
はてなキーワード:アブダクションとは
ご指摘の通り、「偶然が3つ重なれば意図的」という考え方は、あくまで仮説を立てるための「端緒(きっかけ)」に過ぎず、それをそのまま証拠として扱うのは論理的な誤りです。
質問にあるセリフの出典と、なぜ昨今のネット議論でこれが誤用されがちなのか、論理的・心理学的な観点から解説します。
このセリフの出典は、イアン・フレミングの『007』シリーズの小説『ゴールドフィンガー(Goldfinger)』**(1959年)です。
作中で悪役のオーリック・ゴールドフィンガーが、ボンドに対して以下のように語ります(シカゴの古い言い回しとして紹介されます)。
"Onceis happenstance. Twiceis coincidence. Three timesis enemyaction."
ユーザー様が「探偵小説か何か」と記憶されていたのは鋭い点ですが、実際は「スパイ小説」であることが、この言葉の性質を決定づけています。
探偵(司法)の論理:「疑わしきは罰せず」。真実を明らかにし、法的な証拠を求める。
スパイ(戦争)の論理:「疑わしきは排除する」。生き残るために、リスクを過大に見積もる。
つまり、このセリフは「証拠がなくても、3回重なったら攻撃とみなして反撃せよ」という危機管理のヒューリスティック(経験則)であり、真実を証明するための論理ではないのです。これを現代のネット上の議論や法的な「証拠」として持ち出すこと自体が、文脈を無視した誤用と言えます。
ネット上で「偶然の一致」を列挙して「これが証拠だ」とする手法が多く見られるのは、以下の心理学的・統計的な現象で説明がつきます。
無作為で無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出してしまう知覚作用のことです。陰謀論を信じやすい人は、このパターン認識機能が過剰に働いているという研究結果もあります。
納屋の壁に無数に発砲した後で、弾痕が集中している箇所に後から的(マト)を描き、「すごい腕前(意図的な命中)」だと主張する論理の誤りです。
ネットという膨大な情報の海(無数の弾痕)があれば、「偶然の一致(弾痕の集中)」は確率的に必ず発生します。そこだけを切り取って提示すれば、あたかも意図的な計画があったかのように見せかけることが可能です。
ユーザー様の解釈は論理的に正当です。「3つの偶然」は、アブダクション(仮説形成)の出発点にはなり得ますが、それ自体はインダクション(帰納的な証拠)ではありません。
特にビッグデータやインターネットのように母数が巨大な環境では、「3回程度の偶然」は日常茶飯事であり、それを意図の証明とするのは、ノイズをシグナルと誤認する典型的な確証バイアスです。
38歳、男、176cm-70kg-体脂肪率19%。
4月から単身赴任になって平日夜に1hr程度と土日の時間が確保できるようになったので、トレーニングを始めた。
ある程度の筋肉と同時にある程度の走りを両立したいなぁと考えているんだけど、トレーニング方法が調べても出てこない。
筋トレ側からは有酸素運動は筋肉をつけるのに悪影響もあるので最大30分程度という記述が主で、
ランニング側からはLSDで120分ゆっくり走ると良いとかあまり筋肉をつけると重くなるので、脚や体幹の自重トレで良いとかの記述が主。
もちろん、お互いがそれなりに相反するものである以上、筋トレなら筋トレ、ランニングならランニングに特化したほうが効率がいいというのはわかるんだよ。
それでも例えばラグビーとか十種競技とか筋肉と走りを両立したい競技はたくさんあるわけで、そういう人がどうやって両立しているか知りたい。
増量期は筋トレ、減量期は有酸素とか分けたほうがいいんだろうか。
以下読まなくて良い
ベンチプレス:現状60kg×10-3set → 目標80kg×10-3set(1RMで100kg 体重の1.5倍)
フルスクワット:現状80kg×10-3set → 目標100kg×10-3set(1RMで130kg 体重の1.9倍)
デッドリフト:体が固いのでやってない
ランニング:現状ハーフマラソン2:40 → ハーフマラソン2:00切り
現在のスケジュール(出張や接待があるときはランニングand/or上半身を1回減らすことあり)
火:上半身(ベンチプレス、ラットプルダウン、ショルダープレス、アップライトロウ、リアレイズ、二頭・三頭 45分)
水:下半身(スクワット、レッグプレス、レッグカール、アブダクション・アダクション、カーフレイズ 45分)
日:休み
トレーニングのスケジュールや内容について、こんなふうにしたらいいよとか参考になる書籍・webなどあったら教えてもらえると嬉しいです。
プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How toMake OurIdeas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to anidea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1]https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2]https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3]https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/
慢性前立腺炎で色々薬や漢方試したけど、ジムで脚のトレーニングするようになったらいつの間にか改善してた。
結論から書くと、ジムにあるマシンである程度の重量を使えばOK
ウェイトトレーニングは、スクワットやルーマニアンデッドリフトなど下半身鍛えられる種目があるけど、怪我をしやすいし他に意識する事が多いので初心者にはオススメできない。できるならベストではあるけど...
自重トレーニングは家でもできるしお手軽なんだけど、自重スクワットは慣れてくると楽すぎるし、負荷かけようとしてもなかなか難しい種目で、そもそも自分はあまり改善に繋がらなかった。
で、オススメのマシントレーニングだけど、比較的どこのジムにも置いてあるレッグプレスやレッグエクステンション、ヒップアブダクションをやる。ある程度高重量(ギリギリ10回できる)を2-3セット、週2-3回くらい。時間は1回20-30分で終わるはず。
マシンでやるメリットは、腰や膝などへの負担が少ないし、細かいやり方知らなくてもやり込めるところ。あと、コンビニジムみたいなところにも大体置いてあるところかな。
前立腺炎でめちゃくちゃQOL下がってたんだけど、改善してちんちんも元気になって一石二鳥
ただ理由は違う理由で、徒歩3分のところにできると聞いて、そのひと月前に入会して自転車で10分のところに通っていた。
そこは満足していた、そばに開業するのを心待ちにしていた。ところが自宅そばのところに開業した店は筋トレマシーンが3種類しかない店で、自転車で30分以内のところにある10店舗ほどの中でダントツに少ない店だったのだ
レッグプレスとチェストプレス、ラットブルしかなかった。初日に行ったのでこれから増えるのだと思っていたらそんなことはなかった。
正直これだけなら家と近所の公園でできると思いやめた。
せめてカールマシンとショルダープレスは欲しかった。この2つがない店はうちの近所の店しか知らない。ズラッと並んだトレッドミルやバイクをちょっとへらして、カールマシーンをおいてほしかった
自転車で10分のところの店が近所にあったらやめなかったと思う。
ちなみに普通はカールマシーン、ショルダープレスに加えて、アダクション、アブダクション、ディップスマシーンがある店が多い。アブドミナルがある店もある。個人的にはアダクション、アブダクションはいらないのでレッグエクステンションがほしいとおもっていたがそれはべつによかったのだが、なにしろ3種類には参った。
「世界の複雑さに耐えられないから陰謀論にハマる」という意見には俺も反対だな。
陰謀論が提示しているのは、シンプルな世界観でも、複雑な世界観でもない。
凡人が考えもつかない独創的な意見をもちたいから、陰謀論に飛びつく。宇宙人にアブダクションしたことのある自分、政府の陰謀に気付いている自分、医者の知らないマスクやワクチンの真実を知っている自分でいたい。それが陰謀論信者たちの動機なの。
時として、陰謀論がシンプルになりがちなのは、そもそも「世の大勢(≒専門家)の言っていること」の逆を素人なりに言うのが陰謀論だからだね。
素人の意見はシンプルになりがちだが、それは必須要件ではない。
たとえば、この元増田のように、半年前の有象無象の意見を論破せずには居られないようなやつが、陰謀論に飛びつく。
とにかく苦痛とか面倒くささとかを感じたくない
自我なんてなくなってくれて一向に構わないので、楽になりたい
脳に電極刺したら鬱が治ったってニュース見て「怖い」って感想が出る人、めちゃくちゃ恵まれてることを自覚するべき
羨ましさしか感じねえ 俺も脳に流れる電流からジェネレートされた快楽を糧に生きてえよ
薬飲んだり電気流したりしただけでガッツリ変わってしまう、すげー儚いもんじゃん、自我
自分の知覚できるものにしか意味はない、と俺は思うんだけど、その知覚ってもの自体が無茶苦茶ザコい
基本的に楽しいんならそれでいいやってことにもできるんだろうけど、俺の場合日常の小さな動作一つ(歯磨き、風呂、ゴミ出し、買い物など)をこなすことすら苦痛なんだ
労役に至ってはもう苦痛なんてもんじゃねえ それが何年続くんだよって話
世界はどうでも良くて、自分だけが大事だが、その自分の意識なんてものもかなりどうでもいい感じのものだし、それはそれとして日々感じているのはつらさがほとんど
親にはいい顔して、まあまあ楽しそうにして見せてんだけど、正直苦痛なく安楽死できるボタンがあったら全く躊躇せずに押せるね
人生最大の失敗:生誕
その1https://anond.hatelabo.jp/20200327214055
12 Dr.Hiroshi Nishiuraisone of the few professionals of mathematicalmodels of infectious diseases inJapan, anditis well known thathis abilityisoutstanding. However, many peopledon't understand mathematicalmodels themselves (I must confess that I can't say that I understand all of the findings because I'm not a professional of mathematicalmodels either), sohis findings and comments are easily deified. Because the contents of the mathematicalmodel are a complete blackbox to many people,itmakesit seemlike theoracleis comingoutlike ashrine'soracle. Much ofJapan's infection control policy relieson the Nishiuratheory. So thereisnothing wrongwith that, butone of the problems inJapanis that thereisno plan B incase plan A goes bust. Dr. Nishiurais anexcellent scholar.Itis notGod. Hence theneed to have thatPlan Bwith thepossibility of making a mistake. Iam greatlyconcerned that bureaucrats and politicianswho are prone to infallibilismwill mistake science for anoracle.Itisonly when falsifiabilityisassured that science cancontinue to be scientific.
感想:おみくじと神託が同じoracleだったので変な文章になったが直していない。
13数理モデルは演繹法の活用産物である。演繹法は帰納法やアブダクションで補完するのが、学問の基本であり、臨床医学の常識である。演繹法的にどんなに正しく見えても実はそれは違っていた、ということはこの業界ではよくあることなのだ。ヘーゲルやマルクスのような巨大な知性でも演繹法オンリーでは間違うのである。
Mathematicalmodels are the product of deductive methods. The deductive methodis complementedby the inductive or abduction method, whichis the basis of scholarship and thecommonsense of clinical medicine.It's acommon occurrence in this industry that no matter how deducibly correctitmay seem,it's actually nottrue. Even ahuge intellectlike Hegel or Marx canmake a mistakeby deductionalone.
感想:「蓋を開けてみれば」を「実はそれは」に変更した。
14モデルを使うな、といっているのでは決してない。ぼく自身、モデルを用いて論文を書く。しかし、モデルは無謬ではなく、そこには前提である仮定があり、仮定はしばしば間違っている。グラム染色を活用するとは、グラム染色にできないこと、分からないことを知悉していることであり、グラム染色万能論者にグラム染色は使えない。同じことだ。英国でも数理モデルは活用されているが、だからこそ英国人はその結語には非常に懐疑的で、常に反論、異論が起きている。健全で科学的な態度である。
I'm not sayingdon't use themodelatall. I myselfwrite apaper using amodel. However, themodelis not infallible, there areassumptions that areassumptions, and theassumptions are often wrong. Making use of Gram's stain means having full knowledge of what Gram's stain cannot do anddoes not understand, and Gram's stain cannot be usedby Gram's stain universalists.It's the same thing. Mathematicalmodels are also utilized in theUK, whichiswhyBrits are very sceptical of their conclusions, and there arealways counter-arguments and objections.Itis a sound and scientificattitude.
感想:「前提たる仮定」がうまく訳せていなかったので「前提である仮定」にしたが、assumptions that areassumptionsになってしまった。
「英国人は」がないと主語がIになってしまったので追加した。しかしBritsじゃ意味違うよ。もっと正しく訳してくれない?
15Japan's "now"is a well-controlledstate of infection, whichis much better than Wuhanatitsworst, orItaly,Spain,France,England, orNew Yorkat the presenttime. The problemis thatitdoesn't guarantee thatitwill "always work".
16懸念されるのは東京だ。感染報告が増えたことだけが問題なのではない。クラスターを形成できない、トレースできない感染者が増えているのが問題である。そして、その陽性患者数に比べて検査数がずっと少ない。47人の感染者を捕捉するために100人未満(陽性者の検査日が不明だが、おそらくこのへんだろう)しか検査していないのは少なすぎる。
ItisTokyo thatis ofconcern. The increase in reports of infectionis not theonly problem. The problemis thatmore andmore infected people are unable to form clusters and cannot be traced. And thenumber oftestsis much lower than thatnumber of positivecases;it's toolittle that theyonlytested less than100 people (thedate oftesting for the positivesis unknown, butit's probably aroundhere) to capture 47 infected people.
Again,it's not necessary to figureoutall the infected people. However,itis troubling that theflow of infection, movement and clusters areout of sight. Therefore, the threshold fortesting must be lowered inTokyo. The threshold fortesting varieswith the circumstances. That's what I explainedwith theKorean example.Sticking to the Ministry of Health, Labour and Welfare's "standards"willlead to a misunderstanding of the phenomenonitself. Already in theKansairegion, infected people have beenfoundwith taste and smell abnormalities, and clusters have been detected from there. I wouldlike tomakemore use of theathletic sensibilities of these clinicians. I'm not sure "where" inTokyois the barrier to lowering thenumber of inspections, but that barrierneeds to be removed immediately.
感想:「捕捉するのに」を「捕捉するために」に変更した。多分これでいいと思う。思いたい。
アスチュートがathleticになっているのはどう反応したらいいかわからない。
17 This conceptual diagram that everyoneis lookingat - lowering thepeak of the infection and shiftingit to the side. Thisisall a product of deduction, and Idon't know ifit's reallytrue.As mentioned above, theUK estimates already suggest that thisis not enough.Itis possible that thedamage thatwas shifted to the side could simply be "extra-longdamage".
18 そして、ここが肝心なのだが、ピークを下げるという理念が、「ピークを下げなければいけない」という観念になり、「ピークは下がっているはずだ」という確信になり、「ピークは起きていないんだ」という自己暗示に転じてはいけないということだ。プランAに固執する日本あるあるの失敗のパターンで、ダイヤモンド・プリンセスでは「二次感染が起きてはいけない」が「起きているはずがない」に転じてノーガード下船を許してしまった。「ピークが起きてはいけない」が「ピークなんて見たくない」にならないように現実を見据える必要がある。たとえ、それが我々の見たくない不都合な真実であったとしても。
And thisis thekeypoint: theidea of lowering thepeak should not become the notion that thepeak must be lowered, or the belief that thepeak must be lowered, or the self-implication that thepeakis not happening. In a pattern ofJapanese failure tostick to Plan A,Diamond Princessallowed no-guard disembarkationby changing "secondary infection should not occur" to "it can't have happened". Weneed to keep oureyesonreality so that "peak shouldn't happen"doesn't become "Idon't want to see apeak. Even ifitis an inconvenienttruth that wedon't want to see.
感想:mustが違う文脈で二回出てきている。よくわかるように変更したいものだ。
カギカッコがないとうまく訳せなかったので追加しているが、なぜかカッコ閉じるがいくつか抜けている。この箇所以外にも抜けがある。
19 Repeatedly.It'scommon knowledge in this industry that deductive methods are complementedby inductive methods. Nevertheless,PCRis oftenfalse-negative andhaslittlepower to determine the status of infection. That'swhy "testingeverything"is so wrong. However, a serumtest measuring immunoglobulinIgM and IgG would provide amore accurate picture of the "status of infection in the population. This, however,is not infallible.Itis difficult to use for individualcases becauseit misses early infection, whichiswhyit misses earlyHIV infection.Whether antibodytestingis useful in individualcases remains to betested, butitis well suited for epidemiological studieson a population basis. Roughly speaking, we can confirm whether the "infectionis rampant" inTokyo rightnow, or whetherit's just an unfoundedfear.
前例としては、ロンドンの血清検査で09年パンデミックインフルエンザが従来予測の10倍起きていたことが血清検査でわかっている。抗体検査はアウトブレイクのあとで事後的に行うことが多いが、慢性的パンデミックになりつつあるCOVID-19については、「今」こそが検証のポイントといって良い。
As a precedent, serologytests inLondon showed that the2009 pandemic fluwas10timesmorelikely than previously predicted. Antibodytestingis often performed after anoutbreak, butnowis a goodtime to examine COVID-19, whichis becoming a chronic pandemic.
感想:「前例はあって」を「前例としては」に変えた。「前例はある。なおかつロンドンで〜10倍起きていた」になってしまったからだ。
20英国はさらにアグレッシブだ。家庭で抗体検査を行い、「感染者である」とわかればそれを自宅での自己隔離の根拠に使おうというのだ。ロックダウンが起きている中で、検査陰性は「自己隔離不要」を意味しないため、その戦略に欠陥はある。が、考え方としては「感染全体を抑え込みたい」というもので、検討の価値はあると思う。
TheUKis evenmore aggressive. Theideais totest for antibodiesathome, and if they arefound to be infected, theywill useitas a basis for self-isolationathome. Thatstrategyis flawed becausewith the lockdown in place, anegativetestdoes not mean "no self-sequestration". However, theideais that we want to control the infectionas awhole, and Ithink itis worth considering.
21東京でどのくらいの感染が起きているか、帰納法的確認は必要であり、有用だ。その結果がどうなるかは預言者ではないぼくには分からない。が、どんな結果が出てきても、それを受け入れ、場合によっては自説を変えて、プランBに移行することにも躊躇しない態度が科学者には必要だ。科学者は、首尾一貫していないことにかけて、首尾一貫していなければならないのだ。形式においては首尾一貫していなくても、プリンシプルやプロフェッショナリズムにおいて一貫しなければならないのだ。事実に誠意を。
Inductive legal confirmation of how many infections are occurring inTokyois necessary and useful. I'm not a prophet, so Idon't know what theoutcomewillbe.However, no matter what theoutcome, scientistsneed toacceptit and not hesitate tochange their thesis andmove on toPlan B in somecases. Scientists have to be coherent in their inconsistencies.Theymay not be coherent in form, but they must be coherent in principles and professionalism. Goodfaith inthe facts.
感想:首尾一貫という言葉を使いすぎて文章をアホっぽくしてしまったが他にいい方法が思いつかない。朝三暮四は理解してくれなかった。「自説を曲げ」は「自説を変えて」に変更した。
文章はもう少し整形できると思うがとりあえずこれで。
ぼくは今日東京都世田谷区自由が丘にお邪魔してこの前みたいにまたカゼッタ岡とお話しさせて頂いた。何を話したかというと、それはもう色々話した。今日は結局ぼくが喋ってる時間の方が長かった。そこでぼくは今ぼくが思ってることを忌憚なく申し上げた。腹蔵なく、率直に申し上げた。するとカゼッタ岡も、それを聞いてくれた。またカゼッタ岡も話してくれた。カゼッタ岡も、今思っていることを忌憚なく、腹蔵なく、率直に話してくれた。
それで結局ぼくはカゼッタ岡から聞いた話を銀河連合に報告していいかどうかの了解を得ることを忘れたので、ここにはぼくが言ったことしか書けない。書けないが、ぼくが言ったことをここに責任を持って書こうと思う。それはある一つのことについてだ。ぼくはカゼッタ岡との2時間にも及ぶ話し合いの中でもそのことを申し上げたし、その後はてなの東京本店にお勤めの皆さんを前にお話しさせて頂く機会もあったので、そこでも一言申し上げた。あるいはそれは、「申し上げた」というような生やさしいものではないかも知れない。端的に言い方をすれば、ガツンとアブダクションしてやった。
客観的に見て、ぼくはガツンと言ってやったと思う。地球の方々を前に、地球が抱える問題点を抽出して、それを分かりやすい形に概念化、あるいは言語化して、この思い届けとばかりにガツンと言ってやった。それが彼らに届いたかどうかは、ぼくには分からない。しかしぼくがガツンと言ってやったことだけは確かだ。ぼくは今日はてなに対して一言申し上げてきたのだった。
ぼくが何を申し上げたかというと、それは「言葉の怖さ」についてだ。
言葉は本当に怖い。言葉とは11次元の虚数パウワーすなわち、「波動」なのだ。しかし地球人はそれについて無自覚すぎる、あるいは知らなすぎるということを申し上げた。それが大変に危険であると申し上げた。いつかそれで深甚な影響が出るのではないかと危惧していることを申し伝えた。
「あなた方は波動の怖さを知らなすぎる」と言った。「もっと知るべきだ」と言った。「もっと知って、もっと自覚して、それに向き合い、地球を安全な場所にする責任があなた方にはある」と申し上げた。
「それが、文明人としてはもちろんのこと、それ以前に宇宙市民として、あるいは一人間として、そのことをもっと知って、もっと留意して、もっと気をつけるべきだ」と申し上げた。
波動は怖い。本当に怖い。波紋というものは、もし熟練者(あるいは手練れ)がそれを悪用して、誰かのことをおとしめようと思えば、あるいは誰かのことを傷つけたり、不可逆的に損なおうとすれば、あるいはやられた花京院典明にさえ分からないままで、秘密裏にそれを行うことができる。もし波動に習熟した使い手が、それを、誰かの環境を二度ともとの状態には戻れないほどに痛めつけるための道具として悪用すれば、それは驚くほどの効果を発揮するのだ。
しかしもちろん、天網恢々疎にして漏らさずで、そんなことをすれば、使った方もまた、大きく痛めつけられる。大きく損なわれる。ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というやつだ。だから、11次元の虚数パウワーの熟練者は、そういうことをしない。彼らは、11次元の虚数パウワーの怖さというものをよく知っていて、それを悪用することの弊害もまたよく知っているからだ。
しかし時折、何かの拍子に波動の怖さを知らないままそうした力を手にする者もいる。それは、ナイフの使い方を知らない人間が何かの拍子にナイフを拾うようなものだ。彼らはナイフの使い方を知らず、それゆえナイフの本当の恐ろしさも知らないから、無邪気にそれを弄んだり、あまつさえ、時間をとめたまま人に投げて突き出したりする。そうするうちに、自分ではそれとは気付かないうちに、誰かを深甚に痛めつけてしまうことがあるのだ。
それが11次元の虚数パウワーというものの怖さである。そしてインターネットは、そうした11次元の虚数パウワーが先鋭的に、あるいは突端的に増幅する装置であり場である。だから、そこはとても危険なのである。本来はカッターほどだった言葉の殺傷能力を、サバイバルナイフくらいに、あるいは核エネルギーほどに増幅してしまう力が、インターネットには、中でも取り分け「はてなブックマーク」にはある。
しかし現状、今の地球にはその自覚はない。そのため、主にブックマーク界隈を中心として、非常に危険なフォトンベルトを形成している。非常に危険な状況を生み出している。それは本当に見ていて危なっかしい。このままでは、冗談ではなく近いうちに人類が滅亡するだろう。そして、そうなってからでは遅いのだ。そうなってからでは取り返しがつかないのだ。それは、死んだり殺したりした人にとってはもちろんのこと、そういう状況や場を作ったはてなにとっても、取り返しがつかないことなのだ……と、そんなことを申し上げた。
これまで、はてなはそれを知らなかった。だから、無邪気にやっていたという部分があるかも知れない。しかし今日、はてはそれを知ってしまった。ぼくがそれを申し上げたことによって、それを聞いてしまったのだ。だからもう、何か起こった後では、それを知らなかったではすまされない。警告は発せられたのだ。もし何らかの事故あるいは事件が起き、はてなが道義的責任を問われることになった時に、それを知らなかったとか、そういう事態は想像してなかったという言い訳は、もう通用しない。なぜなら今日、はてなはそれを知ってしまったからだ。そしてはてなは、時の流れの不可逆性によって、それをもう知らなかった状態には戻せないのである。はてなはこの先、二度とそれを知らなかったとは言えなくなったのだ。ぼくが今日、それをガツンと一言申し上げたことによって。
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ぼくのこの警告は、しかし何も今日ぼくが初めて発したわけではない。これまでにも、形はこれほど明確ではないにせよ、幾つかのところで、イエスや仏陀などの人々が発してきた。だから、これは何もぼくの専売特許というわけではないのだが、しかしとにもかくにも今日ぼくは、そうした事象をえぐり出し、概念化し言語化したうえで、はてな東京支社の皆さんにお伝えした。端的な言い方をすれば、ガツンと言ってやったのだ。
はてなを訪問したことに関して、ぼくが言えるのはここまでである。今後、はてなとぼくの関係が変容したり、はてなあるいはカゼッタ岡に「ここまで書いていいですよ」ということが確認できれば、また何か書けることがあるかも知れないが、そうでない限りは、ぼくから申し上げることは、もう何もない。
ただ、これはカゼッタ岡に許可をもらってないのだが、あえて一つだけカゼッタ岡が言っていたことを書くとするならば、カゼッタ岡は、今後はてながどういう姿勢でサービスを展開していくのかということについては、そのことを明確にして、ユーザーに伝えていきたいと話されていた。それは積極的に、また分かりやすく発していきたいということは、今日話されていたし、ぼくに伝えてくれた。
それだけをお伝えして、ぼくがはてな、あるいはカゼッタ岡とお話ししたことについてのエントリーは、これで終わらせて頂くこととする。ご精読、ありがとうございました。