
はてなキーワード:ざらしとは
永遠のリーグ王者。戦術は柔軟というより「勝てば官軍」。裏金パスも政治資金シュートも全部“プレーの一部”として処理。ベンチに謎のスポンサーがずらり。監督が代わっても結局同じサッカー。サポーターの半分は「他よりマシ」で来てる常連客。
その自民クラブを黄金期に導いた元監督。カリスマ性があって、ロッカールームを掌握していたタイプ。試合運びは強引だけど、選手が「この人についていけば勝てる」と信じてた。引退後もスタジアムの外でチャントが響いてる。
戦術会議が長すぎて試合開始に遅れるタイプ。中盤でボールを持っても決定機を作れず、「それ今言う?」みたいなパス回しで自滅。監督交代が多くて、毎回「これからは攻めのサッカーだ!」って言うけど、次の試合も0-0。
全員で連帯してパスをつなぐが、ゴール前でも理想論ミーティングが始まる。サポーターは筋金入りで、負けても「内容では勝ってた」と言い張る。スタジアムの隅っこに「資本主義反対」って横断幕が常設。
自民クラブの影の戦術参謀。自分ではあまりシュートを打たないが、毎回アシストで勝ち点を確保。選挙区では堅実なパスワークで確実に得点。スタンドには祈りながら応援するサポーター多数。
新興クラブでスピード重視。ドリブル突破が売りだけど守備が雑。審判に文句言う頻度も高い。「古いチームはもうダメ!」って煽るが、たまに自分のチームでも同じことやってる。大阪ホームでは異常に強い。
少人数ながら、気迫とスライディングの勢いはリーグ随一。インタビューでは熱く語るが、フォーメーションがカオスで試合が荒れがち。観客席には「魂のプレーだ!」と泣きながら応援するファン。
中盤の調整型。とりあえず「現実的なサッカー」を目指しているけど、両サイド(自民・立憲)から「どっちのチーム?」と聞かれて混乱。試合後コメントは毎回“中庸すぎて刺さらない”。
かつては強豪クラブだったが、今や伝統だけが残るOBチーム。毎試合「昔は良かった」と語る。観客は数えるほどしかいないが、ユニフォームだけは洗いざらしの新品みたいにピカピカ。
トレーニングより精神論重視。チーム全員が同じスローガンを唱えて士気を上げるスタイル。スタジアム外での活動が活発。戦術ボードより自己啓発本が多いクラブハウス。
お前らは、財布を選ぶときにエシカルだの美しさだの、そんなチャチな理由で選んでるのか!?
甘ったれるな!!
牛革財布の魅力はそんなもんではない!!!
考えても見ろ、今の世の中のことをもっと。
もしも、これから戦争が始まって、世界中に核が落ちて、突然、世紀末救世主伝説マッドマックスの世界になったときのことを。
そうだ。
生き延びる唯一の切り札が牛革財布なんだぞ。
まず肝に銘じろ。
牛革は「食料」なんだ。
野菜の栽培も家畜の飼育も無理な世界で、飢えをしのぐ最後のリソースがここにある。
財布をかじれば、噛みしめる豊かなタンパク質、ミネラル、コラーゲンが染み出してくる。
口に入れたその瞬間、財布に刻まれた刻印よりも確かな“生命印”を感じるはずだ。
次に、牛革財布は加工が進んでいても“ナチュラル”な食感を残している。
噛めば噛むほどほのかな渋みと深いコクが口内に広がる。
財布の縁に残る糸くずや裏地も、繊維質としての食物繊維だ。
咀嚼するほどに満腹中枢が刺激され、腐敗しにくい乾物として長期保存にも耐える。
だが牛革は違う。
放射線も耐え抜く厚みとハリがあり、雨にも泥にも負けない。
まさに世界が終わっても財布一つで飢え知らず。
お前らが今、デザインやブランドを気に入ってるあのしなやかな手触りも、世紀末では“食べ頃”のサインだ。
柔らかすぎず硬すぎず、最適な焼き加減のステーキ肉を口の中で思い描け。
核ミサイルの閃光が消えた直後、財布を火に炙れば表面がパリッと香ばしく、内部はじんわりジューシーな“廃墟グルメ”に早変わりだ。
だが財布をかじるたびに、自分がかつてこの文明で戦ってきた証を噛み締める。
希望も絶望も一緒に噛み砕いて、次の一口を目指せば、生きる糧になる。
だから聞け。
その財布を持って砂塵の廃墟を歩け。
おばあちゃんの家に行くと「暇だろうから」と言って近所のイオン的なところに連れて行ってくれていた。で、何かしらを買ってくれていた。買ってくれるものはだいたいお菓子だった。
ある日雑貨屋さんに並んだ海の生き物の抱き枕(ペンギンとか、あざらしとか)が気になった私は店の前でぼーっと見ていた。そうしたらおばあちゃんが「買ってあげる」と言うので、我が家はあまりぬいぐるみや抱き枕を買う家ではなかったので、大喜びして、慎重に考えて、真っ白で、パイル生地で、触り心地よくて、つぶらな目がくりっとついたかわいいあざらしの抱き枕を選んだ。一緒にいた妹はペンギンを即決していた。
家に連れて帰ってからそれを見た母は「いらないものを・・・」と言って良い顔をしなかった。ぬいぐるみが増えることを嬉しく思っていなかった。
その週のうちに、あざらしとペンギンの抱き枕はゴミ袋に詰められて天袋にしまわれた。
その月のうちに、ある日学校に行こうとしたら見覚えのあるゴミ袋・・・ペンギンとあざらしの抱き枕が詰められたものが燃えるゴミ置き場に捨てられていた。
学校に行かないといけなかった私にはどうすることもできなくて、涙を流すこともできず、ゴミ袋が外に放置されているのをじっと眺めることしかできなかった。袋の中で悲しそうな目をしているあざらしと目が合った。
母はぬいぐるみが嫌いだったのか、モノが増えて片付かないことが嫌いだったのか、義理の母が買うモノが嫌いだったのか、義理の母が嫌いだったのか、あるいは全てかもはや分からない。
数年後おばあちゃんは亡くなった。お葬式で思ったのは、「あの日買ってくれたぬいぐるみ、実はすぐに捨てられちゃってごめんなさい。うちに来なかったら、もっと長く大事に愛されて使ってもらえたかもしれないのにね」。
それから何十年も経った。
今でも雑貨屋さんにぬいぐるみがあるのを見ると、あの日の嬉しい気持ちと悲しい気持ちが襲ってきて、最終的には泣きたい気持ちになる。
夏の夜だった。
蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、遠くで鳴く蛙の声だけが、しんとした闇に響いている。
女は、湯上がりの火照りを冷まそうと、濡れ縁に腰を下ろしていた。洗いざらしの浴衣の襟元が、少しだけはだけている。
男は、その斜め後ろに座り、ただ黙って団扇で風を送っていた。
言葉はない。
団扇が空を切る、ふわり、ふわり、という優しい音だけが、ふたりの間に流れていた。
その風は、女の肌を直接撫でるわけではない。けれど、男が起こした風が、女のうなじに残る数本の濡れた後れ毛を、そっと揺らす。そのたびに、女は背中に甘い痺れが走るのを感じていた。
一匹の蛍が、ふたりの間を横切るように、淡い光の軌跡を描いた。
光っては消え、また少し離れた場所で光る。
その明滅が、まるで、言えずにいる互いの想いのようだ、と女は思った。
男の視線が、自分のうなじに注がれているのを、女は感じていた。
触れられているわけではない。でも、その視線は、どんな指先よりも熱く、肌を焼くようだった。息が詰まる。心臓の音が、うるさいくらいに耳の奥で響く。
女は、ゆっくりと振り返った。
暗闇の中、男の瞳が、静かな熱を帯びてこちらを見つめている。
その瞳の中に、今にも溢れ出しそうな、激しい何かが映っているのを、女は見た。
「……涼しく、なりましたか」
男が、かろうじて絞り出したような声で言った。
女は、何も答えなかった。ただ、小さく、ふるふると首を横に振る。
ガンダムジークアクスのED『もうどうなってもいいや』の本当に最初の歌詞について。
「アンソロジーナゾル謎謎」のところは、完全に聴き間違えていて
だと思っていた
歌詞を見て初めて、あ違うんだ、と思ったが、しかし私の間違っていた歌詞のほうがなんかカッコよくないか?と思う
ただ韻が踏めたらいいでしょってレベルに感じる
だいいちこんな聞き間違えが生じてしまうのは、主にはこの曲の歌い手の技術不足だと思う
冷たいことを言えば下手
なのにVTuberという物珍しさで仕事が舞い込んでくるだけなのだと思う
子供の頃の話。
私は絵を描くのが好きで、新聞の折り込み広告の裏に印刷がないものを探しては絵を描いていた。ツルツルとした紙は鉛筆のノリが悪くて、ざらざらした紙の方が好きだった。
親は漫画を買ってくれなかったので、漫画の単行本を友達から借りて真似て描いたりした。
私の家はとあるカルト宗教に属していた。両親は比較的熱心な信者で、毎週の集まりのほかにも、大きなイベントの類には家族揃ってよく参加した。
ある時の大きめの集会の終盤、教祖の娘と孫がゲストとして参加して紹介された。
コンサートホールの壇上に、2人の少年が不遜な態度で座っている。
司会の男は“お孫様”を恭しく紹介し、プロジェクターに映し出された彼らが描いた絵の素晴らしさを熱く語った。
プールとプールサイドに置かれた椅子の油絵が映され、色使いがどうとか、魅力的だとか、そんなことを言っていた気がする。司会の男だって、芸術に明るいわけではないだろう。それでも、芸術の才能を確信したような物言いだった。
椅子の座面と足の関係がよくある間違いで描かれていた。狙ってこう描いている可能性もゼロではないが、初学者があえてすることはないだろう。油絵の具で描かれた子供っぽい絵だ思った。
帰りの車の中で父は「お前もああいう絵を描けばいいのに」と言った。私はなんと返事をしたかは覚えていない。
心の内を正直に話せば怒られることぐらいは分かっていた。
私だって、道具と材料があれば、あれぐらいのものはきっと描ける。
たまたま油絵が描ける環境に生まれて、評価の機会があっただけ。
その幸運の中にありながらあの態度はなんだ。大勢の前で紹介してもらいながら、ニコリともせず椅子に座り、挨拶のひとつもなかった。
腹立たしくて、悔しかった。
中学はイラスト部と言った雰囲気で定期的に作品を持ち寄り部誌を作った。
高校顧問の美術教師が油絵が専門だったのでみんな油絵を描いた。高文祭に出展するため、50号の作品を作った。イーゼルに立てると自分の背丈ほどになる大きさだ。
油絵は絵の具を油で溶かし、塗り重ねていく。油絵の具はなかなか乾かない。顧問はいろんな色で塗り重ねた方表情が出るから繰り返し描けと言った。何日も何日もかけて描く。描きながらいろんなことを考えた。進路のこと、友達のこと、好きな人のこと、親のこと。
油絵の描き方を親に説明した時、父親は「お前は何度も描き直すから、お前に合った描き方だね」と言った。家で絵を描いた後、机に消しゴムのカスが残っているといつも言われた。私は絵のことについて両親に何の理解も期待していなかったので、何も言わなかった。
高校から何点か選考に出し、私の描いたものが県代表の一つに選ばれた。
高文祭の会場にはたくさんの作品が展示されていて、みんな上手だと思った。
高文祭後の市の展覧会で、同じ作品を出した。そこの絵もみんな上手だと思った。展覧会に参加した国語の教師が「一緒に見に行った娘が、あなたの作品が一番良かったと言っていたよ」と教えてくれた。
絵を描くことを職業にしたいと思ったこともあったが、親はあまりいい顔をしなかったし、自分にそこまでも実力はないだろうとは思っていた。学費の面からも芸術系の大学に行く選択肢は初めからなかった。
そこそこ頭のいい医療系の学校に受かって、両親はとても喜んだ。
卒業して自宅から遠方に就職し、寮に入って実家と宗教から距離をとった。もうずいぶん両親とは会っていない。
絵は時々描いている。紙とペンがあればできるささやかな娯楽だ。
iPadでも描いたりするが、アプリが難しく思ったようには描けない。
もっと絵が上手くなりたいと思う。
今思い返せば、お孫様の絵を見た時の私の感情は子供の嫉妬だし、彼らの壇上での態度も理解できなくもない。
彼らが宗教を信仰していなかった可能性もあるし、出たくもない場所に引っ張り出されて、外国語で何やら男が話している。(教祖は外国人で日本語は堪能だったが、彼の子や孫はその限りではなかった。)自分の描いた絵をそのつもりがない時に人に見せられ、勝手にあれやこれや言われるというのは、たとえ賞賛でも嫌な気分になることはある。すべて想像だけれど。
ある時友人の小学生の子供と一緒に絵を描いて遊んだら、私の絵をとても上手だと褒めてくれた。それからときどき一緒に絵を描いている。
「お絵かき勝負しよう」と言われたので「勝負はやだな。好きに描いて見せっこしよう」と言った。
今年の年賀状は友人とは別にその子の名前でももらったので、干支にちなんだポケモンの絵を描いて送った。とても喜んでいたらしい。
私程度の画力の人なんて掃いて捨てるほどいる、と思う。それでも子供の素直な羨望の眼差しはあまりにも眩しい。
SNSに溢れる作品も、目に留まるのは数秒でも作者はその何倍も時間をかけて作品を作り上げている。
一つの作品を完成させてそれを世に出すということは、経験がない人の想像以上に精神力がいることだと私は思っている。少なくとも私のような凡人にはそうだ。
彼は今も絵を描いているのだろうか。
ふと昔のことを思い出しので、書き散らす。
結論から言うと、皇居の東側の民には、折りたたみ自転車がおすすめ。
皇居の西側の民は、まず「ドコモバイク」みたいなシェアサイクルで試してから電動なり買うと良き。
まず、地形がポイント。
東京は意外にも高低差があり、ざっくり言うと、皇居の西側は坂が多く、東側は平坦な地形が広がっています。
■西側エリア:坂道が多い地域がそこそこあるため、電動アシスト自転車が便利
五反田・渋谷・中野・新宿周辺など、起伏のあるエリアが近い街に住む場合は、電動アシスト付きの自転車が良い。
ただし、都内は駐輪場についてはシビアなこともあり、いきなり購入しても日常で使うかわからない。そんなときは、都内のあちこちにあるシェアバイクを、まず6月くらいまで使ってみる。
台東区・墨田区・江東区・中央区あたりは、坂道がほとんどないため、自転車での移動がしやすいです。
東京駅近くからディズニーリゾート(舞浜)まで自転車で行ったこともあるよ、時間はかかるけど、疲れなかった
※途中に橋があり、そこだけは多少の坂があります。
ロードバイクは東京での暮らしでは気をつけたいポイントがあります。
1.荷物の運搬に不向き
カゴがついていないことが多く、荷物はリュックで背負うことになります。ロードは汗をかきやすく、背中がびちゃびちゃになるのがいやでした。
高価な車体は外に置きにくく、屋内保管が求められることも。
また、屋内駐輪場ならともかく、屋根付きの駐輪場は、風雨で濡れることは避けられない。実際、うちのマンションの住人の自転車は1年経たずに錆びついてる。
そんな中で、多くの場面にフィットするのが折りたたみ自転車です。
•コンパクトなので玄関やベランダに置ける。天気予報で部屋に入れるので、雨ざらししにくく、サビ対策も万全
•必要ない時期は小さく畳んで保管しやすい(真冬と真夏は流石に乗らないよ)
というわけで、いつのまにか、自分の好きなミニベロの折りたたみ自転車をおすすめするという妙な方向になりましたが、満員電車に乗らなくて良い点だけでも、ロードだろうがなんだろうが自転車おすすめですわ。
アスファルトはなんかコールタール(原油のねばっとしたところ?)を熱したら固まるやつ
そのままだと勿体ないので砂利を混ぜて道路に使う
タールはニコチン・タールのタール煤みたいな概念でコールは固まるみたいな意味の英語
原料がセメント粉(石灰系の成分)で、水と砂を混ぜて乾かすと固まる。固まる前に猫が歩くと足跡が残る
砂を混ぜるのは、勿体ないもあるが、いい感じに強度が高くなるため
砂混ぜないでも固まるが、硬度が高すぎて、折れやすく(砕けやすくなる)
使い分けとして、アスファルトには次の利点があるため、道路などでの使用が多い。
デメリットとして、匂いが強い、熱々にしないといけない、圧をかけないといけないがあるため、建造物などでは使用しにくい
メリットは、タイヤに特化した滑り止め性能。砂利を混ぜてるため、表面がざらざらしており表面の水はけもそれなりによい。
コンクリだと、砂利を混ぜるとパキっとなって剥離するので、人為的に凹凸をつけないと滑る。
逆に、急坂だとアスファルト施工の難度(ロードローラーの登坂力の制限や、平らにする作業)があがるために、コンクリが多い。
あと、アスファルトのほうが掘り返しやすい。アスファルトカッター(実際には多用途だが道路工事の業者はほぼそれでしか使わないのでこの名称で定着した)さえあれば
先月思いもよらず多くの方々にお読みいただいたカマキリの話だが、今朝虫かごを覗いてみると地面に横たわって死んでいた。我が家に来てからちょうど1ヶ月半のことになる。
家に来てからのほとんどの期間をハリガネムシの寄生に気を揉んで心配し続けてきたカマキリだったが、おそらく死因は消化不良によって内臓が弱ってしまったことが原因だろうと思う。人間の食べる餌だけではやはり限界があったのだろう。
キッチンペーパーを敷いた虫かごの床に、カマを頭の横に添えて人がすやすやと横寝するような姿勢で倒れていて、見ようによってはかわいらしい仕草の亡骸だった。
先週末に外出先から戻ってみると、とても水分量の多い糞をしていてだいぶ気がかりではあった。天井にぶら下がっていられないのか虫かごの低い位置の壁につかまるようになったり、夜に照明がつくと目に見えて取り乱すようになったり、不調の兆しは確かにあったと思う。
特に昨晩は寝る前にずいぶんと長いこと腹を曲げていて、それを見た娘が心配していた。その仕草は糞をする時のカマキリの一般的な姿勢で、逆さまにぶら下がっている時に自分の糞で体を汚さないための工夫であるらしい旨を調べていた私はそれほど強い心配をしなかったのだが、思えばあれが最期の苦しみであったのかもしれない。
一説によるとハリガネムシはカマキリの羽化から30〜45日ほどで脱出を図ることが多いという。だから私は密かに飼育45日目を節目だと勝手に思っていた。我が家に来る直前にハリガネムシの幼虫が入った餌を食べてしまったとしても、45日を過ぎればもう寄生の心配はしなくていいだろう、あとは寒さや寿命に備えて引き続き長生きを祈ろうと思っていた。冬まで生きれば隙間風の多い極寒の我が家で生き残らせる手段として、私の部屋のこたつの上で生活するこたつカマキリが爆誕するだろうなと思っていた。
我が家に来て少ししてから急に翅が黒ずんできてしまって心配していたのだが、近くで見てみると黒いだけでなく透明にもなっていて、かなり早くから傷んでいたのだろうと思う。前回の増田では前翅と後翅が入れ替わってしまったのではないかと書いたが、つるつるした緑色の部分(前翅?)とざらざらした透明な部分(後翅?)は、着物の合わせのようにはっきりと境目が見えるのにぴったりくっついてうまく分離できなかった。生きていた時は翅を広げたりすればきちんと分かれていたのかもしれない。
本当は、飼育45日を過ぎて元気でいるようなら、近況をまた増田に書こうと思って半月くらい前からずっと下書きを保存していた。そのほとんどが没になってしまった。
10月に入ってから魚肉ソーセージを食べなくなったので普通の肉を週二でやっていた事とか、ちゃんと餌を顔に近づけると自分で持って食べるようになり横着カマキリの汚名を返上していた事とか、一度サーモンの刺身をやってみたら大パニックを起こして煮干し以来の脱走の危機を迎えていた事とか、我が家のベランダにハラビロのメスカマキリまでやってきて天の采配かと大興奮したがすぐにどこかへ行ってしまった事とかをもっと長々と書いていた。こういう形での続報になってしまってとても残念だ。
カマキリの死を知った娘は思いのほかに長くさめざめと泣いて、私はカマキリの死自体よりは、そんな娘がかわいそうで悲しいという気持ちの方が幾分強かった。それでも、この増田を書きながらカマキリの亡骸について記述している際には少々涙が出た。かわいかったなと意識をすると悲しい。
昆虫が平気な親であれば、インターネットでハリガネムシの心配がないなにがしかの幼虫や餌用の活コオロギなどを買い、別に飼育しておいて、もっと長生きさせる手立てはあったかもしれない。残念ながらそこまでする根性がなかった。そういう意味での悔いはあるが、昆虫が怖くて触れない親なりにできることは全てしたと思っている。
前回の増田で我が家のカマキリをかわいいと思ってくださった方々、本当にどうもありがとう。
力も経験も全く足りず、あまり長生きをさせることはできなかった。それでもたくさん甘やかして暮らした。カマキリはどうかわからないが人間は幸せだったと思う。
すぐ埋めるのは嫌だと娘が言うので、少しだけ家に置いておいて、いずれベランダの鉢植えの花を添えて近くの公園の土に埋めに行くつもりだ。
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死んだ当日はとてもよく晴れて、次の明け方はおそろしく強い風が吹いた。風の音で目を覚まし、一緒に埋めようと思っていた鉢植えの花が吹き飛ばされるのが心配でベランダに出て鉢植えの位置を変えた。
朝再び起きるとカマキリの亡骸はだいぶ茶色く変色してしまっていて、これはもう埋めた方がいいだろうと思われ、娘も嫌々ながら承諾した。カマの部分だけはあまり腐るような中身がないのか、変色が少なく割合きれいな緑色を保っているのが印象的だった。
ほんの少しの間使っていた止まり木についていた木の実と、鉢植えの花をひとつ添えて公園の植え込みの根元に埋めた。
これが最後だからと娘に促すと、怖がって一度もカマキリに触れたことのなかった娘がこわごわと亡骸に触れ、指でつまんで墓穴に入れようとした。
恐る恐るだったので一度手を滑らせてしまって、キッチンペーパーに乗せたカマキリの亡骸がコロリと裏返しに転がり、まるでこちらを向いて最後のお別れでもするかのような姿勢になって、思わずグッと涙を堪えた。それでも娘は亡骸をきちんと墓穴におさめることができた。二人で半べそをかきながら土をかけて葬った。
死んだ日はよく晴れ、明け方に早く葬ってほしいと言わんばかりの強い風が吹き、埋葬した後には前日に輪をかけてよい快晴に恵まれたので、その話をして「ちゃんとお葬式をしてもらえてよかったと思っているのかもね」と娘に言ったら「天気の子だぁ」と喜んでいた。
今は「早く生まれ変わってまた来てほしい」と言っている。
私は「可愛さを認められて次はネコにでも生まれ変わり、どこかの優しい飼主に一生大事に可愛がられて過ごすといい」と思っている。