
はてなキーワード:アポリアとは
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INSIGHT ANALYSIS:表象の真正性パラドックス
「女性主人公を描けない」創作者の原理的ジレンマ
Core Observation
この投稿者は、フィクション創作において「経験的真正性」と「想像的自由」の矛盾に直面し、表象行為そのものの正当性を疑問視するに至っている。彼が求めているのは「女性を正しく描く方法」ではなく、「自分が女性を描く権利があるかどうかの確証」である。
PRIMARY INSIGHT:批判理論分析 (Mode E)
イデオロギー的構造の解体
この投稿者の悩みは、表面的には「技術的問題」(どう描くか)に見えるが、実際にはアイデンティティ政治の内面化が生み出した認識論的危機である。
内面化されたイデオロギー的前提:
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「描く資格がない」
この論理は、2010年代以降の「文化的専有(Cultural Appropriation)」批判や「当事者性」の政治から派生した規範を、創作者が自己検閲として内面化したものである。
皮肉なことに、これは1980-90年代のジェンダー理論が批判した本質主義そのものである。しかし今回は「進歩的」「配慮的」な動機から再導入されている。
彼は「女性を正確に描く技術」を求めているようだが、実際に求めているのは「女性を描くことへの道徳的許可」である。
生産的矛盾の発見
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これは本質主義の自己矛盾である。「女性」というカテゴリーに本質があると仮定しつつ、実際の女性たちの多様性に直面して混乱している。
イデオロギー批判: 何が隠蔽されているか
投稿者は「正しい女性の描き方」があると仮定しているが、これは幻想である。「女性」は単一の経験的実体ではなく、歴史的・文化的・個人的に多様な存在様態である。
士郎正宗のデュナンを「中身は男性」と断じるが、これは以下を前提としている:
しかしこの論理は、女性を規範に押し込める本質主義そのものである。
「生理を経験していないから分からない」という論理は、人間の相互理解の可能性そのものへの懐疑に至る。
この論理を徹底すれば:
この悩みの背景には、歴史的に男性が女性を対象化・道具化してきたことへの罪悪感がある。しかし、その補正として採用された「描かない/描けない」という態度は:
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過剰補正:
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帰結:
これは抑圧への対抗が新たな制約を生み出すという典型的パターンである。
自己検閲のメカニズム
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内なる検閲官:「それでも不十分だ」「個人差と本質の区別がつかない」
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SECONDARY PERSPECTIVES
系譜学的補足 (Mode C)
この「悩み」の歴史的構築
第1段階 (1970年代以前)
第2段階 (1980-2000年代)
第3段階 (2010年代-)
第4段階 (2020年代)
投稿者は、この第4段階の症例である。彼の悩みは個人的なものではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
現象学的補足 (Mode D)
投稿者が経験しているのは、単なる技術的困難ではなく、創作主体としての自己の正当性への根源的懐疑である。
彼の実存的問い:
投稿者は、この理解の可能性と不可能性の間の宙吊り状態にある。
SYNTHESIS: 深層パターン
この現象が明らかにするもの
アイデンティティ政治は、周縁化された集団の声を中心化しようとした。しかしその論理を個人の創作実践に適用すると:
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20世紀後半のジェンダー理論は本質主義を解体した。しかし21世紀に、配慮・正義・包摂の名において本質主義が再導入されている。
これは解放の言説が抑圧の論理に転化するという、イデオロギーの古典的矛盾である。
この悩みは、フィクションの根本的機能—経験していないことを想像し表現する—への懐疑に至っている。
投稿者のジレンマは、これらすべてを疑問視している。これはフィクション自体の正当性の危機である。
投稿者の不安は、個人的心理ではなく、言説空間の変容が生み出した構造的効果である。
投稿者は誰にも批判されていないのに、架空の批判者を内面化している。
IMPLICATIONS
この個別事例が示す普遍的問題
投稿者は技術的助言を求めているように見えるが、実際に必要なのは認識論的・存在論的再定位である:
1.本質主義からの離脱: 「女性」は単一の経験的実体ではない
2.想像力の復権:経験していないことを想像できるのがフィクションの本質
3.完璧主義の放棄: 「完全に正しい表象」は不可能であり不要
4.対話としての創作:表象は完結した真理ではなく、継続的対話の一部
より広い文化的含意:
↔
歴史的瞬間について:
我々は「誰が何を語れるか」という問いが過剰に中心化された時代にいる。これは必要な矯正でもあったが、新たな問題も生み出している。
INSIGHT CRYSTALLIZED
この投稿者は、フィクションに「経験的真正性」と「道徳的正当性」を同時に求めることで、創作行為そのものの可能性条件—想像力による他者への跳躍—を否定するに至っている。彼の悩みは個人的なものではなく、アイデンティティ政治の論理を内面化した結果生じる構造的効果である。
言い換えれば:
彼は「女性をどう描くか」ではなく「自分が女性を描いてよいのか」という存在論的問いに囚われており、この問いは—その形式自体が—本質主義的前提と想像力への不信を含んでいるため、原理的に解決不能である。
So what?:
この事例は、配慮と正義の言説が、意図せず表現の自由と想像力を収縮させうることを示している。文化の活力には、不完全さを恐れずに境界を越えて想像し、その試みを通じて対話を重ねる実践が必要である。
PUNCHLINE:
彼が本当に恐れているのは「女性を間違って描くこと」ではなく、「女性を描くこと自体が僭越である」と判定されることである。しかしこの恐怖は、最も抑圧的な本質主義—男女は相互理解不可能という観念—を再生産している。解放の言説が、最も因習的な性別二元論を復活させるという究極の皮肉がここにある。
俺はね、やっぱり哲学も純粋数学も役に立たねぇなって思っちまうんだよな。
だが、その瞬間、パラドクスに陥る。この思考自体が哲学的命題であり、その論理構造は数学的基盤に依拠している。
クソッ、頭の中で超弦理論とカラビ・ヤウ多様体が交錯し始めやがった。
11次元の時空間で、プランク長のスケールでの量子重力効果を考慮すると、存在そのものが確率的な様相を呈し、ハイゼンベルクの不確定性原理が存在論にまで拡張される。
昨日なんざ、スーパーでリンゴ買ってて、突如としてペアノの公理系からZFC集合論に至る数学基礎論の系譜が脳裏に浮かんだ。
そして、ゲーデルの不完全性定理とコーエンの強制法を経て、continuum hypothesisの独立性にまで思考が飛躍。
これって、日常的現実と数学的抽象の境界の曖昧さを示唆してんじゃねぇのか?
帰り道、ガキどもがニーチェの永劫回帰について議論してんの聞こえてきて、思わず「お前ら、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』読んだか?言語の限界が世界の限界だぞ!」って叫んじまった。
だが同時に、後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論も考慮に入れねぇとな。
あぁ、またフッサールの現象学的還元とハイデガーの存在論的差異の狭間で思考が揺れ動いてきやがる。
哲学者どもは、こんな認識論的アポリアの中でメシ食ってんのか。
数学者連中だって、ラングランズ・プログラムの壮大な構想の中で、数論幾何と保型形式の深遠な関係に魅了されてるんだろうな。
正直、俺もそんな純粋知性の探求に身を捧げられる連中が羨ましい。
日々の下らねぇ現実に囚われてりゃ、位相幾何学におけるポアンカレ予想の証明やら、P≠NP問題の解決なんて夢のまた夢だからよ。
ったく、人生ってのは、まるでリーマンゼータ関数の非自明な零点の分布みてぇだな。
複雑で、規則性を秘めてそうで捉えどころがねぇ。
でも、その美しさと深遠さに魅了されずにはいられねぇ。
くそっ、また「PrincipiaMathematica」と「存在と時間」を同時に読み返したくなってきやがった。
自分はセックスワーク擁護派だけど、「セックスワーク差別は無知からやってくる」(https://anond.hatelabo.jp/20210714185723)を書いた元増田のロジックはだいぶマズいというか突っ込まれどころが多いので、もう少し理論武装してください。通常の賃労働とは違うセックスワーク固有の困難というのは確かにあって、セックスワーク当事者たちも、そのことはきちんと問題化しているので。
そもそもセックスワークというのはワーカーの安全確保がとても難しい。行為の性質的に、どうしても個別性・私秘性が求められ、たいていは誰からも見られない場所、多くの場合は密室で、1対1で行うということになる。特に非店舗型風俗では完全にアウェイな相手の自室に1人で入っていくことになるので非常にリスクが高い。男性相手の女性セックスワーカーの場合、フィジカルに圧倒的な差がある。事前のルールで決められた以上の行為を強要する顧客もいる。自室にカメラを仕込んで盗撮を仕掛ける顧客もいる。そういった「意図的な悪意のリスク」に一定確率でさらされるというのは、建設現場など通常の肉体労働では起こらないセックスワーク特有のリスクだ。
健康問題についても、「内臓を売ってるってことなら、サラリーマンは眼球を売ってるでしょ」みたいな悪質な比喩は問題を誤魔化してしまう。臓器を売り渡しているわけではないが、臓器(内性器や口腔)を使わせる自由は売っていて、このことには普通の「ワーク」にはないリスクが伴う。特に女性器への挿入を伴うセックスワークは、眼球で何かを見ることとは比較にならない健康上のリスクがある。慢性的侵襲、性感染症、意図せぬ妊娠など、就労を一時中断したり、離職を決断しなければならなくなったり、将来的な妊孕性を損ねてしまうといったケースも普通にある。またワークを通して何かあったときの労災的環境も全く確保されていない。その点、何度も比喩に使われている建設業は、労災や労働環境保全は過去の事故の反省もあって、非常にしっかりしている(たぶん平均的なサラリーマンの職場よりちゃんとしてる)。そういうところも大きな差がある。
セックスワークが売るものは、性行為とその行為に伴うさまざまなファンタジーだ。このファンタジーには「その行為が単なる金銭目当てのサービスであってほしくない、金銭の対価として自分に提供される商行為であってほしくない」という利用者の幻想も含まれることが多い。お金のためにやっているのに、「お金のためだけにやっているわけではない」ようなフリをすることが求められたり好まれたりするという倒錯的な構造がある。たとえば、実際は気持ちよくないのに気持ちよがって見せる、相手に好意を持っているように見せる、セックスが好きだから自分の天職だと演じる、など。別のペルソナを身に付け、本当はそうではないのにそうであるように振る舞うのは感情労働の一種で、このことはワーク当事者にとってストレスになることが多い。多くのサービス業には感情労働的な性質があるが、その「程度」は全然違う。身体への性的アクセスを許して、そのことに快感を感じているように演じて、相手にはビジネス以上の繋がりを感じているように振る舞うということを1日に何回も繰り返すのが、本人の精神的健康にどう影響するか想像してみてほしい。
セックスワークは長く生業とするのが難しい。特に日本の男性向けセックスワーク業界では「プロ」へのニーズが低い。これはさっきの「その行為が単なる金銭目当てのサービスであってほしくない、金銭の対価として自分に提供される商行為であってほしくない」という幻想とも密接につながっている。セックスワーク業界は、セックスワークに関する技術を徹底的に磨いたベテランのプロフェッショナルほどサービスの付加価値が高まる、という構造になっていない。むしろ技術が拙いことが「素人っぽさ」「初々しさ」として評価されることもある。風俗店でもAVでも「新人」には高い価値がつけられる。普通の賃労働では技術の拙さが評価につながることはないが、セックスワークではプロでありすぎないことが求められる。経験を積むことはさほどプラス評価にならない(時にマイナス評価になる)のに、年齢が上がることはマイナス評価に直結していく。技術より容姿・年齢がワーカーの付加価値を左右するから、素人の女子高生・女子大生がセックスワークの分野で高い付加価値を持ってしまうし、加齢を経てセックスワークに携わり続けることが難しくなっている。メディアの発達によって、その気になればいつでも誰でも性行為を売れるようになったことで(援助交際からパパ活SNSまで)、ますますプロの付加価値は下がっている。
これは私見だけど、この構造があるので、元増田の言う「合法化したほうが業界団体ができたり、まともな資本が入ってきたりして安全面含めたセックスワーカーの労働環境がどんどん良くなっていくと思う」については自分はあまり肯定できない。管理されていてセキュリティを確保されているプロは、管理されていないリスキーなアマチュアに売り負ける。今後セックスワークはどんどんネット経由で地下に潜っていく。それを防ぐには、管理売春の合法化と同時に、非管理売春の厳格犯罪化と取締りを行うことになる。普通の「ワーク」にはこんなことは起こらない。このこと自体がセックスワークの特殊性をよく表している。
こういうセックスワークをめぐる構造的問題、特殊性もちゃんとわかった上で、それでもセックスワーカーの権利獲得とセキュリティ向上のために活動しているアクティビストには頭が下がる。そこでしか働けない人、そこでしか働きたくない人がいる以上、そういう人達がより安全に快適に働ける環境作りをしていくという意味では労働運動の正道だし、圧倒的に女性就労者が多い現場で固有の問題を考えていくという意味ではフェミニズムの本道でもある。自分としては精一杯支援したい。
元増田がセックスワークの擁護をしたいなら、こういうセックスワーク当事者や支援者が認識している論点を無視したり、「ワーク」全般とセックスワークを脇の甘い比喩でまぜこぜにしたりして、本人達の意に沿わない正当化をしないほうがいいと思う。あの書き方だと、逆に「無知だけどセックスワーク擁護してる人」になりかねない。
みなさんコメントありがとうございます。自分的に重要な指摘だと思ったことにコメント返します。
id:allezvous 「それを防ぐには、管理売春の合法化と同時に、非管理売春の厳格犯罪化と取締りを行うことになる。普通の「ワーク」にはこんなことは起こらない」法律行為代理や医療行為を筆頭にした資格制の業務でよくあるような
医行為との対比は一度書きかけてやめたのですが、コメントいただいたので少し書いてみます。医行為や法律行為代理が免許制資格になっている理由は、提供するサービスの質を保ち、その利用者を保護するためだと思いますが、上記の理由でセックスワークを許認可制とする場合、その制度設計はワーカー側の身体と健康と安全を利用者から保護することが主眼となり(そのことは利用者を守ることにも繋がると思いますが)、目的と方向が真逆になっています。
セックスワークの特殊性のひとつに「ワーカーの身体による利用者へのサービス」ではなく「ワーカーの身体への、利用者の一時的アクセス権」自体を売るという側面と、それに伴う固有の脆弱性(vulnerability)があります。他の一般的な「ワーク」で、こうした受動的・対象的・客体的な要素を持つ賃労働、「利用者から自分が何かをされるのを受け入れること」自体をサービスとする賃労働を、私は他に知りません(あえて言うなら猫カフェの猫はそうかもしれません)。この構造は、セックスワークが普通の「ワーク」になることを難しくしている、ひとつのアポリアだと思います。
id:aquatofana さん、id:m7g6sさん、id:pekee-nuee-nueeさん、id:yetchさんが、「受動的・対象的な要素を持つ賃労働」の例として、医療・製薬業界の治験バイトを挙げてくださいました。確かに身体そのものの一時的供出、それに伴う健康的・身体的リスクの受忍という点で、似通った部分があります。一方で治験というのは、旧厚生省治験検討会の方針もあって、一貫して労働ではなく善意のボランティアという体裁になっており、支払われるお金も治験協力への直接の報酬ではなく「被験者負担軽減費」(治験参加に伴う物心両面の種々の負担を勘案した、社会的常識の範囲内における費用の支払いによる被験者の負担の軽減のための費用)という名目になっています。報酬金額が制限されていること、終了後に4ヶ月の休薬期間が設けられていることも含めて、「ワーク」にならないような工夫が凝らされています(とはいえ、実際は色々な抜け道を駆使して治験ボランティアの収入だけで暮らすことも不可能ではないようですが)。
国や業界がなぜ治験を純然たる「ワーク」にしなかったのか、してはいけないのか、というのは、セックスワークの「ワークとして成立することの困難」を考えるうえで、ひとつの手がかりになるかもしれません。治験については、おそらく行政にも医療従事者にも『①個人が自己の身体を一時的に相手に使用させ、②相手の〈自己身体の使用〉に伴う身体的・健康的リスクを引き受けること、それ自体を商行為にしてはいけない』という感覚が強くあるのだと思います。
このうち①は、みなさんご指摘のように、多くのセックスワークの業態に含まれている要素です。②は、本来セックスワークの現場からは排除されているべきですが、現実には看過できない頻度で発生している要素です。しかも実際にリスク事象が起こったときには、その責はワーカー自身に帰されがちです。たとえば、ワーカーが性感染症に感染したり、意図せぬ妊娠をしたとして、世の中で利用者・管理監督者・ワーカーのうち誰を責める言説が多いかといえば、圧倒的に「風俗で働いてるワーカーの自業自得」という声だと思います(そしてそのことは、仮に売春周旋行為が合法化されても変わることはないのではないかと思います)。これは、多くの人が「セックスに直接関わる行為には、どれだけ運用を工夫しても一定の身体的・健康的リスクが伴う」と理解していることの現れだとも言えます。
セックスワークには「利用者がやってよい行為」と「やってはいけない行為」の距離が極めて近いという特徴もあります。性的に興奮している利用者は、意図して、あるいは意図せずに、その「やってよい行為」と「やってはいけない行為」を隔てている薄皮を破るかもしれません。いわゆる本番行為がある性風俗店や派遣型風俗では、その〈薄皮〉は0.02mm厚のコンドームだけかもしれません。あるいは、キス禁止にもかかわらず、抱きついているワーカーの顔をつかんでキスを迫ること。本番禁止にもかかわらず、素股というサービスを受けているときにワーカーの腰を掴んで挿入を試みること。おっパブで働くワーカーの乳首を舐めるのではなく、噛むこと。「自己身体そのもののへの直接のアクセスを利用者に許可している」という脆弱な状態にあるので、利用者が予め設定したラインを欲求や興奮とともにほんの少し踏み越えただけで、ワーカーの健康リスクに直結するという構造があります。
建設業では現場の建設従事者に健康診断結果の提出を義務付け、毎朝朝礼を行い、現場パトロールを実施し、ヘルメット・安全帯・安全靴・長袖服の着用を義務づけるなどして、そのワークに伴うリスクを可能な限り抑制します。風俗業界では、店員やドライバー男性による様々な処罰(いわゆる「業界流儀」)によって、そのワークにともなうリスクを可能な限り抑制します。この両者は、似ているようで違います。建設業では、ワークの現場を監視し、ワーカー自身を防護し、事故リスクを減少させ、事故時のダメージを最小化しています。風俗業では、ワーカー自身を利用者から防護することはできません(一時的に身体へのアクセス権を利用者に提供すること=ワーカーの身体を利用者から防護しないこと自体が、サービスに含まれているからです)。管理者がワークの現場を監視し、利用者が「やってはいけない行為」に及ぶ瞬間に介入して中断させることもできません(処罰の担当者は、実際の行為が行われている空間の外にいるからです)。
中規模以上の建設現場では、しばしばゼロ災の継続日数が掲示されていますが、店舗型風俗では、しばしば出禁・罰金などの制裁行為を受けた利用者たちの顔写真が掲示されています(代表的な「業界流儀」です)。これは、後者では、たとえ事後の処罰があっても禁止行為に及んでしまう利用者が一定数いること、そしてその行為の被害を受けたワーカーも同数いることを表しています。セックスワークの現場でワーカーがさらされる健康的・身体的リスクの抑制が「事後制裁」という形式でしか行えず、それが現実に抑制力として100%機能しているわけではないことは、セックスワーカーの安全衛生の確保、そしてそれが大前提になるはずのセックスワークの「普通のワーク」化を困難にしている、重要な要因だと思っています。
この追記の追記、ちょっと取り留めなくてすみませんが、治験という切り口から考えたことをつらつら書かせていただきました。
Permalink |記事への反応(11) | 13:02
有色人種+50点、女性+100点、LGBT+200点という風に、弱者の中で誰を優先すべきかの基準となる数字「弱者力」を社会学者に算出して欲しい。
昨今なにかとネットで叩かれがちの社会学者だけど、複雑化する一方の差別問題へのソリューションになる「弱者力」計算ツールを開発して政府機関や企業がこぞって使うようになれば、社会学が役立つ学問であることを世間の多くの人々が認めるようになり、社会学者の研究費とポストも増えるはずだ。
理系「社会学つーか文系は客観的な数字を出せない馬鹿だから学問ではなくお気持ちでしょ?」
社会科学の中では経済学がもっとも洗練された計量化のツールを揃えていると思うけど、ある人がどの程度「弱者」であるかを測るのは幅広い社会現象が関わるので、これこそ社会学の出番だと思う。
政府は大企業に対して「総従業員の弱者力、合計1万点以上」を義務付けることで弱者のエンパワーメントを促進する。
企業は「当社はゲイ(LGBT+200点)を100人雇うことで法的義務の2倍となる合計2万点を達成しました」とCSR報告書に誇らしく記載できる。
また「弱者力」を使えば弱者同士の利害が衝突した時にも明快なジャッジを下せる。
例えば、トランス女性(男体持ち)が女子トイレを使いたいと主張しているが、シス女性(生まれつきの女体持ち)は女子トイレにペニス持ちが入ってくると性犯罪が増えて安心できなくなるので嫌だと主張している、どちらの利益を優先すべきか?
トランス女性の弱者力:「女性+100点」+「LGBT(トランスジェンダー)+200点」=合計300点
以上より、シス女性よりも3倍も弱いトランス女性の利益を優先すべきことは明白であるので、女子トイレはトランス女性(男体持ち)に開放するものとする。
ここまでネタに見えるかもしれないけど、アメリカの大学入試や就職でのアファーマティブ・アクションでは「弱者力」計算をしているはずだ。
例えば、試験で同じ点数の貧乏白人と中所得黒人の受験生がいたとして、
という風に。
蛇足だが、こういう「弱者」とタイトルに付けた記事を書くと、増田に常駐しているKKOが
「でもキモくて金のないおっさんが弱者力0点に計算されて救済の対象にしてもらえないのは特に問題ないんですよねわかります」
「KKO VS 資産家令嬢Ph.D.持ちGAFA勤務年収三千万女性」
資産家令嬢Ph.D.持ちGAFA勤務年収三千万女性:弱者力 合計100点
内訳
女性+100点(女性は、いかに裕福な家庭で生まれ育ち、高い教育を受け、高所得になろうとも、女体である限り、性犯罪・暴力犯罪の被害者になりやすく、月経による体調不良と妊娠出産を負担させられるという強い弱者性を持つ。地上から性犯罪が根絶され、人口子宮が実用化し、サイボーグ化により男女の身体の差が無くなるまでは、無条件で+100点)
内訳
低所得+10点(万人に平等に与えられた24時間を所得を増やすためのハードワークに費やすも、娯楽に使うのも個人の自由であり、所得はそのような個人の選択の積み重ねの結果である。とはいえ環境による有利不利も無いことはないので+10点)
中卒+5点(所得と同じく、自分の人生の時間を将来の所得を増やすための学習に使うのも、遊んで浪費するのも個人の自由であり、学歴は個人の選択の結果である)
診断済み発達障害+5点(発達障害は外見からわかる障害ではないので弱者度は低め。投薬や療育により改善もできる。もちろん治療を拒否するのも個人の自由。なお一目でわかる身体障害なら+50点)
2型糖尿病+5点(2型は生活習慣病であり不摂生な生活をする個人の自由を行使した結果だから自己責任度が高い。1型なら遺伝性が強いので+20点)
高齢独身+0点(言うまでもなく婚姻は個人の自由。人には家族を持たず孤独に死ぬ自由がある)
以上、KKOが弱者力たった25のただの雑魚、いやただのマジョリティの強者であることが客観的に論証された。社会に救済を求めるなら最低でも女性平均の100を超えてからから物を言って欲しいものだ。
もちろん私は謙虚な素人なので、本職の社会学者の方々の目には、上述の計量化は噴飯ものの稚拙な計算に見えていることは自覚している。
だからこそ、社会現象の分析の専門家である社会学者に、より客観的な「弱者力」計算の仕事に取り組んでいただき成果を社会に還元して欲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20161228170808
ブコメやトラバ含めて「正しさ」という言葉を無邪気に受け入れてる人がちらちらと散見されてビビる。そんなものを自分たちは判別できると信じてる人がいるんですね(そうじゃないブコメもあるけどね)。原理主義がなくならないわけだよね。
何度か増田にも書いた事あるけど,「正しさ」というのは有限時間を生きる我々には判別し難いものなのですよ。
典型的なアポリアであり「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」だったり「ゲーデルの不完全性定理」などを参照してみると良いんじゃないだろか。
論理構造を考えればこれは自明ではあるのだけど一応ざっくり書いておこう。分野を問わず物事の正しさを充足理由律(事象Aの理由はBという構造)で語る場合、我々は議論の俎上で次の問題にぶちあたるでしょう。
増田の言う「暴力」とは「独断」の事なのだろうから,それが暴力であるという指摘ならある意味当たっている。こうした馬鹿げた「独断」を排除するために数学は公理系という協約(いったんここで理由の遡りをやめましょうという約束事)を敷いてるし実験科学は観測結果の有効性を定義する要件と協約を設けている。それは目的上「正しそうな」物に近傍させる為の道具でありそれがid:turanukimaruの言う合意なんでしょね。
なので「正しい」と言う事をベースに論を展開してるお話を見たら人並みの教養がある人はうさんくせーこと言ってるなこのバカって思うので気をつけましょうね。
今回はメテオ
ストーリーや展開、キャラの言動とかに説得力を持たせるには、理詰めや言語化が大事だってことは分かる。
けれども、逆にそれがリアリティを削いだり、不自然になってしまっている部分もある。
だって、ほとんどの人間は自身の感じたものを、すべて言語化しようとはしないし、できないから。
それに、いくら千の言葉を用いたところで、それを全ての読者に正しく読まれて、かつ納得して貰えるかなんてことは不可能なのだから、あえて「理屈を不足させる」っていうのも手法としてはアリだと思うんだけどなあ。
読者側に考察や想像する余地を与えるってのも、楽しく読ませる上では大事だよ。
無駄に反射神経すごいな。
何もないならないで一向に構わないのに、宙ぶらりんな状態だからヤキモキするなあ。
おー、直接的なエロ描写はないが、登場人物たちの感想と同じく「なんかエロい」と思わせてくれるね。
本旨から徐々にズレていく展開は予定調和だけれども、この巻と勇介の疑惑まだ引っ張るのか。
今後も定期的にオチとして使われそうだ。
某テレビ局の「彼氏いらない特集」では映像制作者があまり見た目が良くない人に違う質問をして、都合良く編集をして「彼氏いなくても平気なブス」という映像を作りだした。
さらにその前は安保法制に反対するSEALDsとかいう学生集団と参加者のルックスがいいとか悪いとかいう話があった。
今週の哲学のテストは容姿で皆足切りをしてから中身を見るとか、容姿についてはアポリア的な~とか適当なことを書いた。
最近、どう足掻いても絶望なくらいの同じ学部で同じ回生のドブスのフルショットがフラッシュバックしてくる。ドブスはどう足掻いてもドブスなのを悟っているのかフェミニンな服を着てこない。
しかし、たまにとても小さな目の周りの酷くぶよぶよな部分にアイシャドウなりアイライナーなりチークなり塗りたぐってくるのだが物凄く酷いものがますますひどくなる一方だ。
テストの時も色々とどす黒くて若干凹凸があって脂っぽい肌の目元に塗っていたが、悪い肌と小さすぎる目が悪さのせいかもうバケモノである。最初からバケモノだった気がするが。
皆、なんだかんだドブスをなんとなくドブス扱いしているのに明言しないから恐ろしい。
テスト期間中だが、ロクでもない本を読んだ。
このロクでもない本は自分と同じどうしようもない大学に通っていた女の日記である。
ロクでもない大学の図書館にはこの本は普通の文庫な筈なのに6冊も蔵書があるし、小さな生協の本屋にもあるから爆笑する。
女は70年安保に参加しながらリスカしたり、男絡みでぐちゃぐちゃさせて最後は自殺する。
正直、この本はテキトーに読んだ。
なぜならこの女に腹が立って仕方ないのだ。
「自分の顔は整っているのだが、そこがツライ」みたいなことを書いていたりするし、見ている感じ実家も裕福そうである。
表紙をめくると女の顔写真が出てくるのだが確かに顔がいい。顔写真を見ていると大学の図書館で借りた本なのに破りたくなってくる。
日記中には男からの誘いとかなんか周りが優しくしてくれている印象がする。
こっちも優しくされてーよ。
もし、このクソメンヘラの顔が、あのドブスのように悪かったら売れなかっただろうなと思う。
美しいから売れる。
自分の通う大学の学生は「美しければ価値がある」である。つまり頭の悪い大学だ。
結局容姿な一週間であった。
むかし(とはいえ、新旧石器とまで遡らず)、昌平坂以下のナショナル大は、休講に次ぐ休講であった、とさ。
meには遠藤い歯無し。ばってん 多少 with 興味。
おらが国のLEADERの脳内のどんな具合やか測定して候(ヨロピク★)。そんな画策。
ふと、「Yahoo!」一面とかいうページをみて、思い出す。
「あたたかい場所を 探し泳」(正宗はん←天才!)ぐ事。「影向という移動するファンタズマ」(イソ←?)。
以下、読み書き抜書(換言すれば、C&P)。
「地球の赤道上に固定され、自転する地球に伴って、動いている平衡輪式時計は、地球の南北いずれかの極点に置かれたまったく同じ構造や性能をもつ時計(置かれた場所の違いを別にすれば、これら二つの時計はまったく同じ条件のもとにあるとする)に比べて、非常にわずかではあるが、遅いテンポで時を刻むということである。」(アインシュタイン『相対性理論』 内山龍雄訳・解説、§4. 動いている剛体,ならびに時計に関する変換公式の物理学的意味)