
はてなキーワード:どつき漫才とは
ムンクに肖像画を依頼して「出来に満足出来ない!」と裁判を起こした依頼主は、「ムンクという賛否両論の画家に依頼したのだから、どんな結果になろうと受け入れるべき」として敗訴したし、エガちゃんも確かにそういう芸だから嫌ならそもそも呼ぶな、呼んだら文句言うなは分かる
でもテレビは基本的に個人で完結する肖像画とは違って、大多数の人に見せるためのものだし、ただ不快であるのみならず問題だとすら思った視聴者が多かったらそれは芸として失敗だよ
泣き方を聞かれた子役が「お母さんが死んだ時のことを考えて泣いてる」と答えた時、雛壇芸人が「頭の中ではお母さん死んでるの?www」と返した頃からそう思ってる
やるなとは思わないけど、やりすぎた!と思った時に視聴者の印象をコントロールする行動を咄嗟にできるのが、現代にああいう芸で売るプロとして最善だったと思う
最善の行動を常に取り続けられるとは思ってないし、ただの極端な理想論に過ぎないけど、でもCM前後に何かしらフォローがあれば、視聴やSNSの反応も違ったんじゃ?とも思う
長年続けてきた芸なのだから何をしても文句を言うべきではないというのはよくわからない
かつて存在したどつき漫才と同じで、時代と共に受け入れられなくなってきたってだけじゃないかな。
今だって頭を叩く程度の漫才はよくあるし、コントの中ではどつかれるし、本核的などつき漫才のコンビでも不快感を笑いに変える方法を身に付けて今でも漫才してる
今回笑いに繋げられなかったのは、緊張と緩和のうち、緊張がずっと続いてしまったからじゃないかと思う
昔は女が『逃げる』のが緩和の役目を果たしてたのではないかな。それだけでよかった
でも現代では『逃げる女を追う』のも緊張のうちに入ってしまう。だから緩和しなかった
そういう意味では、エガちゃんのお笑いは昔は1人でも成立してたけど、今では『セクハラ芸を受け止める側』の行動込みでしか成立しなくなってしまったのでは?
で、その緩和の役目として『CM明けに笑って受け入れている姿を見せる』がある訳だけど、これは受ける側の好意による部分が大きい。別にコンビを組んでる訳ではないし。番組を作る一員である以上やるのがベストではある
ただし今回のように「びっくりして涙が出てしまった」のはコンビでない以上どうしても起こりうる。コンビではないのに、追いかけられた側の生理現象を責めるのは酷だろう。「涙を見せないように下がった。また崩れたメイクを直した」のもプロとして間違ってない
『CM明けに笑って受け入れている姿を見せる』が叶わないのであれば、何かしらエガちゃん本人が動いてフォローを入れるなりして自らの芸を完結させるべきだった。プロ芸人として、芸を完結させて笑いに変える責任があるはずだ。時代に取り残され、失敗した時の想定もせず、やりっぱなし。そんな状態では、芸と呼ぶにはお粗末だ
またいつかエガちゃんの『芸』を見れたらいいなと思う。
まだ平成の頃だったと思う。
昭和のベテランお笑いコンビがお笑い番組に出演した際、ツッコミのドロップキックでボケが舞台端まで吹っ飛んだ。客席からは笑い声ではなく、押し殺したような悲鳴が上がった。
そのお笑いコンビはすかさず「昭和だったらドッカンドッカンウケたんですけどね、今のお客さんは優しいねぇ。心配してくれちゃう」というように説明してフォローを入れてた。おそらくそれがなかったらそこから先笑えなかったと思う。洒落になってないんだよ……。
加害行為で取る笑いが洒落になっていない時に出てくるのは不快感よりも、被害者側への心配なのではないだろうか。
昭和の頃はもっとゆっくり穏やかに移り変わったんだと思う。SNSのある現代では過熱しがちなのがメリットでもありデメリットでもある(デメリットの方が多い)けど、どつき漫才のようにお笑いは変わるものだから。
良いとか悪いとかじゃなくて。「これからは人を傷つけない笑い」とか聞いて考えた。
表現には「幅」がある。ある表現方法を規制されても、他の表現をすることは可能である。
しかしそれは幅を狭めているのは間違いない。だってタブーゾーンがあるんだから、その分は狭まっているのである。
「その分深堀すればよい」という人もいるが、それは詭弁だと思う。深掘りったって、そこには飽きがあるよ。一部のマニア向けならいいけど。そのなかでたまに光る石も拾えるけど、それって絶対数少ないよね。
で、幅が狭まると、今度は別のものが気になってくるよね。例えば不快指数が
とかあったとして、これ2000やべーだろとそれを規制する。まあそれはいい。
そうすると、次は50が気になってくるわけ。excelで表書いてみ。気になるから。
そうするとしばらくすると50を規制しようとするよね?以降繰り返し。どこかのごく細い幅に帰結する。その幅だって、小数点まで気になってくるかもね。
こんなこと大昔からわかってるはずで、だから規制って慎重にならなきゃならないね~みたいな話があったはず。(規制に慎重という理由はそれだけじゃないけど)
だけど、規制ってやっときゃ文句も出なくなるから、文句そんな言ってない人も「やりゃいいじゃん」でやっちゃうんだよね。
規制は麻薬なんだよね。そうしていつの間にかスッカスカの体になっちゃう。
でも悪いものを規制しないと、それはそれで肥大化して死んでしまう。
バランスが大事なんだよね。バランスってなに?主観でしかないよね。
規制ってのは、広くとって、好みともいえるよ。どつき漫才みて笑ってた人でも、ひとたびステレオタイプにさらされれば、もう逃げられない。同じもの見たって、「うーんこれはダメでしょ」となって笑えない。
ただ欲求だけは中々解消しないんだよね。そうするとアングラがどんどん膨らんでいく。はけ口がないからね。
アングラにも階層ができるかもしれない。地獄と大地獄みたいに。
でもアングラはアングラで、上にいるつもりのきれいなつもりの人々からは結局蓋されるんだよね。欲求は存在しているのに、あたかも無いかのように扱われる。
そうして抑圧の先に何があるのか?なんだろうね、新人類の誕生かな?
Bye-Byeピープル。
性欲が少なくてオナニーとかほぼしない人ならポルノや風俗への規制が強まっても平気で、むしろポルノで不快になることが少なくなるなら歓迎ってなるのは当たり前だろう。
食に対する欲もそんなにないんであれば、鰻ががっつり規制されちゃっていいと考える。
お笑いを見たいっていう欲が少なければ、バラエティ番組もどつき漫才も際どい笑いも叱られてお笑いの幅が少なくなっちゃって構わない。
何かを楽しみたいという欲が全般的に少ない人っていて、そういう人は自由を求めないのではないか。
「物事が自由化しても、それで増えた選択肢を楽しもうという気にはどうせなれない。
むしろ自由化によって傷つけられる選択肢も増える害の方が大きい。
だったら、自分が抑圧で生きづらさを感じないで済む最低限の自由があり、それ以上は規制や倫理で秩序が守られてるくらいが一番いい」
と考えるのは自然なことだろう。
欲が少ないというより、傷つかないよう保護されていたい欲とか、規制で社会の正義を保ちたいと思ってるなら正義欲が強いというべきかもだが。
とにかくそういう「食欲旺盛じゃないから食べ放題とか全然必要ないし、食べ物屋の種類もメニューの幅も少なくていい、それよりどこでも安全と清潔が保障されてることがずっと重要」って人はいるだろうし、
それに対して「色んなご飯食べれる方が美味しいし楽しいじゃん!」とか言っても説得は通じないよなあ。