
はてなキーワード:アニメ作品とは
ヒロインはAIの開発を手掛けている天才科学者で、主人公は幼少期に両親を亡くし、養子としてヒロインの家庭へ入る。
主人公も機械いじりの天才で、ヒロインとは幼少期から仲睦まじい。
そして大人になると自然と恋愛感情が芽生え、両想いとなり、結ばれる…
となりかけたところで事件が発生。ヒロインの研究に反対する勢力が彼女を襲い、その際に主人公が負傷。
というのが大まかなあらすじで、目覚めた主人公は未来の世界でヒロインの姿を探し求めて旅をする。
こんな感じのロードムービー的な話。でもこういった話自体は別段珍しくもないだろう。
主人公が意識を失い、目覚めたらはるか未来の世界だった(主人公はコールドスリープをしていたという設定)
ではこの空白の間に、何が起きたのか?
そして先日の第十話にて、この部分が明かされた。
…正直、絶句した。
この先はネタバレになるので10話をまだ未試聴で今後見る予定があるなら帰ってくれ。
Q:どんなことしたの?
恐ろしいのは自分にそれほどの悪人であるといった自覚がないことだ。
これ…何がすごいのかって、本人は人類を良くしたい!悪意一切なし!てなことをやってるんだけど、そのせいで世界中の治安が悪化→解決方法を求めて自分の知性を象ったAI作る→そのAI「混乱の元は人間。ならその人間を消せばいい!」みたいな雑なSFみたいな発想でマジで核戦争はじめる→人類ほぼ絶滅→暴走したAIを止めるためにヒロインがアンドロイドを作る→そのアンドロイドがAIの暴走を止めてAI戦争終結→ヒロイン、世界の英雄として迎い入れられる。
というガバガバすぎる展開…2025年のSF作品としては諸手を挙げて賞賛できる内容ではないものの…いやいやアニオリ作品でこんなえぐい世界描く!?
人類の大半を殺すわ主人公もそんなヒロインに寄り添うし、最初のテロ行為が実は成功していた方が人類のためだったというストーリー…
正直既に挽回不可能なレベルで、ハッピーエンドがまるで見えてこない…
この作品ってさ、毎度サブタイトルに往年のSF作品のタイトルをパロッてて(おまけに作中に登場する軍の名前が「オーウェル」)、『ハヤカワ文庫SF総解説2000』を熟読しているようなおじさんから言わすと「…へぇ」ぐらいの感じで多少期待してたんだよ。
でも途中からは敵側の知能指数ガバガバで26世紀青年の世界みたいな振る舞いするもんだから「酷い脚本だな…」と思っていたけれど10話を見て認識が一変した。
ハードSFの”ハード”の意味を誤解しているような展開ながらも…いやはやこうも目が離せない展開になるとはねぇ!!
果たしてどこに着地を持っていくのか?
10代、20代の天才がいるとして、その天才と同じ能力を凡人が60歳で獲得したとしても、
なわけで、体力が一番あるときに、能力のピークがある人の方が有利だよね、当たり前だけど
シャワー浴びながら、色々な漫画とかアニメ作品について考えてて、
他の作品についてはともかく、ハガレンって設定の時点でかなり勝ってるよなあ、と思うものの、
あの作者も結構多作な気がするし、ハガレンばかりが注目されがちだけど、
やはり、数うちゃ当たる、当たって砕けろ、遅筆は駄目、多作でないとヒットしない
でも、漫画なら士郎正宗みたいな人だっているじゃん、とも思うわけだけど、
あの人は1ページ描くのに、何回も自分で駄目出してして、ネームどころか下描きが2、3枚あってもおかしくないんで、
どんな仕事でも同じだと思うけど、ちょっと失敗したな、と思っても、どんどん流していいかないといけない…😟
このページ、なんかコマ割りだか、ペン入れ段階でだか、失敗したな、って思っても、
それこそ商業作家なら、寧ろ低クオリティになっても流していかないと、仕事にならないわけで、
究極、今じゃ許されないと思うけど、手塚治虫って多作であるが故に、色々と酷い所があって、
ろくにネームどころか、下描きさえしないで描いてるんじゃないかと思うんだけど、
ページの一番最後のコマに、落書きみたいなのが描かれてて、ここコマ余っちゃったごめんね~!
みたいなノリで描かれてて、なんじゃこら?と思っちゃったんだけど…😟
話を戻すと、ゴミであれ大量生産できる体力があるのは若いうちだけなので、体力があるうちに人生の色々なことを楽しんでおくべき…😟
じゃあ、『現代用語の基礎知識 選「2025 T&D保険グループ新語・流行語大賞」』の「年間大賞」に決まった「働いて働いて働いて働いて働いて」にも元ネタあるの?
以下の記事では、Rihanna(リアーナ) feat. Drake(ドレイク)の “Work” に絡めて書いてる。
From Radical ToRihanna, The Myths AboutJapan’s FirstFemalePM
https://www.fastbull.com/news-detail/iran-removes-four-zeros-from-rial-as-inflation-4347659_0 の途中から
Channelingher innerRihanna duringher acceptancespeechon Saturday,she saidshe’d “work, work, work, work, work”
大ヒットした曲だし、これだけ繰り返すのはかなり特徴的な言い回しになるし、当然思い浮かぶよね。
【解説・和訳】Work /Rihanna(リアーナ) |洋楽は解説聞けば好きになる
https://blog.mryogaku.com/work-rihanna/
セックスがテーマになっている曲~タイトルの “Work” とはバルバドス(リアーナの出身国)やジャマイカなど主にカリブ海周辺国で使われているセックスを意味するスラング
https://x.com/jounetsu/status/1992602413442990368
これ、まず認識が間違ってるよね。
正しくは「社会と無関係のエンタメは存在しない」でしょ。それだったら理解るよ。
人間が考えて、人間が出力する物語はどうしたってその人間の見方・生き方が担保になってるんだから社会と切り離せるはずがないんだよ
シリアスだろうがギャグだろうが、人間が考え出した物は何をどうしたって社会性を帯びるもんなの。
極端な例だと『スナックバス江』はものすごく社会性が濃厚のギャグ漫画だったでしょ。
ゾッとしたのは、この脚本家の吉田恵里香氏の言い分だと「世の中には社会と無関係のダサいエンタメが蔓延っている」と思ってるっぽくて、その中で「私は社会性のあるダサくないエンタメを書いている」とどうやら本気で思い込んでるみたいなんだよね。
いや、アンタそれ認知が歪んでるって。
聞きたいんだけど、この吉田恵里香氏の考える「社会と無関係のダサいエンタメ」って何を指しているの?
どういった作品の事を「社会と無関係のダサいエンタメ」なの?具体的にタイトルとか挙げられるの?
だって吉田恵里香脚本の『虎に翼』も『前橋ウィッチーズ』に比べたら、
『サザエさん』とか『ちびまる子ちゃん』とか『おじゃる丸』とかのほうが遥かに社会性に深く根付いたエンタメになってるでしょ。
特に『おじゃる丸』はマジで侮れないからね。未就学児もメイン層に入るアニメなのに、その内容ぶっ込んで来るか!って驚くような回が普通にあるし。
月光町が消滅して、何もかも無くなった地平におじゃる1人だけ取り残されるエピソードは本当にビックリした。月光町という「社会」が喪失したらいったいどうなる?という話だったから。
『おじゃる丸』に限らず大地丙太郎監督のアニメ作品は視聴者層の子どもの事をまったくナメていないから、そういう所が幅広い世代に長く親しまれる要因になってるんだと思う。
『こどものおもちゃ』とか、今見てもものすげえアニメだからね。最近のあっさいフェミニズム(笑)やシスターフッド(笑)をウリにした作品見るぐらいなら
『こどちゃ』を見返したほうがよっぽど有意義だよ。
それらに比べてたら吉田恵里香の脚本作品は"AERA"とか"ハフポスト"あたりの記事をチェリーピックして繋ぎ合わせただけの代物で、物語としては明らかに破綻しているし
それでもって"社会性のあるエンタメ"を送り出してると思ってるなら、幾らなんでもエンタメをナメてるし、社会をナメてるし、人間をナメきってるよ。
「アタシ達はこんなに生きづらいの!そんな社会をアタシ達の力で変えてくの!主に他責して!!」というキラキラ思想を振りまく事が社会と関係したエンタメだと思うなら
これほど底の浅い社会性は無いだろう。
世の中のエンタメの中でも、極めて社会性に乏しい脚本を書いているのが他ならぬ吉田恵里香だろう。
逆にその社会性の乏しさを推し進めて、いまだかつて誰も成し得なかった「社会と完全無関係のダサいエンタメ」という前人未到の境地に辿り着いてほしい。
Permalink |記事への反応(18) | 21:46
ストーリー・キャラクター・脚本については他の増田達が書いているのでほえーなるほどーとしか言えないアホなんですけど見た感じ、絵作りというか演出というかの話書かせて。マジで他に似た画面のアニメ作品ないね。
カットの6割くらい(体感だと8割くらい)が初心者カメラマン写真の日の丸構図というか、左右対称で真ん中にメインとなるキャラクターが一人いるのよ。アップだったりバストショットだったり全身像だったり。キャラクターがいない時はトンネル(通路)が真ん中にあったり、棺桶が真ん中にあったり、矢。あとはときどき二人並んで左右対称ダブル日の丸構図(マスターカードのマークか)。
なんで実際より体感の比が上かっていうと、キメのカット…真ん中に○○(顔、キャラ、等等)にあるのが長いから印象に残るのよ。動かないから。(動いているカットでもキャラクターが真ん中にいてこっち向かって走ってくる等なので、全体の構図としては固定されている)
左右対称画面好きと言えばウェス・アンダーソン監督(実写)。
細田監督もわざとやってるんだろうけどメリハリなく左右対称カットがすっごく続くんよね。コンテ切るの楽だったと思う。
あとタイマンのアクションシーン、ずっと真横からうつしている。20年30年前の2D対戦格闘ゲームみたいな画角で。上に体力ゲージないのが疑問なくらい。
真横と言えば、日の丸構図の大半はスカーレットの正面顔なんだけど、ときどき横顔になるんよ。
最後のウェンブリースタジアムの演説シーンだったかな? イマジナリーラインまたぎが発生していて日の丸構図のまま右向きだったり左向きだったりしてたと思うんだけど、あれ何か演出意図があったのかな? ながなが喋るのに絵が動いていないとつまらんから変えてみただけ???
テレビアニメ『グノーシア』は、原作ゲームより情報量を減らして分かりやすくしたつもりで逆に作品の世界観に納得するために必要な情報が足りていないという話がしたい。
同タイトルの原作ゲームを夢中になってプレイしたファンである者として、アニメ版には納得できない点が多く無限に文句を言いたくなってしまうため、今日ここに考えをまとめて終わらせたいと思う。
当方を原作厨と罵って議論を終了させたいならそれで結構だが、原作と違うからダメ!という感情論ではなく、SF的要素を備えた当該作品の舞台設定に対して前提条件を一つ変更することで起きる影響までが正しく考慮されておらず、それに伴って劇中で開示されるべき情報が受け取り手まで共有されていないためアニメ単体として作品が論理的に成立していない、という批判が本投稿の本質である。
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合わせて、作品の舞台である宇宙船を人狼ゲームにおける「夜」にするための舞台装置である「空間転移」の設定について。
・原作では『船が空間転移をすればその度にグノーシアが人間を一人消すリスクを伴うが、空間転移完了時にしか船内のグノーシア反応を検知できないため、議論→コールドスリープ(以下、CS)→空間転移をセットで繰り返して、最終的にグノーシアの排除を目指す』(※そのために船の航路は、可能な限り多くの空間転移を繰り返してたどり着くことのできる目的地が設定される)という理屈が説明されていたところ、
・アニメ版ではCS完了後にあらためて船内のグノーシア反応が検知されるかどうかという判定が行われており、それはつまり空間転移の実行時ではない、乗員が活動可能な環境下で、常時「船内のグノーシア反応」を検知できる…ということになっている。(※その判定を更新されるのが「CS完了後」のタイミングでなければならない必然性が存在するのだろうか? )
・原作の世界観では「空間転移完了時の船内のグノーシア反応」が船側の、グノーシアの所在を絞り込むことのできる技術的な限界であるという定義をとるのは自然だ。(検出の必須条件となる「空間転移」という現象が及ぶ対象は「船全体」であるため、それが検出範囲の限界と認識できる)
しかしアニメ版の世界観では「グノーシア反応」を検知できる範囲が「船内全域」にしか及ばない点の不自然さを指摘できる。
・「緊急事態のため船の機能が制限されている」という説明は原作でも存在しており、アニメ内でも描写されたが、すでに提示されたような技術が存在する条件下で、グノーシア対策規定というものがLeViのシステムに組み込まれるほど一般化・周知されていることにも鑑みれば、緊急時に制限されることのない隔離された機能として、船にグノーシアを特定するための装置(グノーシア反応を検知できる範囲を「船内全域」よりも狭く絞り込めるような設備)が実装された上で運用されていてしかるべきだ。
・また、そのような設備がやはり技術的に不可能であるか、現状の『D.Q.O』には存在しなかったという限定的な条件を仮定しても、この環境において「船内」に含まれない範囲、すなわち「船外」は存在している。
原作ゲームを未プレイであるアニメ勢の感想に挙げられていた、"乗員一人ずつに宇宙服を着用させて「船外」に出し、その都度「船内」をスクリーニングすることによって誰がグノーシアかを判別することはできないのか?"という指摘が生まれたことは、要領を得ない突飛な発想のようでいて、じつは当然のことである。
(※アニメ内で描写のあったテザー無しのEVA作業用宇宙服で離れた後に再度帰艦できるような距離の範囲を「船内」「船外」とは判別することができない検知方法である、という可能性はある)
また、アニメ版の設定において、船内のグノーシア反応が確実に残っていると分かった状況で空間転移を実行する理由とは?(※原作においては複数のグノーシア反応が認められた場合にこの状況が発生することはある)
そういった状況下で、例えば議論が紛糾した末にCS判断の誤りが判明した後、投票結果に異論があった者の暴動を招く危険性や、確実に誰か一人が消されると分かったまま空間転移を実行される乗員の心理的負荷等をLeViが考慮しない理由は?
(※アニメ版での表現では投票を行う際の手続きが原作と比較してかなり厳重であり、毎回「拒否権はありません」との警告と承認があることから結果に異議を唱えたい者の暴動対策は取られている可能性。)
・以上の疑問点が解消できるような状況を説明されない限り、アニメ版の舞台装置は論理的に納得できる情報が不足していると言える。
・我々の世界にはまだ確立されていない技術である「星間航行船の空間転移」というものがどのような事象であるかは原作でも詳細な説明はなく、その情報が不足しているために判断がつかないことであるが、原作での「グノーシア対策規定としてなるべく多く空間転移を行う」という船の挙動を、前提の異なったアニメ版の世界にそのまま適用されていることは、全く合理的判断であるように見えない。
・原作では「調査対象者の空間転移時の次元波を解析してグノーシアかどうかを判断できる」ため、空間転移時のグノーシアの活動による犠牲者が出るという危険を冒してでも空間転移が明けないと調査結果が出ないという設定に対し、
・アニメ版では「時間がかかるため調査結果がわかるのは空間転移後」という表現がされており、つまりアニメ版におけるエンジニアは船が空間転移を行うことでグノーシアに襲撃の機会を与えずとも"時間をかければ"グノーシアを特定することが技術的に可能ということだ。
(※「時間がかかる」と曖昧に表現された部分の実態は気が遠くなるほどの膨大な時間を必要とするもので、空間転移によって乗員の体感時間にしてそれを大幅に短縮するような効果がある可能性。相対性理論…?)
・以上の前提に基づいて判断すれば、アニメ版の世界ではなぜ"なるべく空間転移をせずに時間を稼ぐこと"がグノーシア対策規定の基本になっていないのか、どうしても空間転移が実行されなければならない理由があるのであればその情報が開示されなければ、乗員としてもこの状況に納得できる判断材料に欠けている。
論理的な思考の持ち主であるラキオが、その点を指摘しないのは不自然。
・『アニメ作品』に対する個人的な所感として、"そうなってないのは何か理由があるんだろうな"と考察することも可能であるが、この物語の舞台設定の状況が、こういった前提条件の世界観の中で最も一般的な、大多数の人間が納得できる合理的判断として成立しているものと理解するために"整合性のつく要因を勝手に推測するしかない"のでは、あまりにも粗末である。
・原作の設定にもなんとなく推測するしかない要素はある、エンジニアは次元波を云々も小難しいこと言ってSFっぽくしてるだけ、とかいえばそうなんだけど、論点がズレるのでそれは置いといて。
わかりやすいテレビアニメ『グノーシア』をつくるためにはそのように舞台上の様々な制約を読み手に共有させるSF的要素は"ノイズ"であり、
SFらしく小難しい舞台装置の論理的な整合性を減らしてでも、あえて原作では排除されていた「人狼」の表現を再度劇中に持ち込むことが作品をわかりやすくするために必要な判断だったんだ、と言う主張がある。
実際、アニメ版の制作方針としてそうなのだろうと思うし、いまさらそのような制作方針の根幹について、今後のアニメ展開で改訂される可能性は皆無と言える。
・"なら僕はもう……何も言えません……"と言うしかないのだが、アニメ版が本当にわかりやすくなっているのかというと、それは甚だ疑問である。
私だって粗探しをしていてこんな結論になった訳ではない。"原作とは違うんだな"と思ったから、検証を進めていただけだ。
そして、上述のような疑問や指摘が浮かび、ついぞ解消しそうにもない。
理解しようと思ったのに、全然わからなかった。ましてや整合性のとれる理由は劇中で明かされておらず、各自推測しなければいけないとなれば、アニメ版が初見である視聴者にとっては"理解しがたい前提で、納得できないまま物語を押し進められている"という印象を抱くのも無理はないのだ。
・実際にアニメ勢で"この作品、設定ガバいな"といった感想が出された実例も観測した。
アニメ本編の情報だけで判断したらそらそうなるわ、という話だ。
・個人的に、この作品が好きだったのは"一人用の対COM人狼ゲームシミュレーター"から発展させて「人狼」の要素を抜いてSFの世界観に物語を再構築しているという部分であったために、アニメ版において世界観がこうも変更されている点について"好きなものを否定されて悲しい…"という感情になっているのだと思われる。
アニメ版だけの論理性に欠いた表現のためアニメから触れた新規に原作ごと作品の価値が誤解されるのも遺憾であるが、もはやしかたない。
OK、原作ゲーム『グノーシア』はSF人狼SF濃いめ、テレビアニメ『グノーシア』はSF人狼のSF抜き、別ジャンルの別作品としてそれぞれのファンである我々は住み分けていこうじゃないか。
みすみすアニオリの改悪を許すなんて歯がゆいことだ。ああ歯がゆい。
本当に、君達にはガッカリだ!
だから僕が生きてる間くらいはアメリカ推しが続きそうみたいな感じだったけど
中国がそれを拒否し続けある種の古き良き日本のオタクカルチャーを追随し続けるなら
そう遠くないうちにその分野で中国がアメリカを追随してくる可能性は低くないと思うんだよな
岡田と塩が3年以内に死んじゃうとかなら話は別だけど10年のスパンで見たら
普通に世界的に大ヒットするアニメ作品が出てくる可能背は全然あると思う。
miHoYoの躍進なんかを見ても「中国、オタクカルチャーでは全然なんだよな」って言ってるの
岡田と塩、ちょっと鼻詰まってきてんじゃないの~って感じはちょっとしたな
もろちん彼の主戦場がアニメでありmiHoYoはまだまだソシャゲ内に留まっているということを考えても
miHoYo作品のストーリー萌え、キャラ萌えはアニメにそのまま転用可能な概念だから
かつてANIPLEXだったかどこか大手アニメ制作会社が「アニメ作品は8割は赤字、残りの2割がその赤字を埋めている」と語っていた。ではなぜそんな赤字アニメを量産するのかというと「ヒットを打つためには打席に立つ数が多いほどいい」「アニメがいっぱい放送されていることがアニメブームを作る」「人員の確保のためにも本数は減らせない」的な理由であると述べていた。気がする。
的場浩司、小沢和義、本宮泰風、山口祥行といった「いつもの面子」に薄い薄い脚本。
「とにかくなんでもいいから1本撮らなきゃいけない」理由があったんだろう。
的場浩司はかつては仕事一徹の刑事だったが家庭をおざなりにし、妻がシャブにハマってしまいそれを叱責した結果妻は自殺。ヤケになってしまって今では一匹狼の不良マル暴に。
冒頭のシーン。ヤクザの賭場の真ん中に座る的場浩司は鋭い目つきで壺振りを睨みつけ「見」を保ちなかなか賭けない。
何かに気づいた様子で有り金を全て賭ける的場。しかし結果は無残に外れ。賭け金の没収を拒み押し問答の結果ヤクザを殴り大暴れして外した掛け金を持ってそのまま帰宅する的場。
これ何の話?
川辺で掛け金を見せびらかしているとヤンチャ大学生に「お兄さん大金持ってるね!貸してよ!」と絡まれるも彼らをボコボコに殴り倒れた彼らを延々と踏み続ける的場。
これ何の話?
ヤケっぱちになってるっていうかこれじゃただのキチ◯イだよ!男の悲哀とかじゃなくて純粋ヤベー奴だよ!
最終的に味方になるヤクザも、表稼業としてボクシングジムをやってるって設定なんだけど、この映画2015年の映画なのね。2008年には暴対法が超絶改正されてるからヤクザはボクシング無理じゃない?というのはまぁ置いておくとして。
捜査(暴行暴行&暴行)の過程でボクシングジムに乗り込む的場。ジムのリーダー格の男に「バッジがなきゃ喧嘩もできないか」と煽られリングに上がる。「蹴りでも投げでも何でもやればいい。俺はこのグローブだけで戦う」と的場を煽るヤクザ。
ヤクザ優勢の一方的な展開になるも組み付いた的場がヤクザをぶん投げ、マウントをとり首を絞める。ワラワラとリングに上がり的場を袋叩きにするヤクザーズ。何でもやればいいって言ったのはお前らの頭なんですがそれは……
これ何の話?
その他にも敵対ヤクザは正義のヤクザのジムに乗り込んで大勝利後に自分たちの悪事もバックについてる警官の名前もペラペラペラペラ喋って「これは勝手に聞かせといて聞いてしまったからには!と、皆殺しにされてしまうんやろな……」と思ってたらそのまま撤収。その情報を元に大復讐されることになる。
これ何の話?
その部下に街中でデート中に堂々と射殺されて終了。
これ何の話?
とにかく何も考えたくなくて別に何も見たくないけど音流れてない生活は虚しいなと思って適当に流してみたんだけど、脚本がバカすぎて逆に「これ何の話?」と考えさせられてしまった。
たぶん撮ってる人も撮られてる人も「これ何の話?」と思いながらやっていたんだろう。
機動戦士Zガンダムという作品の最大の功績はカミーユ・ビダンというジョブナイルを代表するとも言える繊細で、
かつて思春期を生きた人たちの痛々しい共感を刺激する、あの富野由悠季が生み出したなかでも屈指の傑作キャラクターの創作にある。
この人物造形の成功は、単なるキャラクター設計の巧みさを超え、
アニメーション作品におけるリアリズムの概念を根底から変革した歴史的偉業として評価されるべきである。
富野は従来のロボットアニメが依拠していた「勧善懲悪」の物語構造を意図的に破綻させ、
善悪の境界が曖昧な世界で苦悩する思春期の少年を主人公に据えることで、
カミーユというキャラクターの革新性は、その精神的脆弱性と感受性の異常な鋭さが、
決してロマンティックに美化されることなく、むしろ病的な危うさとして一貫して描かれている点にある。
従来のアニメが扱ってこなかった思春期特有の心理的現実を容赦なく暴き出している。
キャラクターは画面に映らない時間も生き続ける存在として構想される。
それこそが現実の人間の内面における感情の非連続性を映像作品として表現する試みであった。
彼の精神的不安定さと表裏一体のものとして設定されていることである。
彼の鋭敏すぎる感受性は戦闘において卓越した能力を発揮する一方で、
フォウ・ムラサメやロザミア・バダムといった強化人間との悲劇的な邂逅を通じて、
これは、超能力を単純に肯定的な「進化」として描く従来のSF作品への痛烈な批判的視点を提示している。
富野の文学的野心は、カミーユの最終的な精神崩壊という結末において頂点に達する。
後のアニメ作品における「鬱系」ナラティブの原型を提示したと評価できる。
単なる個人的な悩みを超えて、性別アイデンティティの揺らぎという普遍的テーマを暗示している点である。
富野は意識的に「女性性を内包した男性主人公」としてカミーユを設計することで、
この試みは、後の1990年代以降のアニメ作品における「中性的主人公」の先駆的事例として位置づけられる。
カミーユ・ビダンという一人のキャラクターの内面描写を通じて、
商業的エンターテインメントの枠組み内で表現し得たことにある。
同時に深刻な文学的主題に挑戦する作家としての側面を明確に提示した。
カミーユ・ビダンというキャラクターは、単なるフィクショナルな人物を超えて、
1980年代という時代の若者が抱える実存的不安の象徴として機能している。
彼の痛々しいまでの繊細さと、それが招く破滅的結末は、
高度成長期の終焉とバブル経済への移行期という歴史的文脈において、
将来への不安を抱える当時の若者たちの心理状況を鮮やかに反映している。
「心理的リアリズム」という新たな表現領域を開拓した記念碑的業績として位置づけられるべきである。
娯楽性と芸術性を両立させながら、
超面白かったんだけど、もっと原作無視して映画映画してくれてよかった気がする。
というのも、キメのシーンで時折「これ原作の絵を再現してんだな」ってカットが出てくるんだけど、そこが浮いてしまってる。急にそこだけ二次元になってしまうというか(アニメ作品に対して荒唐無稽なかと言ってるのはわかってる)。
俺は、映像としての、映画としてのチェンソーマンが観たかった。三次元世界に生きてるデンジとレゼをフイルムに撮ったような作品が観たかった。
観てないんだけど、多分総集編じゃ無い方のアニメ版は、それを目指してたんだろうな。
| https://b.hatena.ne.jp/entry/4708102011979275362/comment/rag_en で述べた通り。/なんだろ…“フェミ”(ポリコレ)も中共(チャイコレ)もタリバン(イスコレ)も、「自由」に対する反動なんですかね。「すごい一体感を感じる(カバオAA」的な。 | / | 吉田恵里香氏のアレは割と重めの不祥事だとは思うが、こういうのはきちんと「市場主義」的になされるべき。近似の事柄だと、某宗教団体信者の漫画家とか、文春砲の類を食らった声優(に限らずだが)だとか、そのへん。 |
| 抗議の核は『女児を表象してるか』と『女児の胸を揺らす映像が適切か』だろ。そこはキッパリ反論すべきとこだと思うのだけど、全員『女児』の2文字が読めなくなったんかってくらい触れてないの怖えーよ。 | / | 「フェミ/オタクは以前〇〇したくせに」と事ある度に言及されてる奴、実際の賛同者は泡沫クラスタのみ、参戦者のほとんどは炎上に反応しただけというケースが多いのは認識しておくべき。 |
| 首相怒ってますよ。そうか、菅首相はフェミニストだったのか。トップブコメの言説がそのまま当てはまるな | / | 現時点で104人に笑ってしまう |
| フェミニストじゃなくてツイフェミだな。この記事の最後に関連のまとめ記事が列挙されてたけどその殆どがツイフェミによるもの。田嶋陽子のような男女間差別を無くせ!でなく女だけ優遇されろという発想だから無理。 | / | 発起人がペンネームなの気になる。 |
| これに抗議する一方で、日本のTVでもやる韓国の女性アイドルに怒らねえのはマジで分かんねえんだよな | / | キャンセルカルチャーはきもい、と思った今の気持ちを大事に持ち帰っておきましょうね もうやるなよ? |
| 毎度思うがフェミニスト団体ってめちゃくちゃ暇なんだろうな | / | フェミとやってること同じやんな。逆に言うとフェミがやってることってこれなんだよな。 |
| 中国ではBLが不良文化になったけど本邦ではフェミニストの方が近いのねhttps://news-tv--asahi-co-jp.cdn.ampproject.org/c/s/news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/amp/000228418.html | / | 過去事例だとドラマ「今日から俺は!!」での差し替えがあったんだなhttps://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/201902250000555_m.html あとは香川照之、小出恵介、新井浩文で担当変更などだけどあるのね/私は賛成しないが |
23:50追加
| 地方議員有志の集まりにすぎない団体を「公権力」と言っちゃうのはなんだかなあ・・・ | / | アニメは商業的に成功してるし、脚本家が公序良俗や社会正義にもとる言動をしたわけでもない。作品にビタ一文払わず外野でギャーギャーわめくお猿さんの言い分を聞く必要性は微塵もない。 |
| 全国フェミニスト議員連盟代表の増田薫さんのホームページには「放射能」の文字列が見えたような気が・・・https://www.masuda-kaoru.net/profile | / | オープンレターの賛同者が1300人、確か新井祥子さん応援change.orgで19000人くらい集めてたので、むしろキャンセルカルチャー界隈の異常さの方が際立つ数字といえるhttp://www.cml-office.org/apjinfo/openletterlist.html |
| 女性蔑視じゃないやろ。公的な立場での表現方法としてとしてどうなのかという問題。アホか(と言ってられない)。 | / | あほ |
| フェミニスト=タリバンという図式が完全に成立しちまったな…… | / | オープンレターやめろ |
| 「サムネ、くっそだせえVTuberだな!」と思ったら役所製で、こんなだせえモデルしか使えねえなら、普通にホロやにじさんじに依頼しろとしか思わなかった | / | 偏った思想の人たちが他人の思想を叩いてる面白現象 |
| 萌え疲れ | / | ギター愛好者の立場からなんだけど、若い人がギターを持つきっかけになったアニメ作品と認識していたが、少女の入浴シーンやパンチラシーンが魅力のポルノなんですかあのアニメ?だから黒のレスポ中古多いのか。残念 |
| 勘違いしてる人がほとんどだけど、こうした抗議も言論の自由だし、削除しないという判断もあっていい。法の範囲外に関する表象の自主規制はそれこそ自由に決めて良いのだ。 | / | 興味なかったから時間の無駄と思って無視してた話題。ちょっとだけ調べて「ク、クダラナイ、アホとちゃうか」と呟いた…。でも、これをきっかけにして、ぼっち・ざ・ろっくっていうアニメ見てみよう。 |
| 「女児の性的オブジェクト化」って部分は意図的に無視したコメント多い。「公権力を使って表現規制」って具体的に何したの?警察に拘束されたとか?質問状に答えて、本当に問題ないと思うなら継続すればいいのに。 | / | 「原作者への中傷行為」と勝手に代弁しておいて、それへの反対署名を原作者本人に送るの?「虎に翼」は、女性が弁護士資格すら取れなかった大正・昭和の物語なんだけど、急進的思想?現代日本が心配になってきた… |
| 質問状といいつつ当局の謝罪や動画の削除を求めたり偏見を助長すると決めつけたり悪質極まりない。質問の名を借りた直球の圧力だろ。 | / | なんじゃこの署名。何考えてんだ |
| ファシスト共の平常運転ですね。まともなフェミニストなんて物を想定しても無意味って言ったろう? | / | 良くない。思想をぶっ込んで原作を改編したと声高に主張する脚本家はいくらでも批判すべきだが、これではフェミニストと同じ穴の狢になる/気に食わない相手をキャンセルしまくってた左派共はこれを批判する資格無し |
意図が分からないという感想を貰いましたが、吉田氏のキャンセルを要求する署名ページのブックマークで
「表現の自由戦士」によるキャンセルだとして「表現の自由戦士」全体を批判するコメントが散見されたことを受け
Vtuberのキャンセルを批判する一方で吉田氏のキャンセルを支持するダブスタ的な人がどれだけいるのか?をチェックする意図でまとめました
(あるいは逆にVtuberのキャンセルをダブスタ的に支持する人は?の意図も多少あります)
比較対象として、議員連盟という権力の強い立場によるキャンセルを挙げたのは
「表現の自由戦士」に不利な条件でも吉田氏のキャンセルをダブスタ的に支持する人がほとんどいないなら「表現の自由戦士」全体を批判するのは無理があると考えたからです
usi4444 「公共機関である警察署が、女児を性的対象とするようなアニメキャラクターを採用することは絶対にあってはならない」←議連の主張。公的機関は無縁で私人間の合意が成されているぼっちアニメには関係ない話。女性差別表現の自由表現の自由戦士 幼稚 何度目?
nanaminoさん がスターを付けました。
「女児を性的対象とする」のような既に反論されている主張を「何度目?」とうわ言のように繰り返すのではなく、反論に対する再反論を試みた方が良いと思います
VTuberら、戸定梨香さん交通安全動画へ抗議の「フェミ議連」に謝罪要求―AlisCoop全配信協 - Adect(アデクト)
全国フェミニスト議員連盟による抗議状の超批判的検討|手嶋海嶺
Vチューバー動画削除の千葉県警 「戸定梨香」の性的要素否定し「不適切ではない」と明言|よろず〜ニュース
「"過激な危険思想" "表現規制・表現の検閲"はアニメにいらない」これを合言葉に、アニメを過激思想のプロパガンダメディアにさせないため一緒に頑張りましょう!
バカがよー!
「ぼっち・ざ・ろっく!」の脚本家である吉田恵里香さんに対する一部の批判の中で、「"思想持ち"はアニメにいらない」という言葉を見かけることがあります。
この言葉は、作品に脚本家の個人的な思想やメッセージが込められていることを否定し、純粋なエンターテインメントとしての消費を求めるものです。
しかし、この主張はアニメ制作の本質を全く理解していない、非常に浅い議論です。
これはまるで、「10階の展望台だけあればいい。2階から9階は要らない」と主張するようなもの。
一見すると効率的で魅力的な考え方のように思えますが、現実にはその構造を成り立たせるための土台やプロセスを完全に無視しています。
まず、物語に「思想」が宿ることはごく自然なことです。私たちが日々触れるあらゆる物語、小説、映画、ドラマ、そしてアニメには、必ず作者の意図や価値観、世界観が反映されています。それは、物語のテーマであったり、登場人物の行動原理であったり、物語全体を貫くメッセージであったりします。
例えば、「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品を考えてみましょう。この物語は、極度の人見知りである後藤ひとりが、バンド活動を通じて少しずつ成長していく姿を描いています。ここには、「自分を変えたい」「人とつながりたい」という普遍的な願いや、その過程で直面する葛藤、そしてそれを乗り越えることの尊さが描かれています。これらはまさに、脚本家が作品に込めた「思想」そのものです。
もし、この作品から「思想」を取り除いたらどうなるでしょうか?後藤ひとりがただひたすらギターを弾き、バンドメンバーと当たり障りのない会話を交わすだけの、中身のない物語になってしまうでしょう。彼女の成長や葛藤に私たちは共感できなくなり、物語を追う意味を見いだせなくなってしまいます。
吉田恵里香さんは、ご自身の脚本に込めた「思想」について、インタビューなどで語られることがあります。それに対して、「余計なことを話すな」「作品に私情を挟むな」という批判が見られます。
しかし、良い脚本家は、自分自身の内面から湧き出る感情や考えを、物語という形に昇華させることで、見る人の心を揺さぶる作品を生み出します。それは、まるでシェフが自身の料理哲学をスパイスとして料理に加えるようなものです。スパイスがない料理は、味が単調で深みがありません。それと同じように、脚本家の「思想」というスパイスがなければ、物語はただの薄い液体になってしまいます。
吉田さんの脚本が多くの人々の心を掴んだのは、彼女が自身の経験や内面と向き合い、それを「ぼっち・ざ・ろっく!」という物語に結実させたからです。主人公・後藤ひとりの繊細な心理描写、バンドメンバーとの温かい交流、そしてライブシーンの圧倒的な迫力。これらは、彼女の「思想」が物語全体に深く浸透しているからこそ、実現できたことなのです。
さらに言えば、「思想」を排除しようとする考え方は、アニメを単一的な価値観に閉じ込めてしまう危険性もはらんでいます。アニメに限らず、あらゆる文化は、異なる「思想」を持つ人々がそれぞれの表現をぶつけ合うことで発展してきました。
ある脚本家は社会的な問題を提起する物語を書き、別の脚本家はファンタジー世界で人間の心の奥底を描き、また別の脚本家は日常のささやかな幸せを大切にする物語を紡ぎます。それぞれの「思想」が、アニメという表現の幅を広げ、多様な作品群を生み出してきました。
もし、「"思想持ち"はアニメにいらない」という主張がまかり通ってしまったら、アニメは画一的なエンターテインメントに成り下がってしまうでしょう。それは、私たちの心を豊かにし、新しい視点を与えてくれるような、深みのある作品が失われることを意味します。
10階の展望台:私たちが最終的に目にする、感動的なアニメ作品そのもの。
2階から9階:脚本家の「思想」、監督の演出、アニメーターの作画、声優の演技、そしてそれらを支えるスタッフ全員の情熱と努力。
「10階の展望台だけあればいい」という主張は、私たちが目にする完成品だけを評価し、その裏にある膨大なプロセスと、そこに関わる人々の想いを無視しています。それはあまりにも傲慢で、非現実的な考え方です。
アニメは、一人の天才が魔法のように作り上げるものではありません。脚本家が紡ぎ出した物語を、監督が映像として具現化し、アニメーターが命を吹き込み、声優が魂を込めて演じます。この全てのプロセスに、それぞれのクリエイターの「思想」や「想い」が込められています。そして、その集合体が、私たちの心を揺さぶる「アニメ」という作品になるのです。
「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品が、多くの人に愛され、感動を与えたのは、脚本家である吉田恵里香さんをはじめとするクリエイターたちが、自身の「思想」や「想い」を作品に惜しみなく注ぎ込んだからです。
私たちは、作品をただ消費するだけでなく、その背景にあるクリエイターたちの努力や、込められたメッセージに思いを馳せることで、より深く、より豊かに作品を楽しむことができます。
「"思想持ち"はアニメにいらない」という言葉は、クリエイターへの敬意を欠き、アニメという文化を矮小化させる危険な考え方です。
私たちは、クリエイターたちが作品に込めた「思想」を正面から受け止め、時に共感し、時に議論しながら、アニメという素晴らしい文化を育てていくべきではないでしょうか。
クリエイターはいろいろあるが、「権利」が発生する業務は限られてる
アニメ作品ならアニメーターは実写作品で言えば「演技」に相当する部分を請け負っており、
実写作品の該当領域と同等の扱いを受けるならコナンや鬼滅並の大ヒット作のキャラデザ作監声優アニメーターにはハリウッド俳優並みのギャラや権利が与えられて然るべきとなるが、
実際のアニメーターには給料以上の「権利」は与えられず、配当にも著作権料にも預からせてもらえない
アニメ業界がヒット作も撃沈作も労力は等しく評価されるべきと互助会的に回してきたから、それ自体は悪い話ではないが、
とりま現状、「権利」としてはエンドクレジットに名前を載せる権利以外は報酬はそんなでもない
一方、脚本は「権利」を受け取れる幾つかの特権的職種のひとつになる
脚本家は、映像作品において重要なスタッフではあるが、他のスタッフより抜きんでて重要というわけでもない
声優アニメーターコンテ演出撮影仕上等々の各職分のそれとそこまで差があるわけではないが、
権利は守られるべきだ
その義務としては、「脚本家はヘイトを引き受けろ」が妥当だと思う
原作付だろうが、原作の構成要素の取捨選択が仕事の大半だろうが、脚本家に権利が与えられるのは、
どれだけ理不尽な批判でも、的外れな憎悪でも、勘違いした炎上でも、一身に引き受けるためだろう
吉田恵里香さんの名前を一躍有名にしたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』も、同じく10代の女の子たちを描いた作品だが、こうした原作のある作品でも前述の姿勢は崩さない。
「原作ではひとりちゃん(※主人公の後藤ひとり)が水風呂に入るシーンで裸になっているんですが、アニメでは水着にしてもらいました。ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」
素晴らしい姿勢ですね。
それでは、加害性のある原作から加害性の描写を排除したアニメ版『ぼっち・ざ・ろっく!』(脚本・吉田恵里香)を第1話から順に観てまいりましょう。
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https://www.nicovideo.jp/watch/so41178183(10:48)
後藤のこの行為はいわゆる「触らない痴漢」であり、明確な性加害・性暴力行為です。
「触らない痴漢」急増 陰湿行為重ねられパニック障害発症も…高い犯罪可能性、難しい立証
https://www.sankei.com/article/20241016-PK5YV6TTHJCBJJCKRXUQQOWA3M/
とはいえ、犯罪行為として立証できるのか。横浜合同法律事務所の清水俊弁護士によると、「首筋に息を吹きかける」「髪のにおいを嗅ぐ」「乗客が少ないのに隣の席に座る」といった行為は、「公共の場所または公共の乗物において、人を著しく羞恥させ、または人に不安を覚えさせるような方法で卑わいな言動をすること」と評価されれば、各都道府県の迷惑行為防止条例違反に該当するという。
今どきニュースにもなるぐらいの性加害を主人公の後藤ひとりは行っておりました。
まさかの後藤による初手セクハラにより、アニメでも加害性は十分ありと判断し検証はここで打ち切らせていただきます。
それとも吉田恵里香さんにとっては、後藤ひとりが自分の意志で(水)風呂に裸で入る描写は加害性があって、後藤が虹夏ちゃんのスメルを断りなしにこっそり嗅ぐ行為は加害性が無いと判断しているのですか???
吉田恵里香さん、あなたは自分以外の他所のアニメを「加害性」だとか言って下げる前に、
Permalink |記事への反応(27) | 21:32
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/eiga.com/news/20250906/6/
このブクマ
黒澤明は日本人からそっぽ向かれちゃったからね。そして実写映画界にそのセンスは受け継がれなかった。黒澤を受け継いだのはアニメ界だったんよね。
だが、★はたくさん付いている。ただ具体的に黒澤明に影響を受けたアニメ作品や作家の名前は、かろうじて宮崎駿が出てくる程度で出てこない。でも増田はそれはなんか違うと感じたのだ。
宮崎駿が黒澤明を尊敬しているのは割と有名な話ではあるが、両者の作風は実はかなり違うとおもう。
黒澤明は実はアメリカン(ハリウッド)な作風だ。ジョン・フォードの駅馬車にインスパイヤされたシーンなんてのがあるぐらいに、「古き良きアメリカン」なアクションシーンやヒューマンな(牧歌的で、今となっては懐古的な人道主義)面が強い。一方で宮崎駿は、アクションなどはインスピレーションがあるのかもしれないが、それを「影響を受けたフォロアーだ」と言うには雑すぎる。もし影響つよつよだっていうなら剣闘のシーンがもっとあるはず。ぱっと思いつくのはナウシカのユパぐらい?。また、宮崎駿の世界観は、まぁSFの匂いがあることもあって設定はもっと複雑である。20世紀半ばのアメリカ的な素朴な人道主義は感じられない。
そして黒澤のヒューマニズムは、素朴だが裏に苦みや残酷さを持つのに対し、宮崎のそれは設定の複雑さに比して映画の結末は表層的でハッピーだ(この辺は宮崎駿を批判する時に言われがち。まぁスポンサーの意向とかもあるんちゃう知らんけど)
更に。
黒澤明は全盛期ですら「女があまり書けないタイプ」の監督という定説があり、また本人も女を描くのが苦手だとインタビュー等でしぶしぶ言っている。まぁ増田は、ご本人が言うほど下手じゃなく魅力的な女性はたくさん出てくる(椿三十郎の旗本の奥方とか最高)し、むしろ羅生門などはそれが出来たからこその評価だろうと思っているのだが。
それは置いておいて、まぁ黒澤は「女」のキャラクターを物語の中に立ち上がらせるのがあまりうまくなく(撮り方もなんていうか、こうステレオタイプである)、一方で、黒澤明は「男」を描かせれば本当に一級品だ。三船敏郎というアイコンとの出会いは大きかろうが、どっこい三船以外の「男」も、ずるかったり弱かったり強がったりとバリエーションに富んで素晴らしくすべてが「物語の豊かな糧となるキャラクター」だったりする(黒澤映画における女はたまに「美人女優を出さなきゃならんからな」的な状態になっている時がある)。
一方、宮崎駿の描く女、これも発端は黒澤的なステレオタイプなかたちをとることが多い。だが、宮崎駿の描く「女」はステレオタイプ(かわいい、おてんば、などの男が好むステレオタイプ)から飛び越えて陰影や謎を持つ魅力的なキャラクターで、その点(女を描く)は宮崎駿の方がうまいと思う。そもそも宮崎映画は何でそんなにというほど「女」が主人公だ。
なので、影響はそりゃ受けてるだろう世代的に、とは思うが、それをフォロアーと言うには雑な気がするのだ。
何しろ黒澤明の映画は、彼の全盛期である1940~60年代には1年に2本~数年に1本のペースで映画館にかけられている。それが基本的に全部大ヒットで良作品である。映画がことさら好きじゃない人でも当たり前の顔で黒沢映画を見ていた時代だ。団塊の世代であれば多感な子供~思春期に「毎年1本、黒澤明の大人気の痛快娯楽大作」が封切られていたわけで、こういう時代背景をもって「宮崎駿は黒沢の影響で作品を」というのは、ちょっと乱暴すぎる。
一方で、ガンダムの人とかは影響受けてるんかなと思って検索したら(ガンダムの方はあまり知識がないので語れることがない)こんなブログが引っかかって面白かった。さすがガンダムおじさんいちいち辛口
https://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2017/11/30/235950
日本の映画界は貧しすぎて、1950〜60年代に戦争物もあったんですが見にくいものしかない。また軍隊を悪者にすれば気が済むという簡単な思想性で組まれていて、戦争を描いている映画とは言えない。それ以上のものを求めても、当時才能がそれほどいなかったから無理だよねってことですね。黒澤明あたりが一等賞というのは貧しくて、後続部隊がいなかった。『七人の侍』(1954)は見やすい映画ですが、見事なものは『七人の侍』を持ってこないとないというのは貧しい。黒澤明は巨匠ではありますが万能ではありませんし、偏った監督だったとぼくは思っています。
こちらの方がむしろ「黒澤の次をなんとかしないと」ということなんだろうということで、より本質的には「継ぐもの」フォロアーなんだろうと思う。でもブクマには富野も庵野も名前が出てこない。
富野→庵野、みたいな流れが「アニメが引き継いでる」ってことであってます?オタクの間ではそれが定説ってこと?その割にはブクマに黒澤を見た人が少ないのでこれが正解かもわからない。
マンガやアニメ作品に対する批判で「説教臭い」というのをよく目にする
そういうのを見るたび、自分は「ええ、こういうのを説教臭い?」と思うこと、しばしば
だけど、インターネットで評判の良かったある作品のアニメをいま観ているのだけど、これはなんだか説教臭いと感じた
というか作者の、若輩者に尊敬されたい願望が透けて見えるようで、共感羞恥をとても強く刺激される
ふと思った
説教には、する側とされる側がある
つまり、説教臭い作品を痛快と思う時は読者はする側の気分になり、不快に思う時はされる側の気分になるのではなかろうかと
そして説教する側の気分で、しかし説教の中身が未熟であるとき、いたたまれない気分になるのだ