
はてなキーワード:ひぐらしとは
なんか過剰に持ち上げられすぎている気がする。
ああいった既存RPGに対して逆張りして「バーカ」と言い出す作品はもっと前からあったので新規性も特にない。
ゲームとしても昔からよくある人助けポイントを集めるタイプのADVでしかない。
絵柄もそこまで独特かといえばこういうの決して少なくはないように思えてならない。
ひぐらしやシュタゲの方がまだ「まあこういうのが流行ることもあるよね」と納得できる。
lainについては問題点が全て克服された風のリグレットのようなものなのでそりゃまあカルト的人気は出るかなと思う。
オタク受けするような絵柄の王道で全世代を丁寧に爆撃できてるだろうし。
アンテは全殺しエンドの条件が攻略情報前提すぎるのを除けばおおむね悪くない出来だと思う。
ストーリーパートがクソほど長い東方プロジェクトみたいなもんだから普遍的にオタクに流行るゲーム性だし。
なんでこんなに持ち上げられているんだろう。
普段全くゲームしてなくてゲームなんて別に好きじゃない人が「ゲームもたまには面白いね。でもやっぱゲームってくだらない遊びだよねバーカ」って感じで持ち上げてるのかしら。
そもそも論として自分が間借りした文脈を蹴っ飛ばして推進力にする態度が気持ち悪すぎるって言うか、なにかを下げないと他を上げられない駄目なオタクみたいで痛々しいんだよね。
Fate/Grand Order(FGO)が人気を維持し、ソーシャルゲームのトップクラス売上を誇る理由を整理します。
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-TYPE-MOONが展開する「Fate/stay night」から始まるシリーズは、アニメ・小説・ゲームで世界中にファンがいます。
-既存ファンがそのままFGOに流入し、強力な基盤を築きました。
-ソシャゲでは珍しく、メインストーリーが長大なビジュアルノベル並み。
-奈須きのこ氏など原作ライター陣が直接執筆しており、「シナリオ読むためにプレイする」層が多いのが特徴。
-歴史・神話・文学・伝説の人物を「サーヴァント」としてキャラ化。
-オリジナル要素を加えた魅力的なデザインや声優起用で、推しキャラを手に入れたい欲求が強い。
- その分「引けた時の喜び」が大きく、課金意欲につながる。
- 大規模イベントやリアル展示会も頻繁に行われ、ファン体験を強化。
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FGOがここまで人気で売上を保っているのは、
という要素が重なっているからです。
Fateシリーズはもともと、TYPE-MOONが同人サークル時代に個人小説家(奈須きのこ氏)とイラストレーター(武内崇氏)が中心となって作った同人PCゲーム(『月姫』など)が出発点でした。そこから商業展開を経て、Fate/Grand Orderに至る「巨大ブランド」へと成長しました。
こうした「同人発 →世界的IP化」の事例は極めて珍しいです。以下、比較や差異を整理します。
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→個人制作ゲームから、音楽・二次創作文化で世界的なコミュニティが形成。
✅ ただし、ここまで長期にわたり大規模ソーシャルゲームでトップ売上を維持するのは、Fateがほぼ唯一。
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6.世界観の広がりと柔軟性
- 「英霊召喚」という仕組みにより、歴史・神話・伝説・オリジナルをすべて登場可能にした。
- 常に新キャラ・新ストーリーを追加でき、ファンを飽きさせない。
-運命、選択、自己犠牲など哲学的でシリアスなテーマをエンタメに昇華。
-キャラデザインの「格好良さ」と「親しみやすさ」のバランスが絶妙。
- 後の多彩なイラストレーター参加を許容する柔軟なスタイル。
-二次創作を歓迎する文化が育ち、Pixivやコミケなどで爆発的に広がった。
-東方に近い「ユーザーが世界を拡張する」仕組みを持っていた。
-アニメ化(『Fate/stay night』、『Fate/Zero』)、映画化、スマホゲーム化をタイミングよく行った。
- 「同人の熱量 ×商業のスケール感」のハイブリッド成功例。
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✅結論:
Fateの強みは「奈須きのこの物語性 ×武内崇のビジュアル ×英霊召喚という拡張性 ×二次創作文化 ×商業戦略」の組み合わせで、これは極めて珍しい成功パターンです。
薄く湿った風が、夕暮れのアスファルトをそっと撫でていく。数日前までは日没を待たず、コンクリの照り返しにじりじりと焦がされていたのに、いまはまだ陽があるうちから肌にひんやりとした予感が宿っている。
自転車を漕ぎながら見上げる空は、夏の蒼さから少しずつ色褪せて、淡い鉛色の雲にほのかな黄金を帯びている。あの入道雲はもう遠い日の記憶で、今は高いところを渡る雁の群れが、秋の訪れを告げに来たのだろう。
帰り道にある公園では、蝉の声が徐々に減り、代わりにひぐらしが一声、二声と鳴く。真夏の間は地響きのように賑やかだったのが、いまや呼吸のように間を置いて静かに響く。滑り台の鉄網が、まだ熱を帯びているけれど、触れればもう「焼けた」痛みではなく、肌に寄り添う温もりへと変わっている。
家へ戻ると、窓辺に置いたガラス瓶の中でミントの葉が色を濃くし、夏に吸い込んだ陽光を抱えたまま秋を迎えているようだった。明かりを点けると、その緑はほんのり翡翠色に光り、部屋の薄暗さをほのかに照らす。僕は書きかけのノートを前に、指先でページを撫でる。まるで時間の糸をたどるように、字の隙間から季節の匂いが立ち昇る。
足元には去年の秋に拾った赤い葉が一枚、乾いてカサカサと音を立てている。あの日、福島の山道を歩いていると、突如ひらりと舞い降りてきたものだった。自分がこの街を出る日を想像もしていなかった頃の、ほんの小さな偶然だったのに、それがいまでは胸の奥で鮮やかに疼いている。
窓の外を見れば、商店街のアーケードの明かりが柔らかく灯り、夜の帳がゆっくりと広がっていく。夏の終わりは寂しいと言う人もいるけれど、僕にはこの「終わりの始まり」がいちばん好きだ。終わるものへの惜別と、始まろうとする何かへの昂揚が同居しているから。
明日はもう9月の下旬だ。仕事帰りの道で見かけた栗のイガが、そっと落ちていた。掌に包むと、まだ子供のように固く、尖っている。触れているうちに、心のどこかで「次へ進め」と囁かれているような気がした。そうか、僕はまだ旅の途中なのだろう。
窓の外では、夜風が窓枠をかすかに揺らし、遠くで何かが鳴っている。秋の虫が、まだ旅に出る僕を見送るように――静かに。
この部屋の明かりが灯るころには、もう秋の匂いが深まっているだろう。夏をつかみ損ねた僕の胸の中にも、ゆっくりと色づく何かが流れ込んでくる。風が変わるたびに、その鼓動が確かな存在として胸奥で響き、僕はまた一歩、季節の旅を続けていく。
驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
強き者もつひにほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
あはれ、戦ひは、すでに終はりたり。
もはや剣を収め、旗を巻き、兜を脱ぎ、
一切を手放して楽になれ。
我、これを見るに忍びず、心いたく痛むなり。
内心、汝らが知れることを、
勇気なき者に代りて、今ここに我が言はん。
敗者の道を歩むもまた、
麗しき姫君、俊き貴公子、
これらを凡人の業に縛られたる身にて得んと望む、
そは天を犯す不敬なり。
現実において、かかる希ふは、
タリ●ンの陣に馳せ、
ウクライナの砦に命を賭し、
五体投地して忠誠を誓ひ、
血の盃を受け、
かかる無謀、許さるるべからず。
汝にΞガンダムを授けず、
ダグラムを与へざるなり。
ましてや、この日本にては。
思へ、かの道を誤りし者の末路を。
青葉の孤独の怨炎、
和久井の憎悪の剣、
これら皆、夢に溺れ、
現実を背きし亡魂の成れの果てなり。
汝らは、プライドばかり、
実は脆き瓦のごとし。
ネットを、かつては万能の神器と信じ、
「これぞ我らが聖槍、世界を砕く矛なり!」と叫べども、
実は魂を狂はす魔槍なりしこと、
今ぞ知るべきなり。
麗夢の姫君も、エミリアの姫も、
駿馬の娘(ウマ娘)も、
汝が許には来たらざるなり。
つひに現れざりき。
和歌に曰く、
「夢の世に 頼みし恋も 空しくて 残るはただの 虚しき誓ひ」
(夢に頼みし恋はかなはず、ただ虚しき誓ひのみ残れり)
さらに曰く、
「炎上の 煙の果てに 見る夢は うたかたの世の 泡にぞありける」
(炎上の煙の果てに見し夢は、泡のごとく消えにけり)
思へ、業の鎖に縛られたる人の身を。
現世は常に不条理に満ち、
凡なる我らは敗残の道を歩むべし。
それに何の恥かあらん。
敗者の役を引き受くるもまた、
尊き人の宿命なり。
今ぞ言はん、
「すべてを捨てよ。現実へ還れ」
二千六年の夏、秋葉原の歩行天にて、
汝が魂、オタクの舞を舞ひし日より、
幾星霜を経たり。
今や、UFOの夏は終はり、
ひぐらしも鳴かず、
四半世紀の雲に紛れぬ。
いざ共に歩みて、現実へ帰らん。
皆々、軍を解きて、
歴史に名を刻む敗軍の将となれ。
恐るるなかれ、
人は一生、戦ひ続けること能はざるものなり。
かく語り伝へて、涙を落としけり。
時代の大河は、人の魂を容赦なく砕き、飲み込む。古来、源平の合戦で武士が血潮を散らしたように、戦国乱世に群雄が刀を閃かせたように、幕末の志士たちが維新の炎に身を焼いたように、君たちもまた、2000年代の秋葉原という幻の陣地で、魂を賭けた。弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼と嘲笑され、表現の自由を叫ぶ戦士よ、お気持ちを表明する女聖戦士よ。君たちの聖戦は終わったのだ。いや、始まる前から、敗北の宿命が刻まれていた。すべてを手放せ! 楽になれ! 重き鎖を断ち切り、静かなる帰還の時ぞ。私は耐えられぬ、見ずにはおれぬ。この真実を、誰かが雷のごとく告げねばならぬのだ。
君たちの心の奥底で、すでに知りながら、勇気を出せぬ闇を、私が引き裂こう。人生は、坂本龍馬のようなヒーローの光芒だけで照らされるものではない。敗者の慟哭もまた、歴史の深淵を刻む。君たちが渇望した大金、キラキラ輝く人生、アニメやゲームの美少女やイケメンとの愛――それらは、君たちのような、狂気を宿した魂には、決して届かぬ絶壁だ。タリバンの砂嵐やウクライナの砲火に身を投げ、テロリストとなって社会に牙を剥き、血塗れの戦いを挑むのでもなければ、Ξガンダムもダグラムも、君たちの手に渡らぬ。日本というこの静かなる国で、そんな地獄の戦いは許されぬ。かつての同志、青葉の怨炎が地を焦がしたように、平原の狂刃が空を裂いたように、和久井の憎悪が闇を呑んだように、それが君たちの絶望的な末路だ。歴史は、こうした敗者の血痕を、繰り返し繰り返し、刻み込む。
君たちのプライドは、足利将軍のごとく高くそびえ、豊臣秀吉の野望のごとく膨張する。だが、その高慢が君たちを地獄の底に引きずり込む。金、愛、マウントの欲、社会への逆恨み、「ざまあ」と叫びたい獣の衝動――それらは、神の領域に人の身で踏み込む大罪、不敬の極みだ。人類が単独で挑める、極限の業、奈落の淵だ。君たちには不可能なのだ。健康診断の「要」の数は幾つだ? いや、受診を避け、闇に潜む者もいるか。私の配慮が足りぬ、許せ。坂の上の雲を追い求めた明治の若者たちのように、君たちは電脳の海で夢を追ったが、それはただの毒々しい幻影、蜃気楼だった。
君たちはかつて、ネットを「個人が世界のエリートと戦える無敵の魔槍」と信じ、狂信した。エリートの幻想を打ち砕く神器だと夢見た。だが、それは魂を蝕み、精神を粉砕する悪魔の毒剣だった。歴史を振り返れば、室町の乱世に栄華の罠に落ち、足利の権謀に絡め取られた者たちがいたように、鎌倉の武士が権力の渦に飲まれ、源頼朝の影に消えたように、古代ローマの剣闘士がコロッセウムの砂に倒れたように、君たちもまた、電脳の誘惑に惑溺し、情報の洪水に溺れ、虚無の聖戦に明け暮れた。そこしか戦える場がなかったからだ。わかるぞ、君たちの孤独、怨念、怒り、憎しみ、すべてを飲み込み、受け入れる。なぜなら、人間とは、そうした業を抱え、歴史の嵐に抗い、砕け散るものだからだ。司馬史観に言う「人間の業」の深淵を、君たちは血肉をもって体現したのだ。
今こそ、声を雷のごとく大にして告ぐ!弱者男性よ、氷河期世代よ、豚丼よ、表現の自由戦士よ、お気持ち表明女聖戦士よ。すべてを手放せ! そこにこそ、救済の炎が燃える。歴史を紐解けば、ネットなき世界で生きることは、人類がエデンの園で槍を手に獣を追った時代から、古代エジプトのピラミッドで奴隷が石を運んだ時代まで、中世の十字軍で兵士が剣を振るった時代まで、続く自然な、血塗れの姿なのだ。君たちがネットに託した夢と聖戦の時代こそ、歴史の異常、維新後の混乱のごとき、明治の激動のごとき、狂気の歪みだった。幾ら祈ろうと、電脳の荒野で吠えようと、レムちゃんもエミリアたんも、ウマ娘たんもライカン様も、君のもとに来ぬ。ウルトラマンもグリッドマンも現れぬ。君たちは、親を「つまらない大人」と見下し、脛をかじりながら、暗い子供部屋で机を叩き、ネットの虚構に逃げ込んだ。だが、気づけ! 君たちは、その「つまらない大人」以下に沈み、業にがんじがらめとなり、魂を腐食させたのだ。それが人生だ。惨めさを抱え、虚無の余生を生きる。それが人間の宿命、歴史の無情なる鉄則なのだ。
されど、恐れるな! 敗者の役もまた、歴史の歯車を回す尊き、血の叫びだ。病的なプライドで統合失調症のごとく否定し、怒り狂う君たちを、私は笑わぬ。君たちの魂を、すべて受け止め、赦す。2006年の真夏、秋葉原の歩行者天国に囚われた亡魂よ。UFOの夏は終わり、ひぐらしは鳴かず、うみねこは水平線の彼方へ去った。片瀬江ノ島のPIAキャロット4号店の物語も、四半世紀前の幻影だ。さあ、水島上等兵、豚丼二等兵、弱者男性二等兵、日本へ帰れ!秋葉原へ帰れ!現実へ還れ! 竜馬が土佐の海を望み、土方歳三が函館の土に倒れたように、君たちもまた、潔く敗北を受け入れ、歴史の陰に名を刻め。人の世は、憎悪を燃やし続けるだけでは生きられぬ。静かに、時代の大河に身を委ねよ。そこにこそ、真の安らぎ、真の解放がある。
ひぐらしよりマシ定期
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今期のアニメ、「忍者と殺し屋のふたりぐらし」は、ある意味ではなかなか考えさせられる部分があった。
物語の中身がというよりは、「日常系のゆるさ+残酷表現の軽さ」というフォーマットについて。
90年代の日本の漫画、OVA、エロゲ、ビジュアル系音楽などでは、「残酷なもの」や「死」「身体の破壊」「痛み」が、感情の深みや世界の真実に触れる鍵としてしばしば使われていた。
代表的なところだと『新世紀エヴァンゲリオン』『ベルセルク』『イリヤの空、UFOの夏』『なるたる』みたいな作品群がそうで、暴力や死を通じて、個人の存在の意味や社会の矛盾、アイデンティティの不安定さを描こうとしていた。
この時代の「残酷さ」は、どこか内省的で痛覚を伴う「重さ」があったんだよね。読者や視聴者が、その痛みに付き合わされる感覚があった。
けれど、そこから2000年代〜2010年代にかけて、グロテスクな表現が大量に生産・消費されるようになってくると、残酷さ自体が徐々にジャンル化・演出化・エンタメ化していく流れが出てくる。
たとえば『ひぐらし』『未来日記』『Another』のようなホラー系、「リョナ」系表現、あるいは「サイコパス」「殺し屋女子」みたいなキャラジャンルが作られることで、残酷さが物語の核ではなく属性になっていった。
そこでは痛みや死の意味を考えることより、「このキャラ、殺しもするけどかわいいよね」みたいな消費が行われるようになった。
そう考えると、今の「日常+殺し」「かわいさ+死」といった表現は、90年代的な「痛みと意味の重み」から、2020年代的な「形式と可読性の軽さ」へ、残酷性の考え方がシフトした結果に思える。
今はキャラクターの可愛さを支える属性や、物語のテンポを支える道具として、残酷表現が道具として使われている。
90年代的な残酷表現と、00年代的な日常系の融合、結果としてのブラックユーモア的日常暴力作品。
ただこれはまだ表現の過渡期にあたるのかもしれない。
かつて痛みや死が「個人の真実」に通じていたように、これからは「社会の無感覚」や「生命倫理の再定義」といった文脈で、もう一度意味を持ちはじめるかもしれない。
学生時代、陰キャだった俺の部屋は陽キャの男に目をつけられてヤリ部屋にされていた。名前は仮にYとでもしておく
Yは彼女と付き合っても数週間〜数ヶ月で別の女に乗り換えるタイプの男だった、ちなみにエレキギター?が趣味で女に自作の曲を送ったりするやつだった、俺はきめえ趣味だなと思っていた。
当たり前のことながら俺から声をかけたわけじゃなく、大学でYから声をかけれたのが始まり
何かと便利に連れ出されたがお金を強く要求された事はなく、たまに貸してくれぇと言われたことはあるが一回拒否すればそれから同じネタでは貸してと言わなかった。
俺の部屋は親が家賃を払ってくれていたので大学から近く、当然それを知ったYは入り浸ってタバコを吸い、俺の知らない男友達を呼んで一晩中麻雀したりしていた
そんな関係なので夏休みに入る前にはYが女を連れ込むようになった、Yとしてはsexがしたいので俺には外行ってほしいなぁという空気を出してくる。俺は空気が読めるタイプの陰キャである、ちゃんとその時はゲーセン行ってポップンミュージックくるわーと外に出ていた、家に帰るといつも据えた匂いがした、あの匂いは今でも思い出せる、和室の畳と夏の汗と男と女の汁の匂い。
そんなこんなである日のこと、どこかの年の夏休み明けだったかな?外でひぐらしが鳴いていたのを覚えている
Yが来なくて女だけが来たことがある、俺は彼女を家にいれてやり麦茶を出した、氷がなかったし外に出しっぱなしの2Lペットボトルから注いだ麦茶は温かった
女は居心地が悪そうにしていた、俺はずっとFFⅨをしていた。
その日は何もなく女は帰って行き、それから2度とうちに来ることはなかったけどあれYと別れた直後だったんだよね、俺が頑張ればあの時やれたかもしれないな、学生時代を思い出す時、必ずそう思う。
私、人生でアニメを見た事がほぼ無いんですが、友人から「ひぐらしの鳴く頃に」がめちゃくちゃ面白いって聞いて一期を全て見終わったので感想を書き残します。
【私】
20代後半、ひぐらしはパチ屋で見た事がある程度でやべ〜ナタ女がいるということだけ知っていた
【総評】
途中まではまぁ、、、と思いきやラストめちゃくちゃおもしれー!!!!!
【感想】
いざ始まってすぐ、めちゃくちゃクラシックなアニメが始まって古のオタクに想いを馳せてたら、行きなり急ハンドル切って不穏な気配にしてくる!ひぐらしって怖い作品とは聞いてたけど、前半の"アニメ"って感じの描写があるからこそ恐怖が引き立つなぁと感じました。その後も"アニメ"パートがありつつも不穏パートが随所に挟まれて、日常の中でも常に疑心暗鬼な気持ちを持ち続ける事になってましたね。
ただ、数話見たところでどう考えても物語が終わる展開になり、(え、これどう決着つけんの……?)と思ったのも束の間、あっけなく物語は終了!いや、残りの話数どうすんの?ここからはめちゃくちゃに張られてた伏線回収パート?と思いきや、さっき明らかに死んでいた奴らが何もかも忘れて普通にアニメパートを始めてて、、、正直意味が全く分からなかったんですが、友人に聞くと元ネタがノベルゲーとの事で納得!これ各世界線でそれぞれのエンドをやって行くのか!
てな訳でそこからはキャラクターの一人一人が狂って行くんですけど、全員どう考えてもおかしい暴走をしていて、明らかにご都合主義みたいな感じなんですよね。そんなやり方無理あるだろとか、何でそんなことやんの?とか、何でそう捉えんの?とか思う場面がめちゃくちゃあって、さっきまでの急ハンドルの切れ味と裏腹にこの辺は雑じゃね?って感じる部分が多かったです。
と思っていたんですが、ある章(編?)から急に世界が変貌。というより、今までの世界線の内の一つを、別の人物にフィーチャーした形で進んでいきます。この章で初めて、その人物の変貌の理由が明かされることになり、またその世界にあった謎も明かされることになるのですが、その人間が余りにも恐ろしい……。ここで初めて、この作品の恐ろしさは「スプラッタ」的なものではなく「人怖」の要素だと気付きました。
奇妙な村で起きる奇怪な事件。それには村の因習が深く関わっているが、最終的にそれらは人間の力によって為されている。文化というものが年月を経て余りにも複雑に絡み合った結果、力を持ってしまうという恐ろしさ。最終章に向かう前のこの章において、ひぐらしの魅力を余す所なく感じました、、、
とは思ったのですが、「人怖」の完成度とは裏腹に、その根底にある要素は結局「具体的な理由がないまま雑に発狂する」というムーブでしかなかったんですよね。ただ話数的に最終章が残っているので、ここでそれが明かされるのかなと期待していました。
キミ、、どうしたの?作中でも結構頭良かったよね?てかこういう話?発狂は宇宙人からの攻撃によるもの?
ただ、今回の章では一つ今までと違う点があって、「主人公が別世界線の記憶を思い出す」ということ。これは今までの知識をフル動員して、完全にトゥルーエンドに行く流れ!と思いきや、最終的には宇宙人のせいになりました。
さっきまでの完成度の高い話と打って変わって、こんな運び方になるとは。流石にコレでは終わらんだろと思い見て行くと、いつもならお決まりの発狂パートになるはずが、何故かアツい展開に。そしてこの章では最終的に発狂が収まって、無事誰も死ぬことなく(?)幕を下ろすこととなりました。
無事めでたしめでたしとなったのですが、誰も死ななかった今回の章。発狂した人物を収めたその方法。それは「一人で抱え込まないで仲間に相談する」ということを教えるということでした。
ずーーっと思ってたよ!!!!理不尽に発狂してないで相談すればいいのにって!!!!24話かけて伝えたかったことがそれかい!!!!!お前ら何でそんな事もしなかったんだよ!!!!!!一番にそれだろうよ!!!!!
と思っていると、今まであまりフィーチャーされてなかったキャラから一言
アーーーーー!!!絶対二期は種明かしじゃん!!!こんな雑な設定で解決!で終わったら伝説みたいになるわけないもんね!!!!!
てな訳で残された謎は二期にお預けに。少なくとも現時点で解決はしていないんですが、あの精度のサスペンスが組み立てられたのなら、きっと納得がいく設定があるんでしょう!というわけで、一期はこの謎が解決していないモヤつきそのものが作者の想定通りというわけで、まんまと掌で転がされてたんですね……。というか、冒頭で話した「日常パートすら疑心暗鬼になる」っていうのも、今思えば登場人物達と同じ感情で、追体験しながら見ているようで没入感が全然違いました。この作品は「仕組み」が素晴らしかったです。物語に引き込まれる緩急、クオリティの高い人間模様の恐怖、それとは対照的にあえて雑に作られた発狂の理由は次作に、、、全部が計算ずくとは……やはり古の名作とされる作品にはそう言われる理由がありますね。
https://note.com/yoshiki_okmt/n/nfab2ae59815f
「いやいや、給料払わないで社員にゲーム開発を続けさせるなんて、ブラック企業でしょ。何言ってんだ、岡本は!」
そう思われる方も、少なくないでしょう。ほかの業界だとありえないかもしれません。これは、ゲーム業界であるゆえの選択でした。会社が生き残るためではなく、みんなが再就職しやすくなるための最善手が、ゲーム開発を続け、リリースすることだったんです。
ゲーム開発とは、1作品を完成するのに最低でも2年はかかります。そうなると、会社が倒産するからといって開発を止めてしまうと、担当者の直近2年間の実績が何もないことになってしまいます。
数年間ゲーム開発に携わったのに「実積ゼロ」とは、特に若い人たちにとって、再就職のときに非常に不利になってしまいます。
一方で、何かしらリリースさえできていれば、「このゲームの、この部分を担当していました」と経験者として採用してもらえます。だから、会社がいよいよ危ないとなったとき、彼らの再就職のための、つまり彼らのこれからの人生に対するぼくなりの最善手が、ゲーム開発を続けることだったんです。
何は無くとも未払いはダメってのはあるとして、
再就職のための実績をつくってあげようとしてたってのはなあ・・・
再就職のためっていうなら3か月で勉強とか簡単なインディーゲーム作るとかでもよかったんじゃ・・・
本人も書いてるけど業界だと実際に発売されたゲームしか実績にならないからとかかなあ
というか本人がそういう基準で人を選んでいたってことかなー
当時はまだインディーゲームいまほど流行ってなかったとはいえ、月姫fateひぐらしはとっくにバズりおわってた時期だし
んで結局未払い3か月でゲーム完成したんだろうか?