするかにかかっている。
歴史上、女性は抱く女から抱かれる女へなることによって自己解放をなしとげ、現に解放された存在なのである。ウーマン・リブが志向しているものは、一種の先祖帰りでしかない。それはフランスの王統派と同じくらいアナクロである。
ウーマン・リブの幻想をかたちづくっている現実無視の第二は、女性が生理的にも心理的にも、抱くよりは抱かれることに適しているのだということに目をつぶっていることにある。人間の生殖器官の構造と機能を一べつしただけで、生理的に、男性は能動的、女性は受動的にできていることがわかろう。
心理的には、女性心理学の第一人者、ヘレーネ・ドイチェが指摘するように、女性の特性はナルシシズムと受動性の二語につきている。しかし、不幸なことには、ごく一部の女性は、正常な女性心理の発達を阻害されて、抱かれることより、抱くことを望むようになる。
マリー・ボナパルトは、正常な女性は膣型であるのに対し、この種の精神的不具の女性は陰核型であるという。陰核は発生学的にいって未発達のペニスである。彼女たちは、膣という素晴しい道具を持っていることを知らずに、陰核がペニスなみでないという点に欲求不満を持ちつづける。その結果は、真のオルガスムスをついに味わえないという結果になる。
ウーマン・リブは、一夫一婦制を、女の性欲求の封じ込めと非難するが、これは彼女たちが精神的不具者であることを公表しているようなものだ。正常な女性の性心理からは、女性が自ら一夫一婦を望むものであることは、あらゆる心理学上のデータが証明している。
多淫な女、複数の男性を望む女は例外なく冷感症、不感症なのである。オルガスムス不全がニンフォマニアとウーマン・リブを生むといっても過言ではない。女性が真に解放されたいと望むなら、早くオルガスムスを味わわせてくれる男を見つけることだ。そしてそのとき、オルガスムスを味わうためには、女は抱くことより、抱かれることが必要なのだということを忘れないことだ。
●知の巨人・立花隆先生による井田真木子著「プロレス少女伝説」評
「プロレス少女」はどうでもいいことを巧みに書いた典型のような作品である。
私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと、私には全く関心がない。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである。
もうひとつはこれだが定期的に同じこと聞いてるよな。知的境界線を感じる
なんで腐はBLでオナニーしてることを隠さなきゃいけない感じなのか
>別に本人はアナルに興味ないのに、エロはすべて自己投影という世界しか知らない派の人から
>SNSとかで突然腐女子ちゃんアナル興味あるよねはあはあみたいな扱いを受けるのがめんどくさいわけですね
>(そんな奴おらんやろとおもったら居るみたいなことがある世の中なんですね)
>ロリコン皆性犯罪者やろ?と界隈の内部事情をよく察してない部外者の異性からぶしつけに責められる的めんどくせ~~~~さがあるので
>全員淑女ですことよ!!!!!ということにしておくのが一番害が少ない、少なくとも現状は
まぁそうなんだろうなと推測する
嗜好のイデアが先にあるってわかった上でも、
ヤプーのイース人みたいな女性権威主義(ちんこ生やす)をやりたいだけ違う?
オメガバースとかも出産代行の子宮畜(ヤプム)じゃないのぉ?とか思わず頭を過ぎるもの
もちろんそんなことはなくて、嗜好のイデアが先に来ているのだから必ずしも自己投影では無いが正解なんだけどね
確かに『全員淑女ですことよ!!!!!ということにしておく』のが一番面倒が無さそう
あと他の増田にあった、
>ホモソーシャルの鉄の掟で「BLに自分の性欲を持ち込むなど言語道断の不届き者、晒し首にして市中引き回し、末代まで被差別身分にしてやる」レベルなのよ
>体育会系集団の「同性愛など言語道断、この恥さらしの軟弱ゲイ野郎」みたいな感じかな。とにかくすごいホモソーシャルの圧力
>最近ではウーマン・リブ的な感じで「BLでオナニーしたっていいじゃん?」という腐ェミニストのツイートがようやく数百RTくらいはされるくらいにはなったが、まだまだだよ。
だな
男は自殺率が女より高いという話から「男はコミュ障の強がりでストレスを溜め込むからね。でもワタクシはママじゃないし男のストレスは男で解消してね♡」というクソみてえな主張が最近目立って来たので書く。
男性の自殺率が有意に高いのはコミュニケーションが下手とかそんな話ではなく(だいたい下手なんじゃなくてプロトコルが違うだけだろ)、受けているストレスの量が多い≒背負っている責任が重いせいだ。男性自殺の原因トップは経済的な困窮であり、それは友達と話をしたところでそいつが連帯保証人のサインをしてくれない限りストレッサーから逃れる術はない。
日本社会は未だにジェンダーの縛りが非常に重い。扶養控除なんて制度もそうだし、親権が母親に無条件に寄るのもそうだし、医学部の女子に対する入試差別、職場での男女雇用の不均等…あらゆる場所で昔からある「男は仕事、女は家庭」が幅を効かせている。
社会の主役は男性であり、女性は家庭や私的空間を守るためのもの、というのは建前としては消滅したが、未だにあちこちに実在している。
この点については男性も女性も概ね合意が取れると思う。男女差別が存在しないなどと思っている奴はほとんど居るまい。
さて、そうした男性特権の向こう側には特権に比例した責任が発生する。中世の貴族であれば権威を継承する者として、共産主義国ではブルジョアを打倒する模範的同志として、そして資本主義国としては経済の主体としての責務を自動的に背負う。資本主義国で生まれた男子は、程度の差こそあれ「自分が今日の糧を食いつなぐ」という理由と並行して「国家構成員の責務」として金を稼ぐことを求められる。女子は、差別によってこの社会の責任から排除されているのでこれを背負うことはない(多少解消されつつある現代的に言えば「少しは背負っている」が)。
ここで「男ってバカね、意地なんて張らずにそんなの捨てちゃえばいいのに」なんて思った人間も居るかも知れないが、国家がそのイデオロギーを維持しているのはどこかのハンコついた文書に書いてあるからではなく、常に社会の構成員の大多数がそのイデオロギーを実践しているからであり、それが維持されない、誰もが気軽に社会的責任をポイしちゃう国家はその国体が維持できない(ナウルみたいになっちゃうぞ)。気軽に捨てちゃえばいいなどと言ってのけるのは、それこそ責任を持たない者の発言である。
つまり資本主義イデオロギーからの圧があり、男子は絶えずその圧に晒されている。そしてイデオロギーそのものを否定することは不可能(本当は可能ではあるが…今の所資本主義よりうまく行ったイデオロギーがない)で、プレッシャーから逃れる術はない。立身出世しなければならない。大人になったのに親に食わせてもらうことは恥だ。子供部屋おじさん。勝ち組、負け組…そんな言葉が未だに現代に漂うのはこうした圧力が実在することの証左である。
翻って女子の方は、差別によって権限を剥奪されているので社会的な責任が薄い。出世しなくても馬鹿にされないし(させないのだから当然である)、本人が無職を望んでも多方面からごちゃごちゃ言われない(ごちゃごちゃ言われるのは逆のバリキャリとして生きるときだ)。親に扶養されてて情けないと言われることもないし子供部屋おばさんなんて言葉もない。逆に家庭に対しては男子より多くの責任を負わされ、子供の面倒(母乳信仰など最たるものだろう)や地域コミュニティの行事など多くを強制させられるのだが。
この権限と責任の差によって男子は敗北が許されず、弱音を吐くことが認められにくい。責任を果たすために特権を得たのだから負けてはならないし、負けたら資本主義イデオロギーの実践者としてはもう後がない。実際には福祉がありそこに落ち着くが、資本主義イデオロギーの強いアメリカが福祉をアカ扱いする性質があるように、福祉の世話になることはほぼイコール資本主義社会の責任から降りる事を指すので、圧を受け続けた人間ほどここで死を選んでしまう可能性がグンと上がるのは想像に難くない。こうして経済的困窮による自殺が男性に寄る。
フェミニズムの運動とはこうした性差別を排除し、社会へ進出し、女性に強制させらた役割にNoを突きつけ、男性だけが得られた特権を女性にも等しく分配させるための闘争である。
よって、男性から回収した権利には当然責任が伴う。男と同じく、資本主義の無限の競争へと身を置く責務である。社会進出とはつまりはこういうことであるし、少なくとも初期のフェミニズム、ウーマン・リブ運動においては責任ごと請け負う気で女性たちは動いていたと思われる。
少し前に「フェミニストだけど彼氏に養ってもらいたい」といった大学生の記事が出ていたが、とんでもないことである。それは「5000兆円欲しい!!」とかと同義で、お前今まで大学で何勉強しとったんや、教授もうんうん言ってる場合じゃねーぞ、と思ったものだ。
遡って表題の話をするが、こうした権限移譲によって男が抱えて離さないもの…そして背負わされているものを女も手にするということは、奪われたものを取り返す事であると同時に、一つのものを両者で分け合って背負うということでもある。つまり男性の自殺率が高いという話に対してフェミニズム的にすべき話は「こっちも働いてやるから権限をよこせ」であり「男性のことはアテクシは知りませんわよ」などという態度を取るということは、結局のところ未だに自分は社会の中央でなく、主たる責任はどこかの誰かの男性がやってくれるという態度そのものであり、フェミニズムから最も遠いあり方である。
余談であるが、自殺数の男女差でなくそもそも絶対数が他国より多く、過労死がそのまま英語になっている不名誉な現状については上記のジェンダー論ではなく労働問題のレイヤーである。ジェンダーは受ける責任というベクトルを決定付けるもので、その方向に従って加圧されるパワーは純粋な労働量に依存する。そもそも我が国の働きすぎ問題がマシになっていれば、比率はともかく絶対数として死んでいる人間の数は減っていたであろうことは自明である。個人的には、女性が男と同じく過労死するほど働くよりは、男女がそれぞれほどほどに働く未来を夢見たい。
OLがアザトース(人間体にならない)と日々いちゃついている作品ならあるぞ
なぜアザトースを見てもOLが発狂しないかというと彼女は日本語ラップを嗜んでいるからだ(狂気)
なんで腐はBLでオナニーしてることを隠さなきゃいけない感じなのか
>別に本人はアナルに興味ないのに、エロはすべて自己投影という世界しか知らない派の人から
>SNSとかで突然腐女子ちゃんアナル興味あるよねはあはあみたいな扱いを受けるのがめんどくさいわけですね
>(そんな奴おらんやろとおもったら居るみたいなことがある世の中なんですね)
>ロリコン皆性犯罪者やろ?と界隈の内部事情をよく察してない部外者の異性からぶしつけに責められる的めんどくせ~~~~さがあるので
>全員淑女ですことよ!!!!!ということにしておくのが一番害が少ない、少なくとも現状は
まぁそうなんだろうなと推測する
嗜好のイデアが先にあるってわかった上でも、
ヤプーのイース人みたいな女性権威主義(ちんこ生やす)をやりたいだけ違う?
オメガバースとかも出産代行の子宮畜(ヤプム)じゃないのぉ?とか思わず頭を過ぎるもの
もちろんそんなことはなくて、嗜好のイデアが先に来ているのだから必ずしも自己投影では無いが正解なんだけどね
確かに『全員淑女ですことよ!!!!!ということにしておく』のが一番面倒が無さそう
あと他の増田にあった、
>ホモソーシャルの鉄の掟で「BLに自分の性欲を持ち込むなど言語道断の不届き者、晒し首にして市中引き回し、末代まで被差別身分にしてやる」レベルなのよ
>体育会系集団の「同性愛など言語道断、この恥さらしの軟弱ゲイ野郎」みたいな感じかな。とにかくすごいホモソーシャルの圧力
>最近ではウーマン・リブ的な感じで「BLでオナニーしたっていいじゃん?」という腐ェミニストのツイートがようやく数百RTくらいはされるくらいにはなったが、まだまだだよ。
だな
vipでよく見かけたくらいじゃのう。こういうの↓
セクハラ体育教師のエロマッサージが始まり、睡眠薬入り飲料を飲み眠ってしまう音頃さん、裸にされそうになりピンチ!
が、飲み物は飲んでおらず、体育教師の「くそ女」「女なんぞ」という女性蔑視発言に腹を立て成敗する……。女男平等社会を実現するために闘ってるんだと。
これ誰向けに描いてる漫画なんだろう。
少なくとも男女平等を目指す人たち向けではない事はわかる。反フェミ向けなんかな?
第2話は笑顔の圧力で席を譲ってもらった妊婦が男に突き飛ばされ、「妊婦様wwww」って嘲笑してるところを成敗する話。
これ読む人どの登場人物に感情移入すんだろ、席譲らされたサラリーマン?輩が成敗されたからってスカッとはしないよな。
まあファンタジーだもんな……。
男女共同参画の考えと難しさを頭の隅に入れておいてほしい。
そういう話題があれば、少しでもいいから立ち止まって考えてみてほしい。
そして、愛する女性たちを大切にし、労ってほしい。
最近、大学で、理系分野で活躍する女性の育成に力が入れられていることを感じる機会が多い。
国が理系分野の女性社会進出にも力を入れているからだろう。ロールモデルの話もよく聞く。
ただ、講演会に行って思うのは、こういう後押しは決して、ウーマン・リブ的な思想に基づいているのではない、ということである。
大抵は「輝く女性」といった謳い文句が掲げられている。しかし、人口減少で労働力が足りなくなるので、どうにか女性を社会に進出させたい、というのが透いて見える。
そのためか、講演会に行って、しっくり来た試しがない。
先輩方の話を聞くと、いつもあるイメージが浮かぶ。
男性が女性におんぶだっこを求めて、女性がそれを広い心で受け止めている、というものである。
広い心という表現は少し違うかもしれない。要求されることに対して、腹をくくっている、だろうか。
自分の選択に責任を持つのではなくて、勝手にやってくるものすべてに責任を持つ、というイメージ。
ある種のタイプの女性が男性社会に入っていくというより、環境がそういう性格にさせるのである。
子供を産み育て、かつ、勉強、仕事も続けるというのは、非常に大変だと思う。
毎月の憂鬱な生理を抱え、男性と同等もしくはそれ以上を求められる。下手をすると足を引っ張られる。
子供を生むと社会復帰は、現実、容易でない。子供に問題がおこれば母親が矢面に立たされる。
育児休暇等の制度も整いつつあるのかもしれないが、全く追い付いていないと感じる。
労働力不足解消が背景にあるため、突貫工事的な側面があるのは仕方ないとは思う。
しかし、どこまで女性に求めれば気が済むのか、と思ってしまう。
専業主婦という選択肢を持つ人はどのみち減り、本人の意思意向に関わらず働く女性の割合は増える。
法制度は後からしか着いてこないだろうし、政治だけではコントロールできない問題だと思う。
ただ、今後確実に、働き方生き方の問題に直面する女性が増えると思う。
だから、である。自分の愛する人がいるなら、その人のことを大切にして、各々のやり方で労ってあげてほしい。
男性と同等を求められることの酷を少しでも知っていてほしいし、男女共同参画について頭の隅に置いて生活をしてくれたら嬉しい。
こういう話題が出たら、少し立ち止まって考えてみてほしい。
頭の隅にあるのとないのとでは大きく違ってくると思う。
まだ社会人経験もないくせに、ずいぶん生意気な文書になってしまった。
間違ったことも書いているかもしれない。投稿するか逡巡したが、少しでも多様な風通しの良い社会になってほしいので投稿することにした。