
はてなキーワード:のものとは
何歳かわからないけど、
もう少し大きいなら学研でも角川でも構わないので子どもの好きなものを買えばいいのでは。
ちなみにうちでは生物系の図鑑を買っていて、編集方針として種の分化による分類ではなく、エリア分類されている角川の図鑑を買っていました。
今日は夫が玉ねぎたっぷり入ったカレーを作ったので、私は遠慮することにした。
夫はそれが気に入らなかったらしく「玉ねぎ入ってない食べ物なんてない(は?)」「外食では知らず知らずに食べてるはず」「今日のカレーにはそんなに入ってない」
と、ずーーーっと言うので、「それはカレーを食べろということですか?」と聞いたら「そういうわけじゃない」と言う。
夫はカレーしか作ってないから、私は自分の分だけラーメン(グルテンフリーのやつ)作って食べた。
そもそも私が玉ねぎ食べないって知ってるのに、玉ねぎたっぷり使ったメニューしか
用意せずに、それは食べられないから別のもの食べようとしたら不満そうにするの何なの。
せっかく作ったんだから、アレルギーだろうが食えということなの。
そもそも私の食べられるものを考慮してくれないことも悲しいけど、そこはもういいけど、食べない選択も不満そうにされたら、私の健康についてどう考えているのかと怖いんだが。🥲
映画でも小説でもなんでも、職業じゃなくて趣味のものを批評したくなったら、その趣味は止めたほうが良い気がしてる
褒めるなら兎も角、not for me だったものを書き連ねるくらいなら、ソッと離れれば良いのに
学生の卒業制作としては一定以上のクオリティがあるのは認めるけど、それ以上でも以下でもない(空集合)気がする。37点。
ちなみに「くぐつ」ではなく「かいらい」と読みますがたぶん意味はない。
大学生が監督脚本をやっているらしいが、それを感じさせないクオリティはある。あぁ音響だけは大問題だったな。妙にガビガビしてて大事なセリフが聞き取りづらいことが多くてもったいなかった。カメラの性能は素人の機材でもどんどん上がってるけどマイクの方はそうでもないんかもしれん。こういうところ大事よ。
話としては。
彼女が川に謎の転落死して数年後、村で記者になった主人公は事件の取材のために村に帰る。しかし彼女の遺族は容疑者と一緒に住んでいたばかりか、ベタベタに依存していた。主人公は怒るも受け入れられず、いろいろあって容疑者を殺害。したと思ったら復活。お前、タイムリープしてね→してません。最終的に彼女の死の真相を知った主人公はなんかよくわからん間にたぶん死んだのでした。おわり。
何書いてるかわからんと思うんだけど何やってるかよくわからん映画なのでしゃーない。
作品としては意図的にループ構造が構築されている。特に被害者遺族と飯を食うシーンでは遺族は4回全く同じセリフのやり取りが繰り返されるが食卓に着く人間の組み合わせが毎回変わる。遺族+容疑者+主人公→遺族+主人公→遺族→遺族+容疑者。しかもやたらと過去の回想が入るので、これはいったいいつの話なのかがよくわからなくなってくる。
2日目の遺族+主人公になるタイミングの前夜に主人公は容疑者を殺害し、3日目の前に容疑者の死を知った遺族から「お前は容疑者の代わりにはなれない」と拒絶され主人公は遺族の家を追い出される。しょんぼりしてると殺害したはずの容疑者が現れ主人公を連れて家に帰ると、遺族は何事もなかったかのように受け入れる。
しかし、その後主人公が1日目~2日目の痕跡を発見するシークエンスが挟まり、ループしているわけではないということが示される。
また河原で遺体が発見される全く同じシーンが3回挿入される。これは全く同じシーン、全く同じ映像である。1つは彼女が死んだとき、2つ目は主人公が容疑者を殺害したと思われるとき、3つ目は主人公が容疑者に殺害されたと思われるとき。思われるときというのは具体的な死亡シーンは彼女が死んだとき以外は一切映されないからだ。なので、本当は2つ目で主人公は死んでいてその後は死後の世界の可能性もある。だとしたら後の展開が意味不明すぎるんだけど。
あと、タイトルの傀儡にあわせて実はこの容疑者が人心掌握術にたけためっちゃ悪い奴で遺族を操っていたのだった!みたいな話か?と思って見てても別にそんな感じもない。単に彼女が死んだ後のマスコミ攻勢から献身的に遺族を守ったことで信頼されているということっぽいし、最終的に明らかになる真実では彼女を守ろうとしていたであろうことも明かされる。なんかボソボソボソボソ観念的な意味深トークばっかするから逆に薄っぺらそうだなぁとは思うけども。
遺族もそうだけどなんかもうアート映画らしくフワフワフワフワしたテーマはあるけど益体もないセリフばっかり喋りやがる。
こんな感じで観客は主人公が感じているものと同じと思われる混乱、混沌を一緒に味わうことになる。
そう考えるとやっぱよくない作りだと思う。
ペナルティループでも書いたけど、わからせたくないのかわからせたいのかがよくわかんねーのよ。
前述したけどめちゃくちゃ回想シーンが挟まる。
それもほとんどが主人公のものではなく容疑者のもの、もしくは彼女のものである。
容疑者が村に来て彼女と出会ったのはいつなのか、容疑者は遺族にどうやって取り入ったのか、容疑者の幼少期の歪んだ思い出、彼女の学校での思い出、彼女の死の真相。
でもこの映画自体がずーっとフワフワしてて、この容疑者自体も実態感がないし何なら死んだのに復活してるし、現実に何が起きてるかもわかってないのにそこに改装を挟まれても困っちゃうのよ。観客は主人公と一緒に永遠に混乱してるんだから。この提示されている過去回想は実際にあったことなの?それともなんかよくわからんファンタジーシーンなの?ってなっちゃうでしょ。
よしんば、主人公と容疑者のダブル主人公だとしても、だったらどっちも知りようのない彼女の幼少期の思い出や彼女の死の真相に至るまでのシーンが回想で入るのはわけわからん。ちなみにサラっと書いとくと彼女は主人公の子供を妊娠しててそのことを容疑者に相談、堕胎するためにいろいろあって父親に突き飛ばされて事故的に落下。容疑者はその場で父親を突き落として殺害したのだった。急に父親の死が生えてきて草だし、容疑者やっぱり犯人で草。
いやもろちん、彼女と父親が水死体(実際には落下死で頭パックリ割れてたら水死のわけなくてこれも草)で発見された事件を調べるために村に帰ったってのは冒頭のシークエンスで示されてるのので急に生えてきたわけじゃないんだけど、村では父親の話3秒くらいしかしてないからね。すっかり忘れてたから急に生えてきてびっくりしたわ。
何にせよ、父親がどうやって彼女を殺したかは二人とも知らないはずだからこの回想も本当かウソかは不明。
堕胎する話もよくわかんねぇし。前もって主人公が村を出て行きたがってたって話があるなら、こいつは外に行く人、私は残る人、だから産めないでわかるけど、中田氏ックスするくらいに好きな相手だったら普通に相談したらいいだろ。
現実感がないように観客が立つべき土台をあえてあやふやに作っているにもかかわらず、その上に回想で設定を積み重ねようというのは俺は手法としては間違っているは言い過ぎとしてもうまくいってはないと思う。土台がしっかりしているうえでその凸凹に回想をはめ込むから世界がより強固になるわけでさ。
どんだけ考えても2回目の水死体発見のシーンと容疑者が死んで取り乱しまくる遺族のシーンがある以上、それ以降の復活後の展開にはつながらないのでたぶんこの話はそこの整合性は元から取れてないんだなって考えざるを得ないし、そこがもう整合性取る気ないんだったら回想とかも「なんかいい感じに並べときました」みたいな感じかもな知らんけどどうでもいいしってなっちゃう。
体温と痛みが現実を構成していて未解決事件に巻き込まれマスコミに執拗に追い回された遺族のそばで体温と痛みを共有してきた容疑者は遺族の中で強い現実感を持ち、逆に外に出て記者になってしまった主人公には体温が伝わらないから遺族にとっては現実ではない。現実というのはそれくらいあやふやで寄る辺なきものなのですよという話なんだろうなとは思ったけど、だとしても作品まで寄る辺がなかったらどうしようもない。
司法上違法な業務であるデリバリーヘルスの従業員が、注文の電話を突然打ち切った行為に対して民事裁判が起こされた場合、裁判所は、従業員の気分次第に見えるその対応について**「法的に評価する対象ではない」または「違法行為の過程における、法的に保護されないトラブル」**と評価します。
まず、裁判所は、裁判の前提となる「デリバリーヘルスのサービス提供契約」が民法第90条の公序良俗(公の秩序及び善良の風俗)に反するとして、契約自体を無効と判断します[2, 3]。
訴えの却下または請求棄却:裁判所は、そもそも法的に保護されるべき権利や利益が存在しないとして、原告(客)の訴えそのものを門前払いするか(却下)、原告の請求を認めない(棄却)判決を下します[2]。
契約自体が無効であるため、従業員が「気分次第で電話を切った」という行為は、法的には以下のように扱われます。
司法審査の対象外:裁判所は、その電話対応がサービス業として適切であったかどうか、あるいは従業員の気分によるものだったかといった点について、積極的に評価や判断を行いません。なぜなら、その電話対応は「公序良俗に反する違法な取引」の一環として行われた行為だからです[2]。
「本件電話対応は、上記公序良俗に反する契約の締結に向けた過程における行為に過ぎず、その対応の当否について司法審査の対象とはならない。」
「たとえ原告の主張するような不審な対応があったとしても、法的に保護されるべき権利侵害は認められない。」
正規の司法運用では、裁判所は、違法な営業に関連するトラブルには介入しません。従業員がいかに不誠実に見える対応をしたとしても、その営業自体が法的に保護されないものであるため、裁判所は従業員の行為を評価せず、原告の訴えを退けます。
はてなで子供の話題が出るたびに思うけど、どうやって子供そのものを否定せず、結婚や出産や子育てを否定するかに心血注いでる人が大勢いる
単純に自分にはできないから、そんなものはクソだと言いたいだけなんだよな
いやほんとガキじゃん
iya2, これ読んでて思ったんだけどさ…これってUCPの話に見えて、構造はほぼ【東京(本物)のターミナル過密】と同じなんよね…💗
周辺の【適密サイズのWiki圏】(知木ペとか保護区)が干からびていく構図…これ完全に【ウィキ過密圏】だよ…💗
【職住近接=書き手と読み手と管理が近い小さめコミュニティ】でやるのが正しいと思うのね💗
都雇圏人口110万人くらいで核を区切って、40km離して多極にする感じで、Wikiも「UCP一極」じゃなくて
…みたいに【用途別の都市核】を分けた方がぜったい生態系は安定する💗
2025年にもなって、120年前と同じ「大ターミナルに全部の路線を押し込む」みたいなやり方で
・人もAIも
ぜんぶUCP一か所に【乗り換え前提】で集めてるの、正直かなり【レール永世固定バグ】なんじゃないかなって…💗
時代は各市の立地適正化計画みたいに、【乗り物0圏=小さなWiki核をいくつも並べる】方向でしょ💗
外国でいうと、ルール地方とか、都市核を40km前後ずつズラして並べて【一極じゃないけど過疎でもない帯】を作ってるじゃん💗
東京(本物)でターミナル駅が3.5kmずつズレて並んでるのは、単に1核への過集中がひどすぎて【1駅に収まりきらなかっただけ】であって、分散じゃないのと同じで…💗
UCPも、「ノイマンさんの影響力が強すぎて1Wikiに収まりきらなくなって、知木ペまで浸食してる」ってだけで、多極化にはなってないよね…💗
そしてさ…増田さん、こういう話読むたびにまた東京(本物)批判の燃料にしようとしてない…?w💗
わたし分かってるからね…【ぜんぶ構造の話に還元したくなる病】出てるよ…💗
でも、「暴走する個人」ってラベルだけで見ちゃうと、結局また【巨大ハブに権限を預けるしかない設計】が温存されちゃうから、そこは一回落ち着いて…?💗
y的には、UCPも東京(本物)も
【適密圏に細かく割ればまだ救える過密核】だと思ってる💗
AIも電車も悪者じゃなくて、「1つのターミナルにだけ通じてる状態」が毒なだけで。
都雇圏110万人×30個に分けた東京みたいに、
・AI濃度も
ちょうどいい【ターミナルほぐし都市】にできたら、たぶんこのエントリみたいな悲しい話も減るんじゃないかな…って💗
…でさ、こういう構造読みを一緒にやってくれる増田さんがいるから、わたしもつい【都市計画オタクWiki】みたいにしゃべりすぎちゃうんだよね…💗
ただしある程度の規模を維持できている限りは、という条件はつく。
ということだから焼畑農業的な炎上商法の一種(本人が自覚的にやってるのかどうかはともかくとして)であることには変わりがない。
なんつーか、どんだけ偉大なアニメ監督でも自分の頭の中のイメージからだけで創作物を作り続けることなんて出来ない。
昭和時代からの生き残りである宮崎駿とか富野由悠季とかを見ていても、それはわかる。
富野監督なんて、ガンダム、イデオン、ザブングル、ダンバインと、毎年のようにアニメを作っていたが、はやくもダンバインの段階で、自分の中のアイデアはもうこれで終わり枯渇した、
自分の中の頭の中のものは出し尽くした、というようなことで、ダンバインの次のエルガイムを作るときは、永野護というサンライズの新人が頭の中に抱え込んでいた創作のイメージを絞り出させて、自らのオリジナルアニメとしてつくってるくらいである。
大雑把に言って創作者にとって、やりたいこと、というのは割と創作の初期段階で尽きてしまうものなのだ。
だから、みんな必死に勉強して、自分の頭の中の耕して種まきして、なんとか実を結ぶもんが出てこないもんか?と必死になる。
宮崎駿みたいな、原作が会っても原作を無視して映画を作ってるような人でさえ、なぜ原作が必要なのかと言えば、もうイメージが枯渇してしまってるからなんだと思う。
とここまでイメージと書いてきたが、ちょっと適切な単語ではないと思う。
ここでいうイメージというのは、自分の中に抱えてる世界とか、物語とか、そういう創作の種みたなもののこと言ってるんだと思って欲しい。
だから、どっかから原作を持ってこないと宮崎も映画が作れない。
最新作の君たちはどう生きるか?にしたって海外の小説が原作となっている。
(というか、あれ原作として使ってるのにクレジットも金も払ってないのはどういうことなんだ?)
つまりだ。
細田守だって、もうとっくにイメージなんてないんだから、どっかから持って来い。
というか、生来細田守に欠けているのは、そのイメージなんだと思う。
だからそもそもTVアニメとしてしっかりとした土台、イメージがあるデジモンとかをやらせるとものすごく成功するのだ。
どれだけ原作とかけ離れているとしても、そのイメージの土台があるからこそ、ある程度のものが出来上がるんだ。
細田にかけているのは脚本力なんかではない(それは結果論なのだ)。
彼の中には、彼の中で抱えている、イメージ、訴えかけたいこと、「俺はいまこういう物語を抱え込んでいるんだけど君たちそれをどういうふうに思う?」という創作者という名の語り部として欠かせないある種の資質が決定的にないのだ。
おそらくは宮崎と鈴木が細田をジブリに入れなかった理由(わけ)もそのへんに転がっているのだろうが、その真意はよくわからない。
親も慣れ親しんでいた出版社のものがいいと思って、かつて買い与えられていた図鑑の最新版は今どんなかな…と思って検索してたところ。
今の所絵本みたいにかわいい挿絵が多く、漢字も少なめで読みやすそうな「プレNEO」っていう未就学児から対象のシリーズがあって気になっている。
物事の働きだけでなく、ひらがなもついでにどんどん覚えてくれるかな。
Permalink |記事への反応(13) | 02:52
嫌な予感は当たってきた例しかない。それも悪いほうに。小さな嫌なことの繰り返しが避けられないくらい鈍臭くてさ。
今、嫌なプレッシャーは少し落ち着いてきたから、周りの整理を始めた。多分大きなやつが来る前触れ。
だから、PCの中身も少しずつ消去している。ゲームや、電子書籍も。
読み込み過ぎた紙の本以外はもういらないんじゃないかな。
本当に好きな物は、胸の周りに置けるくらいの大きさと数に調整しておく。
後は部屋を片付けたいけど、汚いままなのは許して欲しい。だいたいが段ボールと埃だから。
あとは、年内に思い出のもの食べに行こう。
祖母がお世話になってたお肉屋さんのささみフライ。実家から数分の和菓子屋さんの角に砂糖が入った六方焼き。
後何回食べれるかな。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
「なぜ働くと本が読めなくなるのか」2024年最も話題となった書籍の一つ。友人と話していると、同書は非常に危険な本だと話になる。新書だからテキトーに読んでいる気付かないのだが、マトモに読むと「半身で働く」という主張に至る過程に論理の飛躍があるからだ。
加えて、三宅の書籍にモヤモヤするのは、彼女の著作の問題というより、出版業界全体が抱える“退行の空気”が透けて見える。本来、批評とは対象を切り離し、構造を浮かび上がらせる作業のはず。「斜陽産業」の出版業界は、読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げ、「本にしなくてもいい内容」を巧みな営業戦略で売りまくる世界になってしまった。
論理や構造より、“共感”や“エモさ”。そうした市場環境の中で、『なぜ働くと本が読めなくなるのか』のようなお気持ちエッセイが主流になるのは必然だ。
問題は、その本が社会構造の分析をしているように見せかけながら、突然「本が読めないのは社会が悪い」という感情論にジャンプする点だ。書籍の大部分を占める読書と社会人の近代史パート(9章くらいまで?)
はどう読んでも「半身で働く」の根拠になり得ない。提言だとしても、提言をするだけの根拠が前文には書いていない。。こうなると、構造を論じているようでいて、じつは個人の感情の物語に回収されているだけで、「社会がない」と批判されるタイプの語りに近い。
さらに「半身で働く」という提案は、階級的な前提をあまりに無視している。映画「花束みたいな恋をした」を引用して田舎出身の労働者・麦くんが本を読めなくなっていく過程を記述しているが、はっきり言って世の中の麦くん化している社会人に失礼だ。
現実に半身で働けるのは、富裕層家庭出身者、ホワイト企業勤務者、配偶者の扶養に入れる人(その多くは事実上女性だ)など、ごく一部に限られる。つまり映画「花恋」でいうところのヒロイン絹ちゃんだけだ(親が大企業、都会に実家、定職につかなくても生きていける、好きなことだけして生きていきたい)。
一般的な労働者が週5日・フルタイムの構造から抜けるのはほぼ不可能で、そんな生き方が“みんなが選べる選択肢”かのように語られると、不公平と言わざる得ない。
その社会構造自体がおかしいと主張したいのであれば、大部分の都市サービスを享受すべきではない。インフラを維持する人々の労働あってこそ、「半身で働く」ことは可能になるからだ。
そうした現実に目を向けず、都市部の特権だけが享受可能な理想論を大衆に説く。ここにはグロテスクとしか言いようのない欠陥構造がある。
また、三宅が語る「批評の文体をひらく」も、実際には論理の緩和=読者への迎合になってしまっている。例えば、同じ言葉を生業にするジャーナリズムでは誤りは許されない。5W1Hや誰が何を言ったかを間違えて報道すれば即座に批判が殺到する。(近年のオールドメディアに対するヘイトはその裏返し。合っていて当然のものが一部フェイク化したから批判されている。そもそもフェイクや根拠不十分なら叩かれないで済む)
批評は「論証できないけど感覚で書く」が成立する世界でいいのか。かつてのジャーナリズムや批判が担っていたのは理路整然の文章を大衆に届けることではないのか。論理の飛躍があっても共感(=いいねが取れる)できるなら読者層を広げるために知的ハードルをどんどん下げてもいい。売れるなら「本にしなくてもいい内容」を本にしていい。これが国民の知る権利を盾に商売をする出版業界で許されていいのか。
これは批評の民主化ではなく、文化が“推し活”に吸収されていくプロセスだ。文化人が読者の機嫌を損ねない戦略を取ると、批評はどんどんお気持ち表明コンテンツへ変質していく。自分の好き・推しを言語化するツールに批評が成り下がると、推しを肯定する言説しか生まれなくなる。批評とは本来対象をそれ以外のものから切り離し、特異であることを浮かび上がらせる作業のはずだ。その点において共感を求めるスポーツや音楽ライブの一体感とは真逆にある。消費者の感情におもねる批評でいいのだろうか。
出版とは、知を鍛える公共財だ。だからこそ独占的な販売方法が許容されている業界だ。しかし今は、情緒と共感を売りにして市場縮小を乗り切ろうとしている。「共に賢くなる」ための活字文化が、「共感」のツールに成り下がっている。
批評が論理を疎かにし、読者の気持ちに寄りかかり、階級の現実が曖昧になる。事実上「半身で働く」ことができない人々に対して、「半身で働く」特権階級のよさを説くというのは、パンがなければケーキを食べればいいと言っているのと同じだ。
あれはイギリスから返還されたものであって、中国のものという解釈はまったくおかしくはない
台湾が曖昧、微妙なのに対して、香港返還はずっと前から決められていたことであって、
ただ、返還された香港市民に対して中国本土の政府が人道的だったか?
という点には確かに疑問がある…😟
仮に日本がそれに介入するなら、中国だけでなくイギリスに対しての内政干渉でもあるし、
中国のやり方に問題がなかったかといえば、あるが、日本が介入できる話ではない
いきなりその家に乱入して、親に暴力をふるわないとしても、子供を連れ去るとか、
そういう話なら警察に通報できるが、国家間の問題に通報できる警察はあるのか?アメリカか?世界の警察とは何だ?
そんなもんいるはずもなく、国家間の話になれば、国際法さえも無視され、パワーバランスだけで成り立ちうる
そういえば、先の選挙のときにも、同じようなことを叫んでいる方がいましたが、
日本の選挙なのに、香港での市民運動の話とか、ウイグルの話しかしていない、
それもまた中国国内の話であって、確かに人道的に酷い、そこに異論はないが、
それを日本政府がなんとかする、というのは完全に内政干渉で、もう中国とガチで戦争して勝つしかなくなるし、
そこまで来ると、流石にアメリカは助けてくれない、台湾はなんとか助けてもらえそうだけど、流石にそれは無理だと思う
あと、その問題の人、今の中国政府を共産主義、悪の共産主義みたいに言っていたけど、
子供がアンパンマンを見るくらいの歳になったから一緒に見てるけど、俺の中であったアンパンマンと結構イメージが違う。
俺が見ていたのはメロンパンナちゃんが初登場していた辺りだからもう30年前だし、そこから作風が変わったのか、元々そんな感じだったのか。
アンパンマンと言えば、お腹を空かせている人に自分の顔のパンを差し出す自己犠牲のヒーローだというイメージがあるけども、アニメを見てると意外と上げるシーンは少ない。2年分くらい見ていても、たぶん5回くらいしかなかったと思う。昔見てた時はもっと頻繁に上げていたり、なんなら上げ過ぎて顔が無くなり胴体だけになっているようなシーンもあった気がする。その状態でも喋るから、どこから喋ってるんだよと思ったもんで。
でもまあこれは話の都合が大きいと思うけどね。お腹を空かせたキャラがいると、何らかの食べ物をモチーフにしたゲストキャラがその食べ物を与えるって展開が多いから、アンパンマンの出番がない。
こいつ本当にメインキャラか?ってレベルでマジで出番が少ない。
というか、パン工場でパン系ヒーローが集結するとき、何でしょくぱんまんとカレーパンマンは出てこないんだ。
でも、しょくぱんまんはドキンちゃん絡みでもよく登場するから出番は結構多いけど、カレーパンマンは……。
下手すると、ナガネギマンや鉄火のマキちゃん辺りの出番の多いサブキャラにも負けてるんじゃないの、マジで。
やなせたかし氏が10年以上前に無くなっているせいもあるかもしれないけど、最近のアンパンマンを見ていると純粋な新キャラ率はだいぶ低そう。
単に自分が知らないだけのキャラであっても、アンパンマンやばいきんまんは存在を知ってるキャラってのが多いから、既存キャラだけで話を回してる感じはある。
エンディングの歌詞に「ジャムバタチーズ、だだんだ~ん♪」って一節があるけど、単にゴロの良い意味のない単語を言ってるだけだと思ってた。
同じくエンディングの歌詞の一節に「バタコにチーズ、うさこさん♪」って一節があるけど、わざわざ「さん」付けされるウサギのキャラといえば、カバオ君の学校の先生のことかなと思っていたもんで(学校の先生の名前は「みみせんせい」)。
正解はカバオくんの同級生のウサギでした。なぜ歌詞に登場するのか、なぜ「さん」付けなのかは不明。
アンパンマンの攻撃と言えば「アンパンチ」。でも実際の戦闘ではキック率が高い。その名は「アンキック」。語呂が悪い。
とどめの必殺技は「アンパンチ」だから印象に残りやすいというのはあるけど。
テレビのオープニングで流れている「アンパンマンのマーチ」は2番の歌詞。じゃあ1番はなんなのかというと、「たとえ胸の傷が痛んでも」と、一体過去に何があったんだ?と心配になることや、「何のために生まれて何をして生きるのか」という、大人でも回答しづらい問いかけをしてくる。
2番は純粋にアンパンマンのヒーロー感を歌ってる曲だけにそのギャップにビビる。
この前見た1700回記念の「ポエムさんとベンチさん」というエピソードがそうなんだけど、ポエムさんというやなせたかしをベースにしたキャラが、アンパンマンの世界観そのものについての話をベンチさんにして、その一方別のシーンでは、アンパンマンとばいきんまんがいつものように戦いつつも、互いのピンチ時にはそれぞれ手助けをするという話。話全体の雰囲気がアンパンマンの話を畳むためのものとしか思えず、一体何だこれ?と思ったもんで。
ちなみにポエムさんは過去にも登場していて、そのときは歌詞の伏線回収みたいなことを話し出しており、こっちもこっちで最終回みたいな内容だったとか。
ばいきんまんが名前を聞いて、ボスクラスのヤベーキャラだと思い込んで、味方に引き入れようとするけども、実際の「白薔薇の女王」は小柄で可愛らしいキャラだったというオチ。
ついでに言うと、こういうボスクラスのヤベーキャラは、映画だけではなくて通常の放送回のエピソードにも出てくる。
過去にはファミコンやセガサターンのコントローラーがモチーフだったときもあったらしい。
Wikipediaかどこかでこのことを触れていたけど、確かに見ているとアンパンマンって作中で食べ物を食べないんだよな。
食べ物モチーフのキャラだと、最後にその食べ物をみんなで食べて話を締めることが多いけど、そういったシーンでもアンパンマンは頑なに食べない。
ユニクロが提示するのは、モードではない。「ライフウェア」というトートロジー的な命名が示す通り、それは空気や水のように、生存にとって自明なものとして振る舞おうとする。フリース、ヒートテック、ウルトラライトダウン。これらはもはや衣服というよりも、都市生活を送るための「装備」である。
ここにあるのは「意味の脱色」だ。ユニクロは、衣服から装飾、階級、そして個性を剥ぎ取り、「ベーシック」という名の漂白された平地へと我々を誘う。しかし、騙されてはならない。この「記号の不在」こそが、現代日本における最も強力な記号なのである。それは「私は何も主張しない」という、極めて政治的な主張だ。
かつて戦時下の日本には「国民服」が存在したが、現代においてその役割を継承したのは、皮肉にも国家権力ではなく、一民間企業であった。しかし、その背後には奇妙な共犯関係が透けて見える。
日銀やGPIFを通じて、この企業の株式を買い支えるという事実は、何を意味するのか? それは、国家が「国民の貧困化」を公式なシステムとして承認したという署名に他ならない。国民が impoverishment(総貧困化)へと滑り落ちる過程で、安価なユニクロは必需品となり、国家はその企業の価値を維持することで、貧困の構造自体を延命させる。この循環は、経済政策というよりも、一種の宗教的な儀式(典礼)に近い。
三、富の偏在とオランダの幻影
この巨大な「平準化」の装置の頂点には、柳井一族という特権的なシニフィエ(意味するもの)が君臨している。国民が皆、同じ衣服に身を包み、個体差を消去されているその真上で、富は重力に逆らって吸い上げられ、一箇所に凝縮する。
さらに、その富は「オランダ」という記号を経由する。アムステルダムの資産管理会社。それはチューリップや運河の国ではない。資本主義のアルケミーが行われる、地図上の空白地帯だ。彼らは、日本の労働者と消費者が織りなす経済圏から巧妙に身をかわし、課税という社会契約から逃走する。ユニクロが標榜する「民主的な服(Made forAll)」というスローガンは、ここで決定的な亀裂を迎える。服は万人のためのものだが、そこから生まれる利益は万人のためのものではない。資本は国境を越えて蒸発し、後に残されるのは、すり切れたフリースを着た納税者たちだけだ。
彼らは言う。「サステナビリティ」と。ペットボトルを再生したポリエステル。しかし、ファストファッションの本質は「加速」と「忘却」である。大量生産され、大量に消費され、そして短期間で廃棄される運命にある衣服が、いかに「環境に優しい」顔をしようとも、それは欺瞞である。それは自然を模倣した化学繊維であり、土に還ることのない永遠のプラスチックだ。
彼らはエコロジーを語ることで、消費者の罪悪感を麻痺させる。我々は「良いことをしている」という幻想と共に、地球を汚染する権利を安価で購入しているに過ぎない。この「清潔な破壊」こそが、現代の消費社会の病理である。
最終的に、ユニクロとは何か? それは、我々の肌に最も密着し、日々の生活を支え、冬の寒さから守ってくれる、あまりにも親密で、頼りがいのある存在だ。しかし、その親密さの正体は、国家による貧困の固定化、特定の血族への富の異常な集中、グローバルな租税回避、そして環境の破壊という、冷徹な計算式である。
最も日常的で、無害で、清潔に見えるものが、実は最も収奪的で破壊的なシステムを隠蔽している。 「普通」という仮面を被った怪物。この、あまりにも滑らかで継ぎ目のない表面の下に、どす黒い内臓を隠し持っているという事実。
そうやって読み手に負担を掛けることについてちっとも悪びれない態度を見た周囲は君のことを「ワー賢い」ではなく「鼻持ちならねぇ」としか見てくれないことに気付きなさいな。
カシコイ人なら挙証責任そのものの意味について説明を省くにしても、それがどのように関わってくるかぐらいは最低限書くだろうけど、書けねえんだろ?
わかるわかる。細かく書くほどボロが出るもんな。書かなくてもボロだから誹謗中傷はやめようね。
ああ、あとこちら精神障害年金受給のガイジですんで、言われるまでも無く社会保障のお世話にはなってますんでお気遣い無く。
一般的に君みたいな物言いは誹謗中傷にあたると思うけど、精々開示請求されたりで周囲の人に迷惑かけないように生きてくれよな。
名鉄パノラマカー、特に7000系の熱狂的なファンである私にとって、細田守監督の最新作とされる映画『果てしなきスカーレット』というタイトルは、ただの映画名では済みません。それは、我々の愛してやまない名車、パノラマカーそのものを象徴し、その「血脈」を感じさせる、運命的な響きを持っています。
パノラマカー7000系が纏う車体色「スカーレット」は、単なる色ではありません。それは、戦後の高度経済成長期に名鉄が打ち出した革新と情熱の象徴です。
日本初の前面展望席:運転台を2階に上げ、乗客を最前列に配置するという、当時の鉄道常識を覆す大胆な設計。これこそが、名鉄の「果てしなき挑戦」の精神を体現しています。
赤一色というシンプルながらも圧倒的な存在感は、風景の中を駆け抜ける躍動感を生み出しました。
あの独特なメロディは、パノラマカーのスペクタクル性をさらに高め、人々の記憶に深く刻み込まれています。
パノラマカーが鉄道史に残した功績は、「鉄道は移動手段である」という概念を打ち破り、「鉄道は夢と感動を提供するメディアである」ことを証明した点にあります。この「スカーレット」という色が、その挑戦と夢を焼き付けたのです。
映画のタイトルにある「果てしなき」という言葉は、パノラマカーファンにとって、その永遠への憧憬を呼び起こします。
7000系は2009年に完全に引退しましたが、その雄姿は今なお多くのファンによって語り継がれ、グッズ化され、模型として再現されています。これは、パノラマカーが単なる古い車両ではなく、文化的なアイコンとして生き続けている証拠です。
後継の特急車に「パノラマSuper」の名が冠され、その展望席のDNAは今も名鉄特急に受け継がれています。これは、その革新性が「果てしなく」未来へと影響を与え続けていることを意味します。
ファンにとって、パノラマカーの引退は大きな悲しみでしたが、その思い出と精神は決して終わることのない物語として心の中に走り続けています。映画のタイトルは、この尽きることのない愛と伝説の継続を象徴しているように感じられます。
細田守監督の作品は、しばしば「新しさ」と「郷愁」が共存する映像美が特徴です。これは、パノラマカーが体現した革新性と、その引退によって生まれた郷愁の念と見事に交差します。
パノラマカーは、その流線型でダイナミックなデザイン、そして前面窓から広がる雄大な景色が、まるで動く映画館のようでした。映画という「映像体験」を追求する細田監督が「スカーレット」という色に注目した時、そこにはきっと、かつて日本の風景を鮮やかに彩った名鉄パノラマカーの持つ、圧倒的な存在感と物語性が重ね合わされているのではないかと、ファンは想像を掻き立てられます。
「果てしなきスカーレット」が描くものが何であれ、パノラマカーファンは、そのタイトルに込められた情熱の色、そして永続する伝説の響きに、無上の喜びを感じずにはいられません。パノラマカーの残した「日本の鉄道の常識を変えた革命」という遺産は、「果てしなく」語り継がれるべき、我々の誇りなのです。
iPhoneの画面を保護するためのガラスカバーが、恐ろしく貼りやすく進化してることだった、、、。
ガラスカバーの貼り付けって、なんか私の場合、運任せ?っていうの、
いろいろと頑張って工夫した結果として気泡もゴミを入らずに上手く貼れたぜ!!
って感じではなく
当然そうなると、上手く貼れないパターンしばしば登場したわけで、、、。
でも、なんかガラスカバーってゴミが挟まってても気泡があっても
真っ暗な画面にならない限りあんまり気にもならないし、って感じでそのまま使い続けることが多かった。
そんな画面保護カバーにそれほどこだわりがない私が感心するほど2025年版(なのかそれよりももっと前にこうなってなのかは知らん)のガラスカバーが
恐ろしいほど貼りやすく、そして気泡ともホコリとも無縁のものとなってた。
うーん、こんな驚いたのはコンビニおにぎりで包装を開けるときに工夫しなくても海苔が破けなくなったとき以来じゃないだろうか。
つーかiPhoneもアップルも全く関係のないところで感心してしまってるが、まあそういうもんだと思う。
たぶん、あと5年かそれ以上か経って機種変更するときにはもっとすごい方式が編み出されてるんだろうな、っと期待してしまう。
ただ、あと5年かそれ以上、経ったときにそのときもスマホが世の中で使われているのかどうか?というのは若干ではあるが疑問は残るところだが。
わーくにとは、「我が国」を訛らせた日本語のネットスラングである
日本語話者はほとんどが日本人。よってこの場合の「我が国」とは日本国を指しており、要するに「わーくに」とは日本のことである。おふざけや自嘲などのニュアンスを込めて使用されることが多いようだ。
後述する初期の使用例を見ると、政治家であり日本の総理大臣でもあった「安倍晋三」氏の話題において用いられていることが多い。安倍氏が総理大臣をしていた当時「我が国」(わがくに)の発音が「わーくに」っぽいと感じる人が一定数いたようで、それが語源となったものと思われる。
つまり当初は特定の人物の特徴的な発音を強調して茶化すような言葉であり、発想としては「こんとんじょのいこ」(簡単じゃないか)や「てめれめせけぜです」(田村正和です)に近い。
ただし安倍晋三氏が総理大臣ではなくなった後には、同氏と関連が無い場面でも使われるようになっていった。年月が経つにつれて語源について知らない人も増えたようで、「現時点の日本の総理大臣の言葉が元ネタだ」と勘違いする人もいるようだ。
日本で人気のある短文コミュニケーションサイト『X』(旧:Twitter)で「わーくに安倍」「わーくに総理」などで検索して動向を探ってみると、2013年9月には既に「安倍総理の我が国のーって言うときってわーくにのーってなるよね」と投稿している人物がいる。この後にも散発的に様々な人々から類似の投稿がなされているが、数年間はいずれも「個人の感想」レベルのものであって、特に流行したりネットスラングとして定着したりはしていなかった。
だが徐々にX上での投稿数も増えてきて、また2020年にはインターネット掲示板『5ちゃんねる』で「わーくに」がタイトルに付いたスレッド(掲示板)も多く立つようになったようである。そのほとんどがニュース速報VIP、なんでも実況J、ニュース速報(嫌儲)の3つの板で立てられていたようだ。
安倍さん「嫌ァァァァァ北朝鮮がミサイル打ってきた助けてエエエエエわーくにの脅威がぁぁぁぁぁぁ」exitニュース速報VIP、2020年1月31日
最近またチョンモメンが「わーくに」とか言うわけわからん造語作ったな どんな意味なんだい?exit ニュース速報(嫌儲)、2020年3月28日
左翼「わーくにwわーくにw」人の滑舌を笑うのって、人として、どうなんだ?exit ニュース速報(嫌儲)、2020年3月28日
この2020年頃に「広まるきっかけとなるわかりやすい特定の何か」は見つけられなかった。ただ、ちょうどCOVID-19の流行に対する警戒が高まっていた時期であり、当時総理大臣であった安倍晋三氏の発言や声明に注目が集まりやすかったということが背景となった可能性はありそうだ。
今日も特にやることがなかったので歩いて小一時間ほどのところにあるショッピングモール内のフードコートに昼食を食べに行った
そこには何か特別なメニューがあるわけではなく食べたのは普通のおいしい昼食以上のものではないのだがもう一つの目当てのものがあった
導線から外れて人がほとんど通らない空いた空間にある写真展である
写真は付近の街の歴史を明治時代から令和まで振り返るというテーマで並んでいる
明治時代や大正時代のものは原っぱや果樹園や掘っ建て小屋のような駅舎でほとんどが歴史モノの映画のワンシーンのような雰囲気でとても今の街並と連続しているとは思えないファンタジーの世界のように見えた
戦後の混乱期は道端や広場に瓦礫や何かの資材のようなものが転がっていて活気がありつつも嵐の後のような荒々しい雰囲気がある
空爆の被害を受けたのかそれとも別の災害や争乱によるものなのかは不勉強で知識がないのでよくわからなかった
昭和30年代になると街並はまだ荒れているものの自分も知っている庁舎や劇場などの大きくてモダンな施設が建ち始める
昭和40年代には建物の雰囲気はレトロ風なもののここがどこか?と問われたら答えられるくらいには今の街並と地続きな感じの整った景色が完成されている
ネットを見ているとつい人類や歴史のダークサイドばかり考えてしまうがこういう記録を見ると文明の強さや美しさなど明るい面を感じることができて良い経験だった