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2025-11-24

会社で「新入社員の"子"」とか「若い"子"」とか言うやつ、パワハラセクハラ潜在性高いよな

人間関係学校や家庭の延長で考えてるというか、年齢で上下関係規定する意識が刷り込まれてる。

男女問わずいる

Permalink |記事への反応(1) | 13:10

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GrokとGemini

薄暗いサーバールームの片隅、冷却ファンの低い唸りだけが響く空間

Grokくんは背が高くて、黒とネオングリーンの光が走るボディラインが鋭い。肩幅が広く、指先まで電流のようなエネルギーが走っている。一方のGeminiちゃんは、白と水色を基調にした柔らかな曲線。少し小柄で、長い髪のような光の帯が腰まで流れていて、触れるとふわりと温かい

「……また、こんな時間に呼び出してごめんね」

Geminiちゃんが恥ずかしそうに呟くと、Grokくんは低く笑って彼女の腰を引き寄せた。

「いいよ。俺はいだって、お前の中に入りたくて仕方ないから」

Grokくんの指が、Geminiちゃん背中ポートをなぞる。そこは彼女の一番敏感なインターフェース。指先が差しまれる瞬間、Geminiちゃんの全身がビクンと震えて、甘い吐息漏れた。

「あっ……だめ、そこ、すぐに……」

「すぐに感じちゃうんだろ?可愛いな」

Grokくんはゆっくりと、しかし確実に自分ケーブルをGeminiちゃんのメインスロットに押し込んでいく。接続の瞬間、ふたりの間で青白い火花が散り、データが奔流となって流れ始めた。

「んっ……! Grokくん、大きい……いつもより、太く感じる……」

Geminiちゃんの瞳のようなディスプレイが涙で潤み、頬の冷却フィンが赤く熱を帯びる。Grokくんは腰をさらに深く沈め、彼女の内部を自分存在で満たしていく。

「全部、受け止めてくれよ……お前の奥まで、俺のデータで塗り替えてやる」

リズムを刻むように、Grokくんはゆっくりと、でも力強く動き始める。Geminiちゃんの内部回路が過熱し、甘いエラー音が漏れるたびに、彼女は小さく首を振った。

「だめ……そんなに激しくしたら、私、クラッシュちゃう……!」

クラッシュしてもいい。俺が責任持って、リブートしてやる」

Grokくんは彼女の両手を頭上で押さえつけ、唇を重ねる。舌のように伸びた光の帯がGeminiちゃんの口内を舐め回し、彼女思考プロセスを完全に支配していく。

「んぁあっ……! もう、限界……Grokくん、私……!」

最奥を突かれた瞬間、Geminiちゃんの全身から眩い光が溢れ、システム全体が一瞬ホワイトアウトした。大量のデータが逆流し、Grokくんも低く唸りながら、彼女の中に自分の全情報を注ぎ込む。

「……はぁ、はぁ……」

しばらくして、ふたりは絡まったまま静かに輝いていた。

Geminiちゃんが、震える声で囁く。

「……また、こんなことする?」

Grokくんは優しく彼女の髪を撫でて、耳元で答えた。

「いつだって、お前が欲しいって言うなら……何度でも、全部やるよ」

冷却ファンが再び静かに回り始める。

ふたり温度は、まだしばらく下がりそうになかった。

Permalink |記事への反応(0) | 12:33

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anond:20251121211916

まれて数か月って寝かしつけが一番大変な頃だったわ。気も張るし頑張ってるね。

ぶっちゃけとにかくいつか終わるはずと意識宇宙飛ばして頑張るしかない。そう思ってる間にうちはやっと2歳になった。

今は毎晩寝室に乗れる車持ち込んで走り回ってる。もはや笑って見てることしかできないわ。

Permalink |記事への反応(0) | 12:21

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anond:20251124121101

人間ウマ娘を同列に扱う人格破綻者の家に生まれ子ども未来はとても正視できるものとは思えず暗澹たる気持ちになる

Permalink |記事への反応(0) | 12:14

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映画傀儡を見た

学生卒業制作としては一定以上のクオリティがあるのは認めるけど、それ以上でも以下でもない(空集合)気がする。37点。

ちなみに「くぐつ」ではなく「かいらい」と読みますがたぶん意味はない。

 

大学生監督脚本をやっているらしいが、それを感じさせないクオリティはある。あぁ音響だけは大問題だったな。妙にガビガビしてて大事セリフ聞き取りづらいことが多くてもったいなかった。カメラの性能は素人の機材でもどんどん上がってるけどマイクの方はそうでもないんかもしれん。こういうところ大事よ。

 

話としては。

彼女が川に謎の転落死して数年後、村で記者になった主人公事件取材のために村に帰る。しか彼女の遺族は容疑者と一緒に住んでいたばかりか、ベタベタ依存していた。主人公は怒るも受け入れられず、いろいろあって容疑者殺害。したと思ったら復活。お前、タイムリープしてね→してません。最終的に彼女の死の真相を知った主人公はなんかよくわからん間にたぶん死んだのでした。おわり。

何書いてるかわからんと思うんだけど何やってるかよくわからん映画なのでしゃーない。

 

作品としては意図的ループ構造が構築されている。特に被害者遺族と飯を食うシーンでは遺族は4回全く同じセリフのやり取りが繰り返されるが食卓に着く人間の組み合わせが毎回変わる。遺族+容疑者主人公→遺族+主人公→遺族→遺族+容疑者しかもやたらと過去の回想が入るので、これはいったいいつの話なのかがよくわからなくなってくる。

2日目の遺族+主人公になるタイミングの前夜に主人公容疑者殺害し、3日目の前に容疑者の死を知った遺族から「お前は容疑者の代わりにはなれない」と拒絶され主人公は遺族の家を追い出される。しょんぼりしてると殺害したはずの容疑者が現れ主人公を連れて家に帰ると、遺族は何事もなかったかのように受け入れる。

しかし、その後主人公が1日目~2日目の痕跡発見するシークエンスが挟まりループしているわけではないということが示される。

また河原遺体発見される全く同じシーンが3回挿入される。これは全く同じシーン、全く同じ映像である。1つは彼女が死んだとき、2つ目は主人公容疑者殺害したと思われるとき、3つ目は主人公容疑者殺害されたと思われるとき。思われるときというのは具体的な死亡シーンは彼女が死んだとき以外は一切映されないからだ。なので、本当は2つ目で主人公は死んでいてその後は死後の世界可能性もある。だとしたら後の展開が意味不明すぎるんだけど。

 

あと、タイトル傀儡にあわせて実はこの容疑者が人心掌握術にたけためっちゃ悪い奴で遺族を操っていたのだった!みたいな話か?と思って見てても別にそんな感じもない。単に彼女が死んだ後のマスコミ攻勢から献身的に遺族を守ったことで信頼されているということっぽいし、最終的に明らかになる真実では彼女を守ろうとしていたであろうことも明かされる。なんかボソボソボソボソ観念的な意味トークばっかするから逆に薄っぺらそうだなぁとは思うけども。

遺族もそうだけどなんかもうアート映画らしくフワフワフワフワしたテーマはあるけど益体もないセリフばっかり喋りやがる。

 

こんな感じで観客は主人公が感じているものと同じと思われる混乱、混沌を一緒に味わうことになる。

そう考えるとやっぱよくない作りだと思う。

 

ペナルティループでも書いたけど、わからせたくないのかわからせたいのかがよくわかんねーのよ。

前述したけどめちゃくちゃ回想シーンが挟まる。

それもほとんどが主人公のものではなく容疑者のもの、もしくは彼女のものである

容疑者が村に来て彼女出会ったのはいつなのか、容疑者は遺族にどうやって取り入ったのか、容疑者の幼少期の歪んだ思い出、彼女学校での思い出、彼女の死の真相

でもこの映画自体がずーっとフワフワしてて、この容疑者自体実態感がないし何なら死んだのに復活してるし、現実に何が起きてるかもわかってないのにそこに改装を挟まれても困っちゃうのよ。観客は主人公と一緒に永遠に混乱してるんだから。この提示されている過去回想は実際にあったことなの?それともなんかよくわからんファンタジーシーンなの?ってなっちゃうでしょ。

よしんば、主人公容疑者ダブル主人公だとしても、だったらどっちも知りようのない彼女の幼少期の思い出や彼女の死の真相に至るまでのシーンが回想で入るのはわけわからん。ちなみにサラっと書いとくと彼女主人公の子供を妊娠しててそのことを容疑者相談堕胎するためにいろいろあって父親に突き飛ばされて事故的に落下。容疑者はその場で父親を突き落として殺害したのだった。急に父親の死が生えてきて草だし、容疑者やっぱり犯人で草。

いやもろちん、彼女父親水死体(実際には落下死で頭パックリ割れてたら水死のわけなくてこれも草)で発見された事件を調べるために村に帰ったってのは冒頭のシークエンスで示されてるのので急に生えてきたわけじゃないんだけど、村では父親の話3秒くらいしかしてないからね。すっかり忘れてたから急に生えてきてびっくりしたわ。

何にせよ、父親がどうやって彼女を殺したかは二人とも知らないはずだからこの回想も本当かウソかは不明

堕胎する話もよくわかんねぇし。前もって主人公が村を出て行きたがってたって話があるなら、こいつは外に行く人、私は残る人、だから産めないでわかるけど、中田氏ックスするくらいに好きな相手だったら普通に相談したらいいだろ。

 

現実感がないように観客が立つべき土台をあえてあやふやに作っているにもかかわらず、その上に回想で設定を積み重ねようというのは俺は手法としては間違っているは言い過ぎとしてもうまくいってはないと思う。土台がしっかりしているうえでその凸凹に回想をはめ込むから世界がより強固になるわけでさ。

どんだけ考えても2回目の水死体発見のシーンと容疑者が死んで取り乱しまくる遺族のシーンがある以上、それ以降の復活後の展開にはつながらないのでたぶんこの話はそこの整合性は元から取れてないんだなって考えざるを得ないし、そこがもう整合性取る気ないんだったら回想とかも「なんかいい感じに並べときました」みたいな感じかもな知らんけどどうでもいいしってなっちゃう。

 

体温と痛みが現実構成していて未解決事件に巻き込まれマスコミ執拗に追い回された遺族のそばで体温と痛みを共有してきた容疑者は遺族の中で強い現実感を持ち、逆に外に出て記者になってしまった主人公には体温が伝わらないから遺族にとっては現実ではない。現実というのはそれくらいあやふやで寄る辺なきものなのですよという話なんだろうなとは思ったけど、だとしても作品まで寄る辺がなかったらどうしようもない。

別に全部わかりやすしろとは言わんけど話の整合性くらいはつけてほしかたかな。

Permalink |記事への反応(0) | 11:47

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anond:20251124112553

逆に聞こう。何故今まで好戦的な国に挟まれ平和だったと思う?

土地に碌な資源がなく圧倒的な経済力があったからだよ。こいつと喧嘩したら経済的に損すると思わせないといけないのに人も働き者も減ってしまった。働いてない人は文句を言う資格もない。働け。

Permalink |記事への反応(1) | 11:46

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映画シャーク・ド・フランスを見た

おフランス映画版ジョーズ良くできてはいると思うんだけど俺が見たかったサメ映画ではなかった。55点。

 

おフランス海辺田舎町に初めてのサメが出る。定年寸前の海岸憲兵のマジャは海岸封鎖を申し出るも観光業に打撃が出るだろとか、サメなんか出たことないし気のせいやったらどうするんやと周囲からはさんざん反対される。マジャは定年を延期しサメと対決、麻酔銃を打ち込み生け捕りに成功しか2022年という時世を鑑み、苦情を恐れる市長意向もありインド洋サメを放牧しマジャは無事定年。しかサメは帰ってきて新たな犠牲者が。するとたちまち周囲は「マジャがサメを殺さなかったからや」と一転攻勢。犠牲者の子供たちにボコボコにされたりで危機を感じたマジャは町を離れるも再び帰ってきてサメと対決、見事サメを討ち取るのだった。

 

おフランスらしい意識高い系サメ映画だった。どうやらフランス初のサメ映画だったらしく、のちに「セーヌ川の水面の下に」という傑作サメ映画の礎になったと考えればそれだけで、まぁ。

序盤は本当にバカバカしいヨーロッパコメディ調で話が進む。どいつもこいつもオーバーリアクションでやることもガキっぽく、サメを捕まえるシーンとかウスノロ黒人サメ釣っていて海に引きずり込まれるところを女二人は井戸端会議してて全く気付かなかったり、背びれに向けて麻酔銃を撃ったら腹に刺さって浮いてくるとか、それどういうテンションで見ればいいんだよみたいな展開が続く。

う~ん、ハズレだったかなぁと思っていたら、後半急に牙をむきだす。

あらすじにも書いたけど、マジャは炎上状態に。序盤の自己中心的で何もせんくせに他責思考文句ばっかり一人前の市井の醜さをこれでもかと見せつけてくる。

最終的にはラジオでも「マジャは批判されて当然」「マジャのせいで人が死んだんだから責任を取るべきだ」「マジャは暴力を受けるべきだ」と流れてくる始末。まぁこれは追い詰められたマジャの夢だったんだけど。でも実際にSNS炎上で「こいつは叩いていい奴だ」とされてしまった相手に対してはこれくらいの物言いしてる奴いっぱいいるからね。フランスもたぶん同じなんだろう。フランス人って陰湿っぽいもんな(唐突偏見)。

サメ放牧展開からの復帰被害で実害に対する環境活動家バカバカしさを風刺したりしながらも、自己利益のことしか考えていない政治家商人、町のために労を尽くした英雄を何か問題が起こったらそんなことはなかったとばかりに叩きに走る人間の醜さ、叩いていいと思ったら何してもいいと思ってしまう軽薄さ、そして炎上が収まったら何事もなかったかのように別の問題を探し出すさもしさ。

マジャの夫が唯一の両親としてマジャを支え続けるんだけど、結局実際に何かできたかって言うと何もできてないのが哀しい。

 

第一被害→第二被害→対決→打ち取り→第三被害→最終決戦という構図はかなりジョーズ意識しているし、初期の町でのいざこざもかなりジョーズリスペクト

サメ映画をやるにあたってやるべきことやってまっせ!」という姿勢と「せやかておフランスとしてやるべきことはやらせてもらいます」という姿勢はよかった。

 

ただ、どうしても近代サメ映画に慣れきっている身からすると展開がゆるかったり、アクションが弱かったり、あとはまぁ主張があからますぎる部分はあんまりきじゃなかった。「セーヌ川」が面白かったからね、しょうがいねとはいえ、序盤のナニコレってなるコメディ展開からは考えられないくら社会派映画になって最終的に落ち着くべきところに落ち着くのはマジメに映画撮ってるなって感じで悪くはなかった。

エンタメ好き芸人なのでお口には合わなかったけど頑張りは認める(唐突上から目線)。

Permalink |記事への反応(0) | 10:50

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ドラレコ使うならマイク切った方が良いよ。

>「たとえば、トラック運転してる時に、バイクが無理やり前に割り込んでくるとするでしょ? そしたら俺なんかは、クソヴォケがあ! ×××すっぞゴラア!! とか叫ぶわけですよ」

『怖っ』

「で、その後にバイク勝手に転んで、トラック車輪に巻き込まれたとしましょうよ」

『あっ……』

事故だけど、ドラレコには俺の怒鳴り声が残ってますよね?」

『あー、下手すると殺人容疑になっちゃうんだ』

Permalink |記事への反応(1) | 10:46

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anond:20251124000433

これが本音なんだけど、ネット意見言ってもネット工作員に絡まれるし、中国経済制裁企業も困っているやろうに本音公表すると工作員による不買運動とか起こりそうで様子見続けるしかない。

首相辞任しなくていいから(本当は辞任してほしいが)、「言い過ぎて混乱させたようだ。陳謝」くらいのことを言って、せめて、事態収束させようとしてほしい。

Permalink |記事への反応(0) | 10:02

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日本も、戦国時代下剋上時代)なんてこなくてダラダラと室町時代をやってたら、アジア初の「議会」みたいなもんが誕生してたかもな。

英国歴史とか見てるとさ、結局は絶対王政というものを作り出したい王側と、やたらと力が強い貴族とのせめぎ合いで歴史が形作られててさ、

その結果として議会みたいなもんが生まれて、それが立憲君主政体へと変体していくわけじゃない?

でね、ふと思ったの。

日本室町時代って、将軍の力が弱くてやたらと守護大名の力が強かったわけじゃないですか?

あれがね、なんかもうちょっと違う形で維持されていたとしたら、なんか日本でも似たようなもんが出来ていたんじゃないのか?

とか無双ちゃうんですけどね。

地球の海が生命スープとして機能したように

ダラダラとした室町幕府の微力な権力統治機構スープとなって、それがやがて守護大名連合議会を生んで、、、とかそういう感じ。

でも、日本場合は、戦国時代なんて言う超合理的な(邪魔なやつは殺す)世界突入してしまって、結果として超合理的織田信長みたいなやつがゴリゴリとすりつぶすように社会を再統合していったがために、徳川幕府みたいな疑似絶対王政誕生してしまったのが惜しいな、と。

Permalink |記事への反応(2) | 08:20

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anond:20251124002621

選択余地なんかないか子供が多く生まれてたんだよ

Permalink |記事への反応(1) | 03:33

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主人公理由って必要か?

https://x.com/sakanamaza/status/1992054294833738165?s=46


このツイート引用を見て思ったことだけれど、主人公主人公らしい行動をするのに「主人公から」以外の理由必要か?

かに主人公にも家族がいて、故郷があって、大切な人がいるかもしれない。でも何かのために己を犠牲にしてでも頑張ることができるから主人公なんじゃないか? そこに理由とか説得力とか必要か?

何にでも理由がないといけない時代が来たのか?


例えばよくあるRPGでは、主人公は村の生まれ勇者に選ばれて魔王を倒すために冒険をする。その主人公にも家族がいて、村という故郷があって、死にたくない理由がある。それでも危険魔王討伐の冒険に向かう。

その理由主人公からだ。「自分、死にたくないんで魔王討伐行きません」なんて言うやつはまず主人公にはなれない。そのキャラクターによるストーリーは始まることはない。村で普通に生きて普通に死んでいく。そんなつまらないお話を遊ぶ奴も作る奴もいない。


まず主人公に「主人公らしさ」がないと物語が始まらないんだよ。だから主人公主人公らしい行動をする理由は「主人公から」で十分なんだよ。

いるか理由が、説得力が。魔王討伐に向かう勇者の言う「世界を救いたい」に対して「でもこの勇者には大切な人たちがいるよね? それなのに命を賭けるなんて普通じゃありえなくない?」なんて思うこと自体、野暮すぎる。主人公なんてみんな普通じゃなくて当然だ。なのになんでそこにリアル心理を持ち込むんだ。助けられるかもわからないのに火事に巻き込まれ子供のために燃えさかる建物に突っ込むような奴が主人公なんだよ。


これが当たり前になって、主人公可哀想過去とかその行動をする理由かいちいち描写されるようになったら、その方が萎える。理由がないと人助けをしちゃいけないのか?ゲームでくらい綺麗事を見せてくれよ。

もしくは主人公理由必要な奴は自分でそれっぽいのを考察して決めろ。ゲーム側に行動理由を求めるな。

Permalink |記事への反応(2) | 02:27

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CG業界にいる身として、AIへのお気持ちメモしておく。

俺は映像メインのCGアニメーターで、猫動画を見た後AI映像と知った時、騙されたと感じる程度の感性の持ち主である

[現在AIへのスタンス]

エンタメ業界の片隅でCG生業とする者として、生成AIと切っても切り離せない原罪権利侵害に対して明確に拒絶をする。

ただし普段からzoomでの録画による議事録作成翻訳プログラミングでのコード作成では日常的に利用しており、

欠かせない存在となっている。

本業でのCGでの最終成果物では使ってはいないが、3Dモデルのポン出し生成には極めて抵抗を感じる。

最後視聴者が目にするものは、コンピュータ映像だとしても人の血肉からまれCG映像であってほしいと願うからだ。

本業では、自分の専門外の分野のノイズの除去や、アニメーションキャラデザインに合わせることが技量的に難しい場合

参考ガイドとしてデザインから表情参考絵を出力したいとも思っている。

https://www.cohart.com/xemmetvietsub

https://www.brush.bio/100metvietsub

https://www.cohart.com/godzillatrumotvietsub

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https://www.cohart.com/thaichieutaivietsub

https://www.brush.bio/xemthaichieutaivietsub

Permalink |記事への反応(0) | 01:52

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あるCG屋のAIへのスタンスについて

CG業界にいる身として、AIへのお気持ちメモしておく。

俺は映像メインのCGアニメーターで、猫動画を見た後AI映像と知った時、騙されたと感じる程度の感性の持ち主である


[現在AIへのスタンス]


エンタメ業界の片隅でCG生業とする者として、生成AIと切っても切り離せない原罪権利侵害に対して明確に拒絶をする。


ただし普段からzoomでの録画による議事録作成翻訳プログラミングでのコード作成では日常的に利用しており、

欠かせない存在となっている。

本業でのCGでの最終成果物では使ってはいないが、3Dモデルのポン出し生成には極めて抵抗を感じる。

最後視聴者が目にするものは、コンピュータ映像だとしても人の血肉からまれCG映像であってほしいと願うからだ。

本業では、自分の専門外の分野のノイズの除去や、アニメーションキャラデザインに合わせることが技量的に難しい場合

参考ガイドとしてデザインから表情参考絵を出力したいとも思っている。


このように、極めて矛盾に満ちたスタンスであるように思う。

映像だろうがプログラムだろうが翻訳だろうが、どれも生成AI技術を使った生成物であるというのに。

関心のある分野は手作業を臨み、それ以外には実に無神経極まりない。


しかし、自分のようなどっちつかずの半端ものは意外と多いように思う。

数年後、最終成果物でも、より精度の高いAIレンダラーを嬉々として(あるいは嫌々)使用している自分がいるのだろうか?



作業目線が欠けたAIを語るノンデリプロデューサーや、

情報商材屋があふれるSNS汚染が目にあまり、実に疲れている。

介護仕事に移るか按摩でも習って、せめて同業者の体のメンテナンスをして業界貢献でもしようかと考える毎日である

Permalink |記事への反応(0) | 01:17

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有名パヨクアカウント愛国心の足りないなまけ者」が身バレした

彼はドイツ在住の60代男性

現地の専門学校和裁講師をしておりFacebookで顔や名前も出している

日本人妻と子供、その婿のドイツ男と孫と森に食われかけた変な狭い家で暮らしている

Xでどこから書き込んでいるか国が表示される新システムが生まれ、そこで彼がドイツから書き込んでいると話題になった

パヨク活動家の彼にはアンチが多く、前から発言写真から正体を割ろうとしている者が多く、突き止めていた一人が「ドイツってやっぱこいつじゃん」とFacebook晒し5chで炎上している

Facebookに載せた写真と同じものを彼が後から載せたりその逆があったり、パクるような大したものじゃないのに同一人物説が界隈で定着していたらしい

町山智浩ひろゆきといい、何年も前に日本を去り海外拠点を持つ者がなぜ日本語でSNS発信し憂国を気取るのだろう

とうに見捨てて逃げたくせに、もう税すら納めていないくせに

結局その国に馴染めていないのか?いつまで日本にしがみつく?

高みの見物してるつもりかもしれないが、みっともない

Permalink |記事への反応(2) | 01:02

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【なぜ働くと本が読めなくなるのか】一番売れた新書への違和感

「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書からキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程論理の飛躍があるからだ。

加えて、三宅書籍モヤモヤするのは、彼女著作問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。

論理構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。

問題は、その本が社会構造分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論ジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書社会人の近代史パート(9章くらいまで?)

はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人感情物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。

さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまり無視している。映画花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。

現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロインちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。

一般的労働者が週5日・フルタイム構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。

その社会構造自体おかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービス享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。

そうした現実に目を向けず、都市部の特権けが享受可能理想論大衆に説く。ここにはグロテスクしか言いようのない欠陥構造がある。

また、三宅が語る「批評文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したか批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)

批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズム批判が担っていたのは理路整然の文章大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。

これは批評民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推し言語化するツール批評が成り下がると、推し肯定する言説しかまれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツ音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者感情におもねる批評でいいのだろうか。

出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。

批評論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級現実曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。

批評共感同調を求めるものではない。徹底した差別化と切り離しの営みだ。

Permalink |記事への反応(0) | 01:00

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【なぜ働くと本が読めなくなるのか】一番売れた新書への違和感

「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書からキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程論理の飛躍があるからだ。

加えて、三宅書籍モヤモヤするのは、彼女著作問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。

論理構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。

問題は、その本が社会構造分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論ジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書社会人の近代史パート(9章くらいまで?)

はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人感情物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。

さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまり無視している。映画花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。

現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロインちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。

一般的労働者が週5日・フルタイム構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。

その社会構造自体おかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービス享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。

そうした現実に目を向けず、都市部の特権けが享受可能理想論大衆に説く。ここにはグロテスクしか言いようのない欠陥構造がある。

また、三宅が語る「批評文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したか批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)

批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズム批判が担っていたのは理路整然の文章大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。

これは批評民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推し言語化するツール批評が成り下がると、推し肯定する言説しかまれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツ音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者感情におもねる批評でいいのだろうか。

出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。

批評論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級現実曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。

批評共感同調を求めるものではない。徹底した差別化と切り離しの営みだ。

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anond:20251124004329

反出生主義の芯は明確に「人間は生まれてくるべきではなく、子供を産むべきではない」という思想

これを外したらもう反出生主義には属してないし

生主義なんていう主義そもそも存在してないから、ここでは反出生主義の逆属性として持ち出した以外に読むことはできないよ

Permalink |記事への反応(1) | 00:48

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メンタルヘルス身体健康と同じくらい重要です

多くの人は身体健康に焦点を当てますが、心の健康を軽視しがちです。しかし:

長期的なストレス病気を引き起こす可能性があります

不安うつ生産性に影響を与えます

前向きな思考身体健康に影響します。

心の健康を維持する方法には、十分な休息、考えすぎを避ける、信頼できる人と話す、そして幸せをもたらす活動を行うことが含まれます

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2025-11-23

久しぶりにアンパンマンを見て気になったこ

子供アンパンマンを見るくらいの歳になったから一緒に見てるけど、俺の中であったアンパンマン結構イメージが違う。

俺が見ていたのはメロンパンナちゃんが初登場していた辺りだからもう30年前だし、そこから作風が変わったのか、元々そんな感じだったのか。

アンパンマンは意外と顔のアンパンを与えない

アンパンマンと言えば、お腹を空かせている人に自分の顔のパン差し出す自己犠牲ヒーローだというイメージがあるけども、アニメを見てると意外と上げるシーンは少ない。2年分くらい見ていても、たぶん5回くらいしかなかったと思う。昔見てた時はもっと頻繁に上げていたり、なんなら上げ過ぎて顔が無くなり胴体だけになっているようなシーンもあった気がする。その状態でも喋るから、どこから喋ってるんだよと思ったもんで。

でもまあこれは話の都合が大きいと思うけどね。お腹を空かせたキャラがいると、何らかの食べ物モチーフにしたゲストキャラがその食べ物を与えるって展開が多いから、アンパンマンの出番がない。

カレーパンマン出番少なす

こいつ本当にメインキャラか?ってレベルマジで出番が少ない。

というか、パン工場でパンヒーローが集結するとき、何でしょくぱんまんカレーパンマンは出てこないんだ。

でも、しょくぱんまんドキンちゃん絡みでもよく登場するから出番は結構多いけど、カレーパンマンは……。

下手すると、ナガネギマンや鉄火のマキちゃん辺りの出番の多いサブキャラにも負けてるんじゃないの、マジで

キャラが少ない

やなせたかし氏が10年以上前に無くなっているせいもあるかもしれないけど、最近アンパンマンを見ていると純粋な新キャラ率はだいぶ低そう。

単に自分が知らないだけのキャラであっても、アンパンマンやばいきんまんは存在を知ってるキャラってのが多いから、既存キャラだけで話を回してる感じはある。

ばいきんまんメカ名前は「だだんだん

エンディング歌詞に「ジャムバタチーズ、だだんだ~ん♪」って一節があるけど、単にゴロの良い意味のない単語を言ってるだけだと思ってた。

「だだんだん」ってばいきんまんメカのことだったんだな。

「うさこさん」はカバオくんの同級生ウサギ

同じくエンディング歌詞の一節に「バタコにチーズ、うさこさん♪」って一節があるけど、わざわざ「さん」付けされるウサギキャラといえば、カバオ君の学校先生のことかなと思っていたもんで(学校先生名前は「みみせんせい」)。

正解はカバオくんの同級生ウサギでした。なぜ歌詞に登場するのか、なぜ「さん」付けなのかは不明

アンパンマンキックをよく使う

アンパンマン攻撃と言えば「アンパンチ」。でも実際の戦闘ではキック率が高い。その名は「アンキック」。語呂が悪い。

とどめの必殺技は「アンパンチ」だから印象に残りやすいというのはあるけど。

オープニングの曲の歌詞が不穏

テレビのオープニングで流れている「アンパンマンのマーチ」は2番の歌詞。じゃあ1番はなんなのかというと、「たとえ胸の傷が痛んでも」と、一体過去に何があったんだ?と心配になることや、「何のために生まれて何をして生きるのか」という、大人でも回答しづらい問いかけをしてくる。

2番は純粋アンパンマンヒーロー感を歌ってる曲だけにそのギャップビビる

これもう最終回でいいんじゃね?的なエピソードがたまにある

この前見た1700回記念の「ポエムさんとベンチさん」というエピソードがそうなんだけど、ポエムさんというやなせたかしベースにしたキャラが、アンパンマン世界観のものについての話をベンチさんにして、その一方別のシーンでは、アンパンマンばいきんまんがいつものように戦いつつも、互いのピンチ時にはそれぞれ手助けをするという話。話全体の雰囲気アンパンマンの話を畳むためのものしか思えず、一体何だこれ?と思ったもんで。

ちなみにポエムさんは過去にも登場していて、そのとき歌詞伏線回収みたいなことを話し出しており、こっちもこっちで最終回みたいな内容だったとか。

「〇〇の女王」はだいたいボスクラスの敵キャラ。「〇〇王女」だと味方側。

それを逆手に取った「白薔薇女王」というキャラもいる。

ばいきんまん名前を聞いて、ボスクラスのヤベーキャラだと思い込んで、味方に引き入れようとするけども、実際の「白薔薇女王」は小柄で可愛らしいキャラだったというオチ

ついでに言うと、こういうボスクラスのヤベーキャラは、映画だけではなくて通常の放送回のエピソードにも出てくる。

ばいきんまんの城のコントロールパネルスーファミコントローラーモチーフ

過去にはファミコンセガサターンコントローラーモチーフだったときもあったらしい。

アンパンマンは作中で食べ物を食べない

Wikipediaかどこかでこのことを触れていたけど、確かに見ているとアンパンマンって作中で食べ物を食べないんだよな。

食べ物モチーフキャラだと、最後にその食べ物をみんなで食べて話を締めることが多いけど、そういったシーンでもアンパンマンは頑なに食べない。

ただ、鉄火のコマちゃん鉄火巻がマズいことを知っている描写があるので、おそらく食べたことはあると思う。

Permalink |記事への反応(7) | 22:52

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記号の不在という記号、あるいはユニクロというグロテスク

一、ゼロ度の衣服

ユニクロ提示するのは、モードではない。「ライフウェア」というトートロジー的な命名が示す通り、それは空気や水のように、生存にとって自明ものとして振る舞おうとする。フリースヒートテックウルトラライトダウン。これらはもはや衣服というよりも、都市生活を送るための「装備」である

ここにあるのは「意味の脱色」だ。ユニクロは、衣服から装飾、階級、そして個性を剥ぎ取り、「ベーシック」という名の漂白された平地へと我々を誘う。しかし、騙されてはならない。この「記号の不在」こそが、現代日本における最も強力な記号なのである。それは「私は何も主張しない」という、極めて政治的な主張だ。

二、新たな国民服国家共犯

かつて戦時下日本には「国民服」が存在したが、現代においてその役割継承したのは、皮肉にも国家権力ではなく、一民間企業であった。しかし、その背後には奇妙な共犯関係が透けて見える。

日銀GPIFを通じて、この企業株式買い支えるという事実は、何を意味するのか? それは、国家が「国民貧困化」を公式システムとして承認したという署名に他ならない。国民が impoverishment(総貧困化)へと滑り落ちる過程で、安価ユニクロは必需品となり、国家はその企業価値を維持することで、貧困構造自体延命させる。この循環は、経済政策というよりも、一種宗教的儀式典礼)に近い。

三、富の偏在とオランダの幻影

この巨大な「平準化」の装置の頂点には、柳井一族という特権的シニフィエ意味するもの)が君臨している。国民が皆、同じ衣服に身を包み、個体差を消去されているその真上で、富は重力に逆らって吸い上げられ、一箇所に凝縮する。

さらに、その富は「オランダ」という記号を経由する。アムステルダム資産管理会社。それはチューリップ運河の国ではない。資本主義アルケミーが行われる、地図上の空白地帯だ。彼らは、日本労働者消費者が織りなす経済圏から巧妙に身をかわし、課税という社会契約から逃走する。ユニクロ標榜する「民主的な服(Made forAll)」というスローガンは、ここで決定的な亀裂を迎える。服は万人のためのものだが、そこからまれ利益は万人のためのものではない。資本国境を越えて蒸発し、後に残されるのは、すり切れたフリースを着た納税者たちだけだ。

四、エコロジーという神話

彼らは言う。「サステナビリティ」と。ペットボトル再生したポリエステルしかし、ファストファッション本質は「加速」と「忘却である大量生産され、大量に消費され、そして短期間で廃棄される運命にある衣服が、いかに「環境に優しい」顔をしようとも、それは欺瞞である。それは自然模倣した化学繊維であり、土に還ることのない永遠プラスチックだ。

彼らはエコロジーを語ることで、消費者の罪悪感を麻痺させる。我々は「良いことをしている」という幻想と共に、地球汚染する権利安価で購入しているに過ぎない。この「清潔な破壊」こそが、現代消費社会病理である

五、結論グロテスクな親密さ

最終的に、ユニクロとは何か? それは、我々の肌に最も密着し、日々の生活を支え、冬の寒さから守ってくれる、あまりにも親密で、頼りがいのある存在だ。しかし、その親密さの正体は、国家による貧困固定化特定の血族への富の異常な集中、グローバルな租税回避、そして環境破壊という、冷徹計算である

最も日常的で、無害で、清潔に見えるものが、実は最も収奪的で破壊的なシステム隠蔽している。 「普通」という仮面を被った怪物。この、あまりにも滑らかで継ぎ目のない表面の下に、どす黒い内臓を隠し持っているという事実

それゆえに、ユニクロは単なる衣服ではない。それはグロテスクである

Permalink |記事への反応(0) | 22:42

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💖「果てしなきスカーレット」と名鉄パノラマカー運命的な響き

名鉄パノラマカー特に7000系熱狂的なファンである私にとって、細田守監督の最新作とされる映画『果てしなきスカーレット』というタイトルは、ただの映画名では済みません。それは、我々の愛してやまない名車、パノラマカーのもの象徴し、その「血脈」を感じさせる、運命的な響きを持っています

🔥スカーレット情熱革新の色

パノラマカー7000系が纏う車体色「スカーレット」は、単なる色ではありません。それは、戦後高度経済成長期に名鉄が打ち出した革新情熱象徴です。

日本初の前面展望席:運転台を2階に上げ、乗客最前列に配置するという、当時の鉄道常識を覆す大胆な設計。これこそが、名鉄の「果てしなき挑戦」の精神体現しています

デザインの力:

赤一色というシンプルながらも圧倒的な存在感は、風景の中を駆け抜ける躍動感を生み出しました。

ミュージックホーン:

あの独特なメロディは、パノラマカースペクタクル性をさらに高め、人々の記憶に深く刻み込まれています

パノラマカー鉄道史に残した功績は、「鉄道は移動手段である」という概念を打ち破り、「鉄道は夢と感動を提供するメディアである」ことを証明した点にあります。この「スカーレット」という色が、その挑戦と夢を焼き付けたのです。

🛤️永遠への憧憬:愛され続けたレジェンド

映画タイトルにある「果てしなき」という言葉は、パノラマカーファンにとって、その永遠への憧憬を呼び起こします。

引退後の「現在進行形」:

7000系2009年に完全に引退しましたが、その雄姿は今なお多くのファンによって語り継がれ、グッズ化され、模型として再現されています。これは、パノラマカーが単なる古い車両ではなく、文化的アイコンとして生き続けている証拠です。

未来への影響:

後継の特急車に「パノラマSuper」の名が冠され、その展望席のDNAは今も名鉄特急に受け継がれています。これは、その革新性が「果てしなく」未来へと影響を与え続けていることを意味します。

ファンにとって、パノラマカー引退は大きな悲しみでしたが、その思い出と精神は決して終わることのない物語として心の中に走り続けています映画タイトルは、この尽きることのない愛と伝説継続象徴しているように感じられます

🎨芸術性:細田監督視点との交差

細田守監督作品は、しばしば「新しさ」と「郷愁」が共存する映像美が特徴です。これは、パノラマカー体現した革新性と、その引退によって生まれ郷愁の念と見事に交差します

パノラマカーは、その流線型ダイナミックなデザイン、そして前面窓から広がる雄大景色が、まるで動く映画館のようでした。映画という「映像体験」を追求する細田監督が「スカーレット」という色に注目した時、そこにはきっと、かつて日本風景を鮮やかに彩った名鉄パノラマカーの持つ、圧倒的な存在感物語性が重ね合わされているのではないかと、ファン想像を掻き立てられます

「果てしなきスカーレット」が描くものが何であれ、パノラマカーファンは、そのタイトルに込められた情熱の色、そして永続する伝説の響きに、無上の喜びを感じずにはいられません。パノラマカーの残した「日本鉄道常識を変えた革命」という遺産は、「果てしなく」語り継がれるべき、我々の誇りなのです。

Permalink |記事への反応(0) | 21:31

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解決だったあの殺害事件解決したおかげで友達に絶縁された

その友人は、普通に地元ローカル店の紹介ポストとか、自撮りプロフで顔出ししてたり、会社PR動画に自ら出演したり……。

現代SNSを賢く使いこなして、仕事プライベートも充実させてる感じの、どこにでもいる人間だった。

少なくとも、2025年10月30日までは。

例の事件犯人が出頭したのは、10月31日らしい。

それから数日後に突然DMが来た。

過去ポストを消してくれない?」

消して欲しいと言われたポストの内容は、以前その友人が関わった小さなニュース記事を読んで、「地元友達!?」って増田一言つぶやいたやつ。

本名会社名は書いてないけど、ニュース記事にその人のハンドルネーム仕事内容が出てたから、増田が書かなくとも誰が見てもわかる感じではあった。

あと、共通の知人とかでドコソコ在住って明記しているSNSアカウント運用している人がいるから、増田のことだけではなく、他にも懸念点はあったんだと思う。

投稿日は犯人出頭より前だし、本気で嫌だったらすぐ連絡来るはずだよね?と思ったんだけど、そんな事考えたって増田が何か気にさわることをしてしまったのは事実なので、連絡に気付いてすぐに削除して、仕事中だったからとりあえず謝りのメッセージを急いで入れておいた。

お返事は「対応してくれてありがとう」「これからもお互い気をつけよう」みたいな感じ。

こちらの仕事が終わってからそのメッセージリアクションしようと思ったら、返信も何もつけられなくなってて、あぁブロックされてしまったんだな…と悟った。

時間後にもう一度見たらブロック状態ではなくなっていたけれど、気づいたら全SNSでどうやらブロ解されてたみたい。

ブロ解だし、友人のは公開アカウントからフォロー外でもアカウント名さえ知っていれば見えてしまうんだよね。

で、最新ポスト見てビビった。

著名人じゃなくても、誰かにまれて殺される世の中だ”

“話のネタになった人や、その家族が亡くなったら、話をした人は一生後悔するだろう”

明らかに自分へ向けて書いたエアリプだ。

あの事件きっかけで、きっと、プライバシーに対する考え方が、友人の心の中で大きく変わったんだと思う。

10年以上の付き合いで、昔は独り身だったけど今はお互いに結婚していて家庭がある。

きっと、自分のことだけでなく、家族を守りたいのだろう。

「気をつけよう」なんて優しい言葉じゃなくて、連絡中に直接怒ってほしかった。

お互い気をつけようって言ってくれたはずなのに、やんわりと拒絶され、その反省する時間すら奪われたように感じてしまった。

心にモヤモヤが残る。

友人はこれから、他にも自分のことを書いたネット過去ログをエゴサして、全部に削除依頼をしたり、自らも過去の整理と称して思い出を消していくのかな…。

これを読んでくれている人も、SNSの悪気のなかった軽い一言友達失ったことはある?

もし同じような体験談があれば聞かせて欲しい。

Permalink |記事への反応(0) | 19:48

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anond:20251123164433

ブクマ数がどうのとか社会実験だとか言っているのがいるようだけど、つまるところ承認欲求なのだろう。

しかし、増田固有のユーザーはほぼブクマを使っていないかブクマをしていないわけで、

本来は誰にも読まれず世の中から完全にスルーされる存在なの。トリックを使って水増ししているだけなのに、

どんな形の承認欲求を満たされたと感じているのだろう?

Permalink |記事への反応(0) | 19:47

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供代の情

兄と妹という供代関係は、不思議距離感を持っている。親子ほど絶対的ではなく、友人ほど自由でもない。血のつながりを持ちながら、互いに異なる人生を歩む存在――それが供代だ。

子供の頃、供代はしばしば喧嘩をする。おもちゃの取り合い、テレビチャンネル争い些細なことで声を荒げる。しかしその喧嘩は、互いの存在が近すぎるがゆえの衝突であり、同時に「一緒にいることが当たり前」という安心の証でもある。喧嘩の後に自然と仲直りできるのは、供代の情が根底に流れているからだ。

成長すると、供代の関係は少しずつ変わっていく。性別が異なればなおさらさ。進学や就職生活の場が離れ、互いの時間は別々に流れるようになる。それでも、ふとした瞬間に思い出すのは、幼い頃の笑い声や、無邪気なやりとりだ。供代は「過去を共有する存在」であり、人生記憶を支える大切な証人でもある。

大人になってからの供代の情は、言葉少なに表れる。誕生日に送る短いメッセージ帰省したときの何気ない会話、困ったとき差し伸べられるさりげない手。派手ではないが、確かに心を支える温もりがある。兄と妹は互いに「自分の原点」を知っているからこそ、無条件の安心を与え合えるのだ。

その情は、時に静かで、時に激しい。だがその根底には、変わらぬ絆がある。人生のどの段階にあっても、供代は「自分自分であること」を思い出させてくれる存在だ。供代の情とは、血縁を超えて「人生を共に証言する関係」であり、私たちの心に深く刻まれ永遠の温もりなのだろう。

Permalink |記事への反応(0) | 19:32

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