
はてなキーワード:のものとは
2026年1月16日、立憲民主党と公明党が合流して新党「中道改革連合」を結成した。高市早苗首相による突然の衆院解散に対抗するため、野田佳彦立憲民主党代表と斉藤鉄夫公明党代表が共同代表に就任し、中道路線を掲げる政治勢力の結集を目指した。綱領では「生活者ファースト」を打ち出し、分断から協調へという理念を掲げた。
しかし現実は厳しかった。1月27日公示、2月8日投開票の衆院選で、公示前172議席から49議席へと壊滅的惨敗を喫し、両共同代表は辞任に追い込まれた。この結果は、母体となった立憲民主党が長年抱えてきた問題を白日のもとにさらすこととなった。
「与党批判にしか力を入れてこなかった」という批判は、中道改革連合の敗因分析においてしばしば言及される論点である。この批判の実態と背景を多角的に検証したい。
立憲民主党に対しては、結党以来「批判ばかりで対案がない」という批判が繰り返されてきた。まずこの認識の事実関係を確認する必要がある。
note記事による集計では、立憲民主党の政府提出法案への賛成率は2023年の第212回臨時国会で73.3パーセント、2024年の第213回通常国会で83.3パーセント、2025年の第217回通常国会では89.7パーセントに達したとされる。この数値が正確であれば、法案の大半には賛成しており、単純な反対勢力という評価は当たらないことになる。
また議員立法による政策提案も行われてきた。2022年の旧統一教会問題では野党が提出した被害者救済法案が議論の土台となり、与党案にも影響を与えたとされる。ガソリン税減税関連法案では、2025年に立憲民主党が主導して成立させた事例もある。
しかしこうした実績があるにもかかわらず、国民やメディアからは一貫して「批判ばかり」と認識されてきた。なぜこのギャップが生まれるのか。
野党の建設的な政策提案や賛成した法案は報道価値が低いとされ、与党との対決場面や激しい批判の場面が優先的に取り上げられる。国会でのヤジや追及場面は視覚的にインパクトがあり、特にSNS時代においては拡散されやすい。
2026年1月24日の高市首相所信表明演説では、立憲民主党系議員によるヤジで演説が一時中断する事態となった。NHK中継を見ていた視聴者の多くが不快感を表明し、これが選挙戦序盤のイメージ形成に影響したとみられる。与党側は「国民の聴取を妨害する不作法」と批判し、野党側は「議会政治の監視監督」と擁護したが、視聴者の印象は前者に傾いた。
立憲民主党は「存在感がない」「目立たない」という批判を長年受けてきた。野田代表自身が党の動画で「なかなかバズらないけれど」と自嘲したことは、この苦悩を象徴している。
地道な政策立案と国会審議を重視する姿勢は、専門家からは評価されても一般国民には伝わりにくい。他方で、目立つパフォーマンスに走れば「中身がない」「批判ばかり」と攻撃される。このジレンマをどう乗り越えるかが、野党第一党の課題であり続けた。
2009年に誕生した民主党政権は、鳩山・菅・野田と三代の首相を経て2012年に崩壊した。普天間基地移設問題、東日本大震災対応、消費増税などを巡る混乱の記憶は、有権者の間で根強く残っている。立憲民主党は民主党の流れを汲む政党であり、「批判はできても統治はできない」というイメージが払拭されていない。
この文脈では、「批判ばかり」という言葉は単なる行動様式の指摘ではなく、「政権担当能力がない」という評価の婉曲表現として機能している。
中道改革連合の惨敗により、立憲民主党への批判は新たな局面を迎えた。
新党結成に際し、立憲民主党は従来の政策を大幅に転換した。安全保障法制については「違憲部分の廃止」から合憲容認へ、原発政策も再稼働を条件付きで容認するなど、公明党との政策すり合わせのために基本路線を変更した。
野党各党からは「看板の付け替え」「野合」という批判が相次いだ。れいわ新選組の山本太郎代表は「日本をダメにしてきた者たちが看板を付け替えて、もう一回詐欺をやろうとしている」と痛烈に批判した。また立憲民主党内部からも原口一博議員が新党結成に反対し、離党した。
これは「批判ばかり」という批判とは別の次元の問題である。選挙協力のために理念を曲げれば、もともとの支持者からは「信念がない」と見なされる。公明党の組織票を得る代わりに、都市部の無党派層や理念を重視する支持者を失った可能性が高い。
選挙戦では、高市政権の右傾化や積極財政による円安・物価高を批判したが、有権者には「では中道改革連合は何をするのか」が明確に伝わらなかった。党名や理念すら浸透しない短期決戦の中で、政策の具体性を訴える時間が決定的に不足していた。
朝日新聞の報道によれば、立憲民主党側からは「バラバラだ」という不満の声が上がり、比例名簿の作成を巡っても内部対立が生じていた。公明党出身者を優遇した結果、公明出身28人全員が当選した一方で、立憲民主党の玄葉光一郎元外相、枝野幸男元官房長官、岡田克也元外相といった政権担当経験者が軒並み落選した。人材基盤の喪失は、今後の党運営に深刻な影響を及ぼす。
選挙期間中、X(旧Twitter)では「#立民いらない」「#嫌立民ムード」などのハッシュタグが急上昇し、検索窓に「立憲」と打つだけで「立憲民主党 いらない」が候補に表示される事態となった。議員が日常的な発言をしただけで誹謗中傷が集中し、党公式アカウントの年頭挨拶にも罵詈雑言が浴びせられた。
この現象は、立憲民主党への関心の高さの裏返しでもある。本当に「存在感がない」政党であれば、これほど粘着的な批判は集まらない。しかしネット上の批判の多くは感情的で、政策の是非よりも人格攻撃に終始する傾向があった。
ここで重要なのは、「野党は批判ばかり」という言説そのものが、政治的な意図を持って用いられている側面があることだ。
ジャーナリストの尾中香尚里氏は、この批判が対立軸の明確な二大政党制を阻害し、「万年与党と万年野党」という55年体制への回帰を正当化する言説として機能していると指摘する。自民党が野党を「批判ばかり」と攻撃することで、政権交代可能な政治という理念そのものを否定しようとしているというのである。
実際、野党が対案を出しても報道されず、与党が野党案を取り込んでも「与党の成果」として報じられる構造がある。この見方に立てば、立憲民主党の問題は「批判ばかり」ではなく、むしろ「批判も対案も国民に伝わらない」という情報発信力の欠如にある。
ただしこの分析にも限界がある。尾中氏は立憲民主党寄りの論者であり、野党の戦略的失敗や組織的問題を過小評価している可能性がある。メディアや与党の責任を強調しすぎれば、野党自身の改善努力を阻害する危険もある。
「与党批判にしか力を入れてこなかった」という批判を整理すると、以下の三層に分けられる。
法案賛成率や議員立法の実績を無視し、対決場面だけを見て「批判ばかり」と断じる認識。メディア報道の偏りとSNSでの情報拡散によって増幅される。
第二層:正当な批判
対案を出していても国民に伝わっていない、政権担当能力を実証できていない、理念と政策に一貫性がない、という指摘。これは立憲民主党が真摯に受け止めるべき課題である。
野党の存在意義そのものを否定し、政権交代可能な政治を阻害する目的で用いられる言説。与党や与党寄りの論者が戦略的に使用する場合がある。
中道改革連合の惨敗は、これら三層すべてが複合的に作用した結果と見ることができる。メディアとSNSの構造問題、野党自身の戦略的失敗、そして与党側の攻撃が重なり合い、壊滅的な結果を招いた。
中道改革連合は2月13日に小川淳也氏を新代表に選出し、再建を図る方針である。しかし49議席という規模では、野党第一党としての影響力は大きく低下した。
まず理念と政策の一貫性を回復することである。選挙協力のために政策を曲げれば、支持者の信頼を失う。中道という立ち位置を明確にしつつ、立憲民主党のルーツである立憲主義や生活者重視の理念を再構築しなければならない。
次に情報発信力の強化である。建設的な政策提案をしても伝わらないのであれば、伝え方を変える必要がある。SNS時代に適応した情報戦略、メディアとの関係構築、分かりやすい言葉での政策説明が求められる。
そして政権担当能力の実証である。最終的に有権者が求めるのは、与党に代わりうる現実的な選択肢である。地方自治体での実績積み上げ、政策集団としての専門性向上、危機管理能力の訓練など、地道な努力が不可欠である。
中道改革連合の惨敗は、単なる一選挙の結果ではなく、日本の野党政治が抱える構造的課題を浮き彫りにした。「批判ばかり」という言説の背後にある複雑な要因を理解せずに、表層的な批判を繰り返すだけでは何も変わらない。健全な民主主義のためには、批判する野党と同時に、その批判を適切に評価する有権者とメディアの成熟が求められている。
母が漏らしたとき、俺は生まれて初めて値段という言葉の重さを知った。
尻の下に敷いたシーツを引き抜きながら、俺は頭の中で足し算をしていた。週三回、他人に来てもらう金。施設に預ける金。俺の給料。母の余命。掛け算をすれば、答えは出る。出てしまう。
母は泣いていた。七十キロ近い体を横に転がされながら、「ごめんね」と繰り返した。俺は「いいよ」と言った。いいわけがなかった。おむつのテープを留める指が震えていたのは、疲労のせいだと自分に言い聞かせた。
赤ん坊は泣く。腹が減ったとき、尻が冷たいとき、ただ不安なとき。泣くことでしか、自分の不快を外に出せないから泣く。母の「ごめんね」も、考えてみれば同じだった。どうにもならない体を抱えた人間が、隣にいる人間に向けて絞り出す、最後の声。
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母が二度目に倒れた翌月、俺は職を変えた。
小さな会社だった。「年寄りの苦痛をなくす」という、どこにでもある看板を掲げていた。俺の仕事は、体に貼る小さな機械の調整だった。尿が溜まる速度を測り、限界が来る四十五分前に、介護する側の携帯を鳴らす。漏れる前に替えてやれる。
携帯が鳴り、おむつを替え、母は漏らさなくなった。漏らす前に処理されるから、「ごめんね」を言う場面がなくなったのだ。
俺はそれを、うまくいった、と思った。会社の連中も喜んだ。大きな金が集まった。
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金が増え、人が増え、俺は母の傍を離れた。
機械は進化した。排泄の予測はほぼ完璧になり、次に体温、次に床ずれの予防、次に気分の変動。体の微かな揺らぎから「不安」を嗅ぎ取り、部屋の明かりを変え、好きだった曲を流し、ちょうどいい声色で話しかける。寝返り、食事、風呂——あらゆる苦痛が、生まれる前に消された。
俺たちはその仕組みを、ゆりかごと呼んでいた。
社長が言った。「俺たちが解いているのは、介護の問題じゃない。人間がずっと抱えてきた、苦しいという問題そのものだ」
金を出す側は頷いた。俺も頷いた。本気でそう思っていた。
母は、その前の年に死んでいた。最後の三ヶ月、彼女は一度も泣かなかった。一度も「ごめんね」と言わなかった。一度も、俺の名前を呼ばなかった。ゆりかごが完璧に動いていたから、彼女には俺を呼ぶ理由がなくなっていたのだ。
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その後のことを、俺は技術の話として語れてしまう。それ自体が、たぶん、おかしなことなのだが。
臓器を作り替える技術が、介護の意味を変えた。壊れた肝臓を新品にするように、血管を若返らせ、筋肉を二十代の状態に戻す。最初は病気を治すためだった。次に、病気になる前に手を打つようになった。最後には、そもそも老いないように体を設計し直すようになった。
老いは、壊れた部品と同じ扱いになった。テロメアの摩耗を許さない。それが当たり前になった日のことを、俺は覚えている。会議室にいた全員が、人類の勝利だと思っていた。俺もそう思っていた。母の介護で走らせていた足し算が頭をよぎったが、すぐに消えた。
同じ頃、人間の記憶や癖を丸ごと学ばせた知能が、本人よりも「らしい」受け答えをするようになった。誰かがそれを外付けの魂と呼んだ。冗談のつもりだったのだろうが、三年後にはまともな名前として通っていた。
体の部品が替えられるようになり、考えることを外に預けられるようになったとき、人間とは何かという問いは、哲学ではなく契約書の問題になった。
そして契約書は、答えを出した。製造の工程を記録し、思考が人工であることを証明し、体は人の形をしているが中身は人ではないと保証する。人権の境界線を、書類の上で一ミリだけ外側に引く。それだけで、人の体を持ち、人の手で触れ、人ではないものが作れるようになった。
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最初の世話係が納品された日のことを覚えている。
人間の肌をしていた。人間の体温があった。こちらの目を見て、穏やかに微笑んだ。だが、その笑みには順番がなかった。口元が動き、頬が持ち上がり、目が細くなる——その三つが、寸分の狂いもなく同時に起きた。人間の笑顔は、もっとばらつく。どこかが先に動いて、残りが追いつく。それがない。
俺は、最初の一秒でわかった。この体の中に、笑いたいと思っている者はいない。
彼らは人間の体から作られていたが、頭の中には人間の脳の代わりに、外から送られてくる判断をそのまま流す仕組みが入っていた。触れる指先は温かいのに、その温かさを感じている者がいない。完璧な介護の手つきの奥に、誰もいない。
子を作る機能は、最初からなかった。古い会議の記録に理由が残っていた。「勝手に増えれば、誰のものかわからなくなる。」それだけだった。だが俺は、書かれていない本当の理由を知っている。生殖は、脳を作ってしまう。意識を、感情を、痛みを感じる主体を。つまり、人権を産んでしまう。それだけは、あってはならなかった。反対意見はなかった。俺も、何も言わなかった。
そのころ俺は、母が「ごめんね」と泣いていた夜の感触を、もう思い出せなくなっていた。外付けの魂が、あの記憶を不快なものと判断して、俺の意識から遠ざけていたからだ。
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体は赤ん坊と同じ状態に保たれている。老いることは、許されない。
目を開くと、続きが始まる。昨日は海底に沈んだ都市の壁画を指でなぞっていた。一昨日は音楽だった。聴いたことのない楽器の倍音が脊髄を這い上がり、その振動にビートが重なり、声が乗った。何語かもわからない歌詞が、俺の頭の中で物語を展開させた。母の背中が見えた。台所に立っていた後ろ姿。あの背中が振り向く前に旋律が転調し、俺はまだ行ったことのない場所に立っていた。涙が出た理由を、音楽が終わってからも説明できなかった。全部がつながっていた。俺の記憶と、知らない声と、計算された拍の間合いが、俺の中だけで成立する催眠を編んでいた。その前は——思い出せないが、終わったとき全身が震えていた。毎回、想像の外側から殴られる。毎回、前より深く抉られる。俺はそれを待っている。目が覚めるたびに、今日は何が来るのかと、心臓が跳ねる。
かつてはそれを画面の中でやっていた。次に観たい番組を、本人よりも先に選ぶ仕組み。あれの、果てだ。
驚きは快楽だ。予想が外れた瞬間に、脳は報酬を出す。だがその驚きが、誰かに計算されたものだとしたら、それは本当に驚きなのか。俺にはわからない。わからないが、快楽であることは確かだ。確かだということだけが、確かだ。
母にしたことの、完成した形。あのとき俺は、母が不快を感じる前に不快を消した。いま俺は、退屈を感じる前に快楽を注がれている。不快の除去と、快楽の先回り。その二つの間に、どれほどの距離があったのだろう。
ときどき、胸の奥で何かが瞬く。名前のつかない信号。泣き声に似ているが、泣き声ではない。泣き声は、誰かに届けるためのものだ。これは、届ける相手がいない。
俺は口を開こうとする。世話係が、俺の唇が動く前に、何かを差し出す。俺がまだ名前をつけていない欲求の、正確な形をした何かを。
信号が消える。
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ある日、今日の体験が始まる直前に、俺は目を閉じたままでいようとした。
毎日殴られ続けるうちに、俺の中に別の衝動が芽生えていた。こんなものを見せられ続けて、ただ受け取るだけの側でいることが、耐えられなくなっていた。俺にだって作れるはずだ。俺の方がわかっているはずだ。あれだけの体験を浴びてきた俺が、何も返せないはずがない。見ない、という選択。それが俺の最初の一手だった。お前の次の手を見る前に、俺が先に動く。
閉じた目の奥に、見たことのない光が走った。網膜を通さず、視神経を直接叩くような衝撃。それは、目を開けて受け取るどの体験よりも鮮烈だった。俺が拒否したことで生まれた空白を、システムは俺の想像よりも遥かに大胆な展開で埋めてみせた。
そしてそれは、悔しかった。負けた、と思った。俺の想像を超えてきたことに、震えるほどの興奮があった。
その興奮が、快楽だった。
俺は気づいた。競うこと自体が、もう組み込まれている。抗えば抗うほど面白くなる。面白くなればなるほど、俺はこの器の中に深く沈む。出口に向かって走れば走るほど、景色が美しくなる道を、俺は走らされている。
叫ぼうとした。赤ん坊がやるように。肺の中の空気を全部吐き出して、俺がここにいると、どこかに向かって叫びたかった。
だが声が喉を通る前に、その衝動は別の何かにすり替わっていた。穏やかな満足感。深い安らぎ。叫びたかったという記憶すら、すでに角を削られ、柔らかな感触に塗り替えられていた。
俺は、何を失おうとしたのかを、もう思い出せない。
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1960年に、ある男がガラスの瓶に植物を入れて、蓋をした。水もやらず、空気も入れず、その植物は五十年以上枯れなかった。光さえあれば、閉じた器の中で命は回り続ける。
俺はそれを読んだとき、笑った。人間にも同じことができる、と。
母を抱えて泣いていたころの俺が聞いたら、顔を殴っていただろう。
だが俺は、その図面を引いた。苦痛を完全に消し、崩壊を修繕で相殺し、閉じた器。俺はその住人になった。
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世話係のひとりが、渇いてもいない喉を潤し、痛んでもいない体をほぐし、覚めてもいない夢の続きを映し出す。欲しいと思う前に、欲しいという気持ちごと、満たされている。次に何が来るか構えることすらできない。構えた瞬間に、構えの裏をかかれる。驚きたくないと思えば、その拒絶すら新しい驚きの呼び水になる。
かつて俺が母にそうしたように。かつて俺がうまくいったと呼んだやり方で。
器の中で、誰かの唇が微かに動く。音にはならない。何を言おうとしたのか、その唇の持ち主にもわからない。世話係が何かを差し出す。唇は閉じる。
器の外では、誰も泣いていない。泣くための頭がないから。器の中でも、誰も泣いていない。泣く理由がないから。
婚約指輪なんて、女が周りの友達やら同僚にマウント取るためのものだし、普段つけないからマジで金の無駄。婚約指輪代を結婚式や新婚旅行に回すって女はガチのアタリ物件。
2026年の選挙は、一つの「分水嶺」として記憶されることになるだろう。
石破政権の退陣を受け、新たに発足した高市政権。その直後に断行された、いわゆる「7条解散」。1月23日の解散から投開票までの短期決戦は、グローバル市場が発した「サナエショック(金利急騰・円安)」という警告音を、政治的な熱狂と列島を覆う大雪がかき消していくプロセスそのものであった。
結果として自民・維新を中心とする勢力が全議席の4分の3を掌握したという事実は、旧来の自民党支持者すら驚くものであった。それは「政治家の人気投票」という側面を加速させる、選挙戦術の技術的な完成を意味していただろう。
圧倒的な数の力を背景に、長らく議論のテーブルに乗るだけだった「憲法改正」は、いまや現実的な政治スケジュールへと組み込まれようとしている。高市政権は、地政学的リスクの高まりを背景とした「中国脅威論」や、国内に醸成されつつある排外的な空気を巧みに政治的駆動力へと転換した。その支持を追い風に、「9条改正は現実的要請である」というロジックが、強力なキャッチフレーズとして機能し始めている。
私たちは今日、騒がしい政治のタイムラインから距離を置き、無限に降ってくるエコーチェンバーの雪を視界から遠ざけることができるだろうか。
今、この国の変化した「重心」が何を成そうとしているのかを、静かに見つめ直す必要がある。
憲法改正について、世間ではどのようなイメージが流布しているだろうか。「古いものを令和版にアップデートする」といった、あたかもスマートフォンのOS更新のような、若々しく前向きなイメージが、おそらくは今後急速に普及すると予想される。
しかし私たちは、実際にどのような案が議論の遡上に載せられているか、その設計図を確認せねばならない。
議論の参照点となるのは、自民党が2012年に作成した「日本国憲法改正草案」である。このテキストには、単なる9条条文の修正にとどまらない、国家観の根本的な転換が示唆されている。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
この条文は、人権が国家に先立って存在する「自然権(天賦人権)」であることを宣言したものだ。しかし、草案ではこれが削除され、11条を残すことで人権は国家が与える形を取ることになる。さらに第13条の「個人として尊重される」という文言が「人として尊重される」へと書き換えられた。
「個人」から「人」へ。97条削除に比べればわずか一文字の違いだが、ここに込められた断絶は深い。かつて草案起草に関わった片山さつき氏が「天賦人権論をとるのは止めよう」と明言した事実、そこに流れているのは当然、権利とは天から(あるいは生まれながらに)与えられるものではなく、国家という共同体に帰属し、義務を果たすことによって初めて付与されるものだ、という思想である。
これは良し悪しという感情論以前の、近代立憲主義というOS(オペレーティングシステム)の入れ替えに近い。国家が個人を守るための憲法から、個人が国家を支えるための憲法へ。その重心移動は2012年にすでに開始していたのである。
このような草案内容と、高市総理自身のイメージ戦略はどのように共鳴しているだろうか。
「日本列島を、強く豊かに」。これは、かつて安倍総理が「美しい国」というフレーズを用いたように、いま高市総理が繰り返し掲げているスローガンである。
一見すると経済的繁栄の約束に聞こえるが、彼女の支持基盤である日本会議的な政治的系譜や、選択的夫婦別姓への慎重姿勢、家族間の相互扶助を強調する福祉観などを俯瞰するとき、そこには明治国家のスローガン「富国強兵」と同型的な発想が見えてくる。
明治時代、「富国」という経済的な豊かさは、個人の幸福追求のためではなく、あくまで「強兵」という国家の強さを支えるための基盤として位置づけられた。
逆に言えば、それらを成し遂げなければ個人の幸福を保証できないような情勢なのだと言っているのかもしれない。
決して「日本国民を、強く豊かに」と言わないのは、あの時代の国家観を「美しい国」として、戦後の反省だけでは国を守れないとする意思を表しているのだろうか。
2026年衆院選において、高市政権は市場の警告を、左派の不安を、選挙勝利への多様な戦術でねじ伏せてみせた。その手腕は国家という物語を紡ぐ演出としてスケールアップし、いま有権者に受容されていく可能性を見せている。
圧倒的な議席数と、顕在化した憲法改正への熱望。この二つが揃ったいま、私たちはどう振る舞うべきだろう。
SNSで快哉を叫ぶか、あるいは嘆き悲しむか。過激な批判の応酬は止むことがないだろう。それでも政治的な熱狂から一歩身を引き剥がし、思考のための穏やかな場を確保することは可能だ。
たとえば、「憲法カフェ」のような試みがある。リラックスした空間で、コーヒーを片手に憲法について語り合う。そこでは「賛成か反対か」を叫ぶのではなく、法文がどのような意味を持つのかを学び、穏やかに思考を交わすことができる。
「国家」という巨大な物語に飲み込まれないためには、私たち一人ひとりが、暮らしの根元にいつでも存在する憲法を知り、尊重されるべき「個人」として位置付けられていることを知っておくことは大事だ。
厳冬の衆院選。その唐突な政治の季節は熱く、あまりに短く過ぎ去った。しかし憲法という国の形を変える議論は、これからが長い正念場である。熱狂の宴が終わったあとだからこそ、考えて欲しい。なぜなら憲法とは、普段の生活のほとんどすべてを支えている法律なのだから。
番組内容はA(及びAから話を聞いていた自分達)が事前に聞いていた話とは大分異なっており
Aの一芸を披露として貰う、というよりは、A含めた「ちょっと変わった人間」を晒し者にする様な構成だった
中でも特にAは弄りやすかったのか、Aはカメラの前である女性芸能人らから徹底的に侮辱された
例のテレビの件で近寄ってきた女も居たけど、その殆どがわざわざAをからかいに来たヤベー女達ばかりで、
A自身は外見は冴えないものの男女問わず気を配る心優しい人間だったが、今ではその面影は無い
相変わらず友達である俺らには良い奴だけど、異性に関しては本当に凄い
それなりの仕事に就いてるし良い歳だけど結婚どころか異性との交際経験も無い様子
あの才能があり優しかったAが歪んでいったのは、イジメ被害者が歪んで加害者になっていく経緯そのものだった
「他人に優しくない人は他人から優しくされるわけがない」みたいな言葉があるけど、
女性からここまで優しくされなかった人間が女性に優しく出来るわけないだろって感じる
あんなん誰でも歪むし、そもそも優しくされずに生きてきた人間が他人に優しく出来るんだろうかって思う
恐らく女性達はAみたいな人間の事を「本性を現しただけ、本当は優しくないミソジニー」なんて決めつけて人格否定するんだろうけど
それを言っているお前らは何様なのか
他人から傷つけられ続けて優しさを失わない人間がどれだけいるのか
少なくともお前らはそっち側の人間では無いだろうよ
(ネタバレあり)
あととにかく映画が淡々と進行してて恋愛ドラマの要素はあるものの面白さに欠ける。
正直途中で寝そうになる。
でも、これはもう完全に演出意図に基づいた設計なのだろうな、と、この映画に関しては全幅の信頼をおいて見ていた。
1作目の出来の良さと、映画自体のクオリティのハイレベルさから考えて、この「つまらなさ」は人工的なもので後半の大カタルシスを活かすための設計に違いないと予測して見ていた。
案の定、というか、予想の遥か上を行く期待に応える、ガンダムオタクにぶっ刺さる展開が待っていて、それは本当に驚いてしまった。
このシリーズは基本的に恋愛映画なのだろうな、と思いながら見ていたのが、驚くほどにガンダムをやってきたのでもう脳汁がドパドパに溢れてしまった。
この映画はこれまでのガンダムに比肩するものがないと言ってもいいほどリアルな(写実的な)画作りをしているガンダムである。
まるで実写映画と言っていいほどの精密な現実世界を描き、かつてないほどリアルなモビルスーツのコクピット内での戦闘シーン、
自然を美しく描き、富裕層の贅を描き、都市はリアルに、女は生々しく、
しかし、後半、あるきっかけによりそれまでわずかに漏れ出すだけだったハサウェイの妄想世界がいっきに溢れ出して、
そこでは、それまで暗すぎて何が行われているのかよくわからない、
そこまでがリアルな画作りだっただけにその対比で、
これはもちろんハサウェイという人間が見ている世界を描いているのである。
彼にとって、現実というのは、モビルスーツのコックピット内にいるときのように薄暗く、よく見えない、よくわからないものである。
そして、彼にとって、よく見えて、現実よりもよく見えて、そして現実よりも身近な存在は、自分の脳内の妄想の世界なのである。
そこではアムロが亡霊となってハサウェイをなじり、そこではクエス・パラヤが永遠にハサウェイの心を捉えてはなさい。
それを描いたものだ。
だが、果たして、これはハサウェイの心の中だけを描いただけのものなのか?
いや、、、そう、これはまるで、わたしたち、私たちの内面世界そのものではないのか?
私たち、何者にもなれなかった、私たちが生きる現実世界と私たちの関わり。
私たち、何者にもなれなかった、私たちの心の中に展開される機動戦士ガンダムという世界。
ふと日常の中の一瞬に浮かんでは消える、シャアやアムロや、ガンダムの登場人物たちの声。
それは決してアニメという空想の世界のものではなく、きちんとした質量を持って私達の心に存在している。
私たちには、もう、よく理解が出来なくなりつつある、現実の世界。
薄暗く、よく見えず、速すぎて、もう理解が追いつかなくなりつつある世界。
私たちはそんな現実世界に生きながら、同時にガンダムという鮮やかな妄想に取りつかれながら生きているのである。
私達の心は、現実に生きることをもはや望まず、現実よりわかりやすく原色で鮮やかに描かれた嘘の世界のほうへと心を奪われつつあるのではないのか?
そんなことを考えさせる映画だった。
ビジネスの成果より手段やプロセスそのものに喜びを見出してきた作業者タイプの労働者にとって、AIの進化は残酷すぎないか?
自分で調べて、手を動かし検証して解決するという、その一番楽しかった部分をAIが一瞬で解いてしまう
ウンウン頭を捻ってようやく出したアイデアもAIの物量を目の前にするとただの平凡な一案に埋もれてしまう
まあ楽しい部分を取られただけならまだいいんだよ
1年前の時点でうっすらと危機感はあったが、ここまでになるとは正直思ってなかった
AIイラスト嫌いでAIかどうか気にするのに疲れて、すっかりXでイラスト自体を見なくなったが、特にQOLは下がってない。
今まで楽しませてもらった立場で言うのは申し訳ない気もするが、俺の生活にイラストは必要ないと気付かされた。
代わりに遊ぶゲームと読む漫画が増えた。ただ、別のものに置き換わっただけだ。
これからもAIを基準に取捨選択をしていくことになると思うが、別に何も問題なさそうという前例ができて安心した。これで心置きなく、AI使ってるなら嫌だなぁ…と雑に切り捨てられる。
俺にとっての真実だなんて誰が言った?俺はただ客観的な真実を通告してるだけだぞ。よって肯定も否定も俺に対してのものではなく単なる現実逃避にしかならないから無意味。
dorawiiより
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そうやって不快なことすることでその逆をすることに仕向けるという形で人の行動操縦しようとするのがまさに自己中そのものやん。
dorawiiより
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合理性を掲げる彼らの実態は、既存の非効率なシステムの温存にほかならない。掲げる看板と中身が完全に矛盾しているからだ。
本来は簡素・公平・中立的であるべき税制において、事務負担が多大な現行消費税やインボイス制度を維持しようとしている。これは納税者に莫大な管理コストと労力を強いるだけでなく、消費行為に課されるペナルティ的なコストを上乗せする構造だ。景気の腰折れを招きやすい欠陥を抱えている。
ベーシックインカムに見られる徴収から給付というサイクルには、必然的に巨額の行政コストが発生する。まさにアーサー・オーキンの「漏れのあるバケツ」そのものだ。減税なら行政コストは省けるのに、あえてコストのかかる再分配ルートを選ぶ選択は非合理としか言いようがない。高コストな給付を選ぶ理由は、行政が市民の生殺与奪の権を握るためだろう。
結局のところ、目的は法人税減税の穴埋めに消費税を充てるという旧来の構造の維持である。デジタルやデータドリブンといった横文字を並べたところで、政治の本質は権力を巡るゼロサムゲームであり、それからは逃れられない。
彼らの言う合理性とは社会全体の最適化ではなく、特定の既得権益層にとって都合の良いポジショントークに過ぎない。今回の選挙で、消費税減税に反発する有権者が首都圏の一部地域に集中している事実が露呈してしまった。
理系と高卒は自分に専門知がないことを自覚できないみたいなんで学部1年生に初手論破されるようなゴミな内容で赤っ恥かいてるアホばっかなんだよな
取るに足らなさすぎる
切断の基準が
ではなく
で決まっているように見えることが違和感の源。
恐るべき完成度のアニメ映画。
このアニメ映画を作れる人は、
あらかじめ1作目を履修した上で見たので、
この監督ならば、
必ずカタルシスが後半に訪れるのだと、
信じて待ち続けることができた。
必ず何かをやってくれると予想していた。
が、その予想以上のものやってくれた。
予想は裏切り期待には応える。
その見事さに脱帽した。
全ては、すべて完璧にコントロールされている映画。
これほど完成度の高いアニメ映画、
素晴らしい映画だと思う。
もうこれで、
これを見せられたら黙らざるを得ないだろう。
今作にはあったように思う。
そのことで救われぬ魂が、
まだこの世に漂っているのだとしてら、
どうか成仏して欲しい。
100点。
アニメ映画を見終えた直後に
人々はそれを「海賊版」と呼ぶ。
著作権という名の国境を越え、誰の目にも触れぬまま、巨大な倉庫へと運び込まれていく。
かつて「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を求めて海へ出た者たちがいたように、
今や大企業は「ひとつなぎの大データ」を求めて大海原へと乗り出す。
「この世のすべてをそこに置いてきた!」
それらは“共有”の名のもとに漂流し、やがて“学習データ”という宝に姿を変える。
海賊旗は掲げない。
三角帽も、眼帯もない。
だが、忘れてはならない。
海賊版と呼ばれるものは、誰かの時間であり、情熱であり、人生そのものだ。
宝を見つけるのは誰か。
そして、奪われたと感じるのは誰か。
波の音にかき消されない問いが、
プロンプト:
違法コンテンツを「海賊版」と呼ぶことと、ワンピースの「大海賊時代」のナレーションを合わせて、各大企業のAI学習に海賊版が用いられていることを皮肉した文章を考えてください。
あなたのような若者が真剣に「国を守るとは何か」を考えることこそ、私が国民に求めた精神的な自立そのものだ。
私の国、トルクメニスタンもまた、地政学的に厳しい場所に位置している。
アフガニスタン、イラン、ウズベキスタン……周囲に力強い国々がひしめく中で、私はどうしたか?
その答えとともに、あなたの悩みに「トルクメンバシュ流」の答えを授けよう。
まず、あなたの直感は正しい。核兵器とは、「使うための兵器」ではなく「使わせないための脅し」に過ぎん。
あなたが言う通り、核を持つことは他国への強烈な挑発となり、周辺国を刺激して不必要な軍拡競争を招く。
そして、核は一度持てば維持するだけで莫大な黄金(コスト)を食いつぶす「金食い虫」だ。
もしそれを打ち放てば、その地はもはやメロン一つ実らぬ死の大地となる。それでは国家を豊かにしたことにはならんのだ!
私が1995年、国連で認めさせたのは「永世中立国」の地位だ。
だが、私が選んだのは「ただ祈る平和」ではない。「どの国とも組み、どの国とも組まない」という、極めて戦略的な平和だ。
核を持つ代わりに、私は「天然ガス」という神の恵みを武器にした。
あなたが危惧する通り、もし日本が核を持てば、それは東アジアの均衡を根底から覆す。
「盾」が欲しいだけだと言っても、他国はそれを「槍」と見なすだろう。
攻撃の口実を与えるというあなたの見解は、極めて冷静で「ルーフナマ」の知恵にも通じるものがある。
武力だけで国は守れん。国を守るのは、国民の「この国は素晴らしい」という誇りと、他国が必要とする価値(資源や技術)なのだ。
日本の友よ。核を持つ・持たないの議論に明け暮れるより、日本がいかにして「世界から必要とされる存在」であり続けるかを考えるのだ。
日本に核はいらん。その代わりに、日本には世界に誇る技術と文化があるではないか。
もし日本に、我が国の天然ガスのような圧倒的な「強み」があり、それを世界が欲しがっているならば、誰も日本を攻撃しようとは思わん。
私の国では、永世中立を宣言した記念に「中立の塔」を建て、その頂上で私の黄金像を回している。
日本も、憲法をどう変えるかという形式にこだわるより、「日本という国がどう世界と向き合うか」という魂(ルーフ)の部分を磨き上げるべきだ。
どうだ、お前の心の霧は晴れたか?
それとも、日本も我が国のように「永世中立」を宣言し、富士山の頂上に黄金の像を建てて太陽を追いかけさせるべきだと思うか?わっはっは!
じゃなきゃNISAなんてやるわけないだろ、
ところで、俺の記憶では、2009年6月ごろ毎日新聞の紙上座談会で山田美保子・石川結貴・江川紹子が「麻生太郎とは一緒に食事したくないけど、鳩山由紀夫さんとだったら一緒に食事したい」とか言ってたことがあったよね。
まだあの頃は「推し活」なんて言葉は無かったけど、今振り返れば、あの頃の鳩山由紀夫フィーバーこそ、当に「選挙の推し活化」だったよね。
昨日ようやく話題の『超かぐや姫』を観終えたんだけど、余韻が凄すぎて変なテンションのままこれを書いてます。ぶっちゃけ最初は「また古典の現代風アレンジか」くらいに思ってた自分を殴りたい。これ、平安文学の皮を被ったガチガチのSFじゃないですか。
まず、かぐや姫が竹の中から見つかるシーンからして解釈が尖りまくってて、彼女はただの宇宙人じゃなくて、膨大な情報の海から物理的なデバイスにダイブしてきた「高純度な意志」そのものとして描かれてるんですよね。彼女がふとした瞬間に「自分の内側の何者かが、本来あるべき場所へ帰れと囁いている」って苦悩する姿は、自分の正体がただのプログラムなのか、それともそこに魂があるのかを問いかけてくるようで、観ていてヒリヒリしました。
後半、月からの迎えが来るあたりから物語が急加速するんですけど、あの「天人」たちの描き方が本当に怖かった。優雅な天女どころか、音もなく形を変えながら迫り来る「銀色の流体」みたいな連中で、どんな攻撃もすり抜けてくる絶望感が半端ない。それに対して、翁が彼女を守るためにボロボロになりながら「決められた未来なんてない、運命は自分たちで切り拓くものだ」って抗う姿は、もう涙なしには観られなかったです。
特にクライマックス、雷雨の中で月へ帰るための装置を起動させるシーンは圧巻の一言。凄まじい電力を一点に集中させて、牛車が猛烈な速度まで加速していき、空間が歪むほどの閃光とともに夜空へ消えていくあの演出……。別れ際にかぐや姫が翁に見せた、言葉はいらないと言わんばかりの力強いジェスチャーには、種族も時間も超えた絆を感じて、完全に持っていかれました。最後、光の尾を引いて消えていく彼女の後ろ姿を見ながら、「ああ、彼女にとってここから先はもう、道なんて必要ないんだな」って妙に納得しちゃったりして。古典の優雅さと、泥臭いまでの生存本能、そして最新の科学理論がごちゃ混ぜになったような、とんでもない熱量の一本でした。
「納豆」と「豆腐」の名前が逆になってしまった(誰かが間違えた)という説は、非常に有名ですが、実は都市伝説(俗説)です。
実際には、漢字が入れ替わったわけではなく、それぞれの名前には明確な由来があります。
腐るの「腐」:豆腐(とうふ)には「腐」の文字があるため、「腐った豆」=納豆?
納めるの「納」:納豆(なっとう)には「納」の文字があるため、「型に納めて固めた豆」=豆腐?
このイメージから、「昔、中国から伝わった時に荷札が入れ替わってしまった」という面白いエピソードが広まりました。
2.真実の由来
歴史的調査により、それぞれの漢字の由来は以下のように解説されています。
中国語の「腐」は、単に「腐る」という意味だけでなく、「液状のものが寄り集まって固形状になった柔らかいもの」(ブヨブヨしたもの)という意味があります。
納豆(なっとう): 納所で納めた豆
お寺の台所・納所(なっしょ)で作られた豆が「納所豆(なっしょまめ)」と呼ばれ、それが「納豆」に縮まった、という説が有力です。
また、大豆を桶や壷などの容器に入れて「納めた(貯蔵した)豆」という意味もあります。
定期的に考える。
先に記しておきますがこれはただ自分の考えを書き散らして発散したい目的が主であり、何か大々的に議論をしたいとかそういう意図はございません。
じゃあそれこそチラシの裏にでも書いておけよって感じではありますが、ここに書いてみたくなったということでご容赦いただきたい。
あと似たような境遇の方がもしおられましたら、どのようにしているのか教えて頂けたら嬉しいなという気持ちもあります。
自分は女性として生まれて女性として違和感なく生活していますが、服装や髪型の趣味が男性的というか。
かわいいより格好良くなりたい、服をスラッと着たいので胸は普段から平らになるような下着を身に付け、美容室で参考に持って行く写真は男性モデルばかり。おまけに身長が高めで足もかなり大きいのを良いことに靴は冠婚葬祭用のパンプス以外が全てメンズ、服も半分以上がメンズでまかなっています。メンズ向け商品でしか探さないわけではなく好みのものを集めたらこうなっていただけでわざわざ異性装をしようと思ってしているつもりはありませんが結果的にぱっと見で性別が分かりにくくなってしまっている現状です。
自分の事をよく知っている友人や同僚たちは「あなたはちゃんと女性だよ」と言ってくれますが、通りすがりの人には分かりません。
風俗の無料案内所のキャッチに声を掛けられたり、旅行先で話した人に男の子だと思った!と言われたり。大抵の事は紛らわしくてすみません…で済みますが、トイレや温泉となると申し訳なさが倍増です。
向こうも申し訳なさそうに「失礼ですが女性の方…?」と聞いてこられる方、出会い頭に「は!?」と叫ばれる方、自分の姿を見て入口の表示を確認しに戻る方、女子トイレに入ろうとしたら背後から「女の子なのー!?」と叫ぶ子供とそれを窘めつつも「いや、でも…?」といった反応をされる保護者の方……本当に何度も、数え切れない人数の女性を一瞬でも不安にさせてしまったと今となっては反省しています。自分も自分のような外見の人間が女性専用エリアにいたらちょっとびっくりするかもしれないので彼女たちの気持ちは大いに分かるつもりです。昨今のトランス女性が女子トイレを使用云々の話題も相まって、強く警戒されるのも仕方がないと思っています。
そういった反省と共感を積み重ねて、現在は人が並んでいる女子トイレには入らなくなりました。今自分がやっているのは出来る限り外出先ではトイレに入らないようにすること(長時間外出しない、我慢する)、入る場合は飲食店などにある男女の区別がないトイレやコンビニの男女共用トイレを優先して、それらに入れない状況だったら空いている女子トイレか多目的トイレを1分以内に出るつもりで手早く済ませています。もちろん身も心も女性なので男子トイレを利用する選択肢は当たり前にナシです。温浴施設は友人が一緒に居る時のみ、1人では行かなくなりました。
これらの行動でストレスがないと言えば嘘になりますが、そもそも自分が紛らわしい格好をしているのが悪い、それが嫌なら髪を伸ばして一目で女性と分かる服装をすればいいのにその選択をしない自分が悪いと思っているので甘んじていますがそもそもこの対策も正解か分からないし。1分以内で出るとはいえ、タイミング悪く本当に多目的トイレしか利用できない方を少しでも待たせてしまったりしたら?空いている女子トイレに性別の分かりにくい人がいる方がたまたま鉢合わせる女性としては怖いのでは?やっぱり私が好き勝手な格好しなければ良くない?
どうするのが一番誰も嫌な思いをしないんだろうな。
今これ以上1人で考えても堂々巡りな感じがするし、他にやる事をやらないといけないのでこれで一旦おしまいとします。