
はてなキーワード:ごにょごにょとは
このふたつを悪く言われて悲しくなるなら、ここから先は読むな。
何か特別な理由があるわけでもない。普通にどっちも死ぬほどキモいと思っているだけだ。
「子どもと動物を嫌う奴はヤバい奴だから関わるな」という言説を聞いたことがある方も多いと思う。
可愛いものを嫌う人間なんて理解できないから気持ち悪い、という事なのだろうか。
だが、「ヤバい奴」である私にも言い分はある。少数派なのはよく理解しているので、匿名でしか言えないが。
・子どもが嫌い
子どもが好きな人でも、公共の場で騒いでいるのを見かけてうるさいなと思うことはあるだろう。
そして「うるさいけど可愛いから許せるな」というところに着地するのではないだろうか。
(あくまでも子ども嫌いによる想像だ。間違っていたら申し訳ない)
私にはそもそも子どもが可愛く見えないのが一つ、もし可愛くてうるさいもんはうるさいだろ、と考えているのが一つ。
大人が子どもと同じ声量で駄々をこねている場面に遭遇したら大抵の人はイライラすると思われる。
私は「子どもだから仕方ない」とはどうしても思えないのだ。だから、相手が未就学児だろうが中学生だろうが、全員に等しくイライラしてしまう。
言い分としては弱い気もするが、先に述べたように、特別な理由があって嫌っているわけではない。
ここ最近で一番キツかった迷惑ガキエピソードは、どう見ても食事は終わっているのにスシロー店内でひたすら鬼ごっこをしているガキと遭遇した日だ。
卒業式帰りらしい雰囲気だったが、そんな事は私には関係ない。浮かれるのは家に帰ってからにしろ。
・動物が嫌い
小さい動物は人間よりも弱そうだから?人間よりも知能が低いから?毛が生えていてフワフワしているから?
動物に対する悪口のように見えてしまうかもしれないが、私にはこれくらいしか考えつかなかった。
例え話だが、蛍光色だとか、奇妙な形だとか、得体の知れない特徴を持つ生物が目の前に現れたとき皆さんはどう思うのだろうか。
そこら辺で散歩させられている犬や、「実家の猫!見て〜!」と友達に見せられる写真の中の猫も、私にとっては蛍光色の未知生物となんら変わりない。気がする。
動物嫌いの孤独感は凄まじく、人生で出会ったのは一人だけだ。(引かれたくないから隠している、そんな仲間はいたのかもしれない。)
孤独感を埋めるために、動物嫌いのブログなどを読み漁ったことが何度もある。
その中で「世間のゴキブリに対する嫌悪感と違いない」という一文を見かけて、コレだ!と思った。
高頻度で目にするという点を加味すれば、むしろゴキブリより愛玩動物の方が強い嫌悪を感じる。
もし孤独な私に同情してくれる人間がいたら、ゴキブリの写真を見せられる度に「可愛いね」と褒め、インスタを見ているだけで毎日ゴキブリの写真を目にする生活を想像していただけないだろうか。
何も、愛玩動物たちを害虫扱いするつもりはなく、ただの例え話である。そこは誤解しないでいただきたい。
なお、どうしても誤魔化しきれない時(猫カフェに誘われた、動物愛好家サークルに入ろうと誘われたなど)は「動物触れなくて……」「猫、実はちょっと怖くて……」と答えている。
動物嫌いがごにょごにょ誤魔化さなければならない場面って、案外多い。世の中には動物好きが多すぎるね。
・終わり
私は愛猫家に「猫は気持ち悪い」などと言って傷つけることも、街中で他人の子どもを怒鳴りつけるようなことも絶対にしない。ただ、勝手に気分を悪くするだけだ。
それでも、私はやっぱり「ヤバい奴」「人間性に欠けた奴」なのだろうか。
そんな風に思われるのは怖いから、これからも私は見せられたペットの写真を「え〜!可愛い!」と笑顔で褒めるし、「子どもがうるさくしてすみません」とよその親に謝られたら「いえいえ……」と笑顔で返す。
え?と思う言動は度々あっても、本気で悪気がないのはわかっていたから長年友人として付き合ってきた
その友人と食事に行った際、ふと私の手を見て
「おばあちゃんみたいな手!」
と言って爆笑し始めた
いろんな事情で小さい頃から家事をやってきたから、いかにも家事やってた人の手って感じなのはわかってた
ふしくれだっているというか骨張っているというかシワシワしているというかまあ実際手は老けてる
なんか、思ったことを口に出してしまうのは、まだわかるんだよな
「増田の手っておばあちゃんみたいだね」ってサラッと言われたらこんなにモヤモヤしてない
でも爆笑するってちょっと悪意があるんじゃないか?と思ってしまった
私が強張った顔をしていることに気がついたのか「怒った?でも思ったことをつい言っちゃうから…」とかごにょごにょ言っていた
もう仲良くできる気しないかもな〜〜〜〜〜一言ごめんって言ってくれたらいいのにな〜〜〜〜〜でも謝ってほしいって言うと謝れって言うから謝りました!偉いでしょ!!!!みたいな感じで謝るから、それはそれでモヤモヤするんだよな!!!!
こんなことでって思うけど急に顔も見たくなくなってしまった
傘貸したら2週間返ってこなかった時も学校で急に大声で下ネタを話し始めた時も約束忘れられて3時間待ちぼうけした時も財布と携帯忘れてお金貸して返してもらおうとしたら「計算できないから多めに言われてもわかんないな〜」ってぶつくさ言われた時も流してたのにどうしちゃったんだろう
一年くらい前に都内に引っ越してきて、といっても山手線外側の右上あたりのところで、良くも悪くもこんなもんかという気分になっている。
前まで住んでいた地方都市と同じノリで過ごしている。さすがに駅前の人は多いけど、中高生と爺ちゃん婆ちゃんが人口の7割くらい占めてそうなところも同じ。
ああそうか、自分が学生の頃にたまに来て感じていた「小汚いけどここでしか見れない気がするモノを見る」とか、少し電車に乗った先の「無限にある気の利いた店で若干キラキラしたものを摂取する」とか、そういうのって、お上りさんですらない田舎民が見た幻想の東京だったんだなぁ……
と、思いかけたんだけど、そうでもないことにここ半年で気づいてきた。
西側の副都心、特に新宿・渋谷、そこから西側に行くと、やたらめったらに若くてキラキラした空間が広がっている。
中央線も吉祥寺あたりまで何か若者が求めるすべてが気の利いた感じでみっしりうごめいている感じがあるし、三鷹あたりまでさすがに落ち着きつつもそのノリがある程度維持されてるのが怖い。
小田急がぁ!!東横線がぁ!!田園都市線がぁ!!みたいな、やたら聞いたことあったのが妙に腑に落ちた。
東横線なんて乗った日には自由が丘あたりまで車窓からして「都会的で豊かな暮らしでっせぇ!?」みたいな顔して流れてる気がしてくる。(実際そう見えるように開発してるんだと思う)
こいつら、東急の愚痴言うふりして、アーバンなデイリーライフをフレックスして気持ちくなってたんだ。本当に酷い。
はてなーも「いや、トナイには良いビジュツカンがあって……」みたいなことをごにょごにょいうけれど、大半は遠足的に上野や東京駅に出てくるだけで、日常はこういう西側のいかにもな地域で「東京に住んでるなぁ」とか思いながら過ごしてたんだろ!!!
相対性理論聞きながら宇宙ネコ子みてえな顔して時計の針が止まって見える現象のことを話してたりしたんだろ!!!!
白状しなくてもいいので皆の東京の東側の楽しみ方を教えてください。
(実は私の引っ越してきた場所もとてもいい街です。地味だけど歴史があります。上野への遠足もしやすいです。)
追記:吉祥寺と間違えて高円寺と記載しておりました。大変申し訳ない(高円寺も若干別の角度でキラキラやんとは思ったけど)
弁明にはならないけど、多摩も八王子も西側に含んでいないわけではなくそこも含めて全部西側という文化圏として認識してしまうという話でした。
(市部に住んでる人らも上野より北・隅田川より東側はほぼ認識してないやろしおあいこじゃんねという投げやりな気持ちで書いてしまったのもある)
挙げていただいた東側の魅力めちゃくちゃ助かりました。休日の糧にします。地域云々シビアな時代に煽るような記事を書きご迷惑をおかけしました。
自分が住んでいるのは北区です。会社が勝手に決めたのでほぼ知らない土地でした。誇張も多いけど、自分で選んでたら自分のいう西側の地域にしてた気がする。それも悪くなかったかも。(西日本出身です)
よく「足立は23区の恥!w」みたいなしょうもない書き込みに巻き込まれて「北区は言及する価値もない」とかいうカスみたいな暴言をもらうこともありますが、なんだかんだでいい場所です。
とはいえいわゆる両国・浅草とかその周辺の江戸っぽい場所とも若干違って(チャリですぐ行ける距離だけど)、江戸までの村と自然の観光地+近代産業の歴史の割合が多そうな雰囲気ではある。
てか冷静に地図見ると右上というより完全に北ですね。北区なんだから当たり前か。山手線とかわざわざ言っちゃってこの半年で見栄っ張りな関東人らしくなってきたってことどすかなぁ。右上もとい『上』で待ってるで。
Permalink |記事への反応(45) | 11:52
なんて話題が出てますが、結局のところ記事中にもあるように「求める品質に達するため」のその求める品質をどこに引くか、だけの話でしかないハズ。
https://automaton-media.com/articles/newsjp/black-myth-wukong-xbox-20250106-324331/
例えば同様にUnreal Engine 5 を採用しPC版の最低要件が「メモリー: 16GBRAM」であるS.T.A.L.K.E.R. 2 では、
フツーにPC/XSX/XSS同時発売で、XSS版もなんの問題もなく動いてるのだから、一般論としては「ビジュアル品質さえ調整すればいける」ハズでしかない。
※S.T.A.L.K.E.R. 2自体がまだ細かいバグがいっぱい残ってるって話はまた別の話
なおS.T.A.L.K.E.R. 2 XSX版では30fpsターゲットのクオリティモードと60fpsターゲットのパフォーマンスモードがあり、
XSS版では現在30fpsターゲットのモードのみが提供されているが、当然こういうのも「調整」の一つ。
また、UE5の特性として「lumenやnanite等を使うととにかくCPUヘビー」というのがあり、
PC版で RTX4060Ti + 32GB という環境であっても、CPUがCore i7-8700(6C12T)だと
描画設定全て低、FullHD の設定ですらCPUバウンドで精々30fps~45fps程度しか出ない。
その意味ではXSX版のパフォーマンスモードで(NPCの多数いる拠点以外は)ほぼ60fps出てるのは賞賛に値する。
(CPU的には8C16Tなので↑の環境より上ってことになる)
XSXとXSSでCPUパワーはほぼ変わらないので、流石にこのあたりは動作の根幹に関わり、
かつ調整(スケーリング)が難しい部分だというのを良く分かっている。
「黒神話:悟空」に話を戻すと、こちらもUE5タイトルなので、lumenの重さは仕方ないにしても、
ジオメトリの詳細度は nanite であればそれこそ無段階LoDに等しいのだからいくらでも荒く出来るはずなのと、
最悪でも「ランタイムでのnaniteの利用をやめてフォールバックメッシュで済ます」という手はUE5自身がサポートしているはず。
ということで「見た目」に目をつぶればジオメトリでのメモリ使用量はかなり削減可能であろう。
同じ事はテクスチャにも言えて、こちらも最悪は「XSS用には荒いテクスチャを用意」すればどうにでもなるのと、
荒いテクスチャを用意するというのは普通であれば4Kテクスチャからmipmapを作成するときに勝手に作られるので
そこまで手間ヒマがかかるもんでもない。(オーサリングツールがやってくれる範疇)
あと長くなってきたので割愛しますが lumen もCPUヘビーであると同時にかなりメモリも食う仕組みだけど、
とにかく色々妥協すればメモリ使用量は削減可能(スケーラブル)ではある。
https://www.docswell.com/s/EpicGamesJapan/51NY7K-UE_CEDEC2022_CitySampleRenderingOptimize
ということで、「なるべくビジュアル品質を保ったままXSSに最適化するには」という部分で
「ビジュアル品質にかなり拘っている」という話なんだろうな、と思っています。
(実際、黒神話:悟空が最初からかなりそこをアピールしているタイトルだし)
(※そしてこの手の中華ソウルライクって実は「そこを除けば」本家越えしてない場合が多くて、だからそこをスポイルしちゃうと…という話はまた別の話なので…ごにょごにょ…)
どっちかというとそういうリニアに調整可能な部分より、S.T.A.L.K.E.R. 2 の A-Life みたいな、
シミューレションなのであまり要素数を減らしすぎると成立しなくなる…みたいなやつの方がメモリ問題としてはクリティカルなはず。
そういうわけで A-life2.0 が早くフル実装されないかなーとワクテカしながら毎晩のようにゾーンを彷徨っている増田でした。
(結局ほぼSTALKER2の話しかしてねえ!)
会わない日は電話するようにしてるけど10扮もタイミングがずれると寝ちゃったりする
そういう日が連続であった後、彼女が体調を崩してしまい、治ったら友人との長期旅行で海外に行ってしまった
1週間半ぐらい電話してないし会ってない
アプリで出合って2回目には付き合って2ヶ月経つが、付き合う前も含めてこんなに電話しない日々も会わない日々も初めて
めちゃくちゃ寂しい
彼女の写真や動画はたくさんあるけど、流石にえっちなのはちょっとしかない
全然物足りない…
作らなかったとしてもディープフェイクの話なんて女性にするもんじゃないんだよなあ
東大教授のごにょごにょが話題だが、千葉大学の学長のごにょごにょも話題にして欲しい。
2023年11月に千葉大学学長が急死したため、新学長の選考が急遽行われることになった。
全体の流れを簡単にまとめると次のような感じ。
③結果、人文系の教授が最多得票(554票)。2位は446票で医学系①氏、3位は350票の医学系②氏となった。
④教員や学外の委員で作る選考会議で、聴取の結果を踏まえた学長選考が行われた。
⑤選考の結果、「学内意向聴取」で2位だった医学系①氏が学長に決定した。
⑥複数の学部・大学院がキレて、声明や意見書、質問書を出した。
⑦大学側はだんまり。回答期限を過ぎてからようやくしょぼい説明っぽいものが公表された。
⑧風化される←イマココ
今、新大学長になった医学系①氏はコミュニケーションの一環として、1ヶ月に1回のペースで全教職員・学生宛に一斉メールを送っている。(メールの内容は小学校とかで配られるような「学校だより」みたいな感じ。まぁまぁ長い)
本当におかしいと思う。
パートナーつうのは典型的なかたちの夫婦でないという意味だ。事実婚でも本人同士が夫婦と認識しているなら堂々と夫婦と言うし、法的な婚姻関係にあるカップルでも、破綻していれば夫婦という呼び名を避ける。
パートナーという呼び名を使う頻度の大きい属性として、他にもたとえばゲイなど同性愛者のカップル、不倫関係のカップル、もちろん恋人同士で未婚のカップルも含まれる。同性愛者に対して憧れなのか憐憫なのか共感なのか、謎の心理を抱くものが同性愛者達の語彙(つまり「パートナー」)を使って、意味の曖昧化を図ったり、先進的ぶることもよくある。
これらの共通点はマイノリティということだ。世の中の大半のカップルが夫婦という呼称をすんなり使うなかで、ごにょごにょ言いたくなるような事情を抱えたカップルなのだ。
そんな彼らに正論をぶつけるのは暴力と変わらない。あなたがやっていることは、いじめに近い。やめるべきだ。雨の日にようやく這い出たナメクジに、わざわざ塩をかける必要があるだろうか?彼らにとって現実の厳しさは耐え難い劇薬で、生きている限り黙ってても直面するものだ。
基本的には良い人なのだが、話がつまらない(個人的意見ではなく、n=5ぐらいの主観。言いたいことラリータイプの女性や聞き上手さんとはある程度話が合う)
つまらないし高頻度高確率で場をしらけさせるのだけど、それはまあいいんだけど、
Aの話してて、B(Aの隣や次の意味)の話題に変わるぐらいなら良いのだけど、突然Dとかエーの『エ』の話とかぶっこんでくる、それもまあいいんだけど
ネタというよりマウントのために誇張しすぎて(倍とか3倍ではなく100倍とかするからもはや虚言癖だと言ってる人も居る)、それもまあ略
極まれに、会話に混ざれなさすぎると、0からエピソードを生み出す。流石にそれは嘘だからダメだと思う
こないだも、より良きオナニーの話をしてて、VRエアドールの空気入れの話になった時に、電動ポンプか手動ポンプか、自転車用の携帯のやつは効率悪いとか言う話題で盛り上がってた時に、肺活量自慢なのか(昔水泳やってたらしい)口で膨らませてるとか言ってきて、
色々怪しかったので詰めたら、どんなタイプのエアドールさん使ってるかとか聞いてもごにょごにょいうか、的外れな回答しかできずに、
結局、VRはスマホで動画を何回か見たことがあるだけ、エアドール所持歴も無さそうということが発覚した
本人いない時に、エアプはなぁって話になって、我々の行いもある意味エアプだけどなって言うオチが浮かんでどうしても消化したかったから、
まず、
どのネットコミュニティにもこの人みたいなこと言う人はいます。
私は匿名掲示板利用が多かったのでこのタイプの人を大量に見てきました。
わりとどこにでもいます。
みんながめいめい『〇〇』の感想を言い合ってやりとりしてる中で
自分は居づらい・語りにくい」
的なことを言い出す。
それもこんな整理した言い方のクレームじゃなくて、
だけどまあまあ強い非難の口調でその場所への不満を表明しだすわけです。
気付いて見慣れてくるといろんな場所で
そういう時に私は
「じゃあなたのしたい話題をふってみ、ちゃんと乗るよ」と言うんですが
そこで「ほんと?!ありがとう!じゃあさあ…」って息せき切って語りだした人はこれまでゼロです。
誇張抜きに本当にゼロ。
反応はむしろ逆で、喜ぶどころか
「所詮こんなところでは語れないから~」的なことをごにょごにょって言って
逃げ去るように居なくなっちゃうんです。
「好きな話題語っていいよ」「聞くよ」「合わせるよ」と言うと困った感じになって去ってしまう。
これも誇張抜きでゼロ。
じゃあ何を書き込んでるのかというと、
人の書き込みにぼんやりしたケチを付けたり居づらさ表明をしたりだけ。
そりゃあこれだと輪に入れないでしょう、となります。
そもそもきょうび「どこにも居場所がない」はおかしいんですよ。
同じぐらい古いふたばや5chですら無数に板もスレッドもあるし、
ジェンダーの話もウヨサヨの話もしない場所くらいいくらでもあるんです。
メジャーなトレンドとは没交渉で交流したり喧嘩したりしてますよね。
(たとえば私の好きな在来馬乗馬界隈はおおむね仲良しで平和だけど
ウエイトトレーニング界隈はしょっちゅう界隈内で喧嘩してるし
若い女性向けインチキエクササイズ界隈に戦争を仕掛けてまでいる。)
最低限の主体性がある人なら
語りたいことがあれば勝手に語りだして語り続けることができるし
そんな2024年のインターネットで
「居場所が見つからない」ってなかなかあり得ないと思いません?
結構長いことこのタイプの人の主張や行動を観察してきた末の結論として
この人たちは語りたいこと・語れることなど何もないのだと思います。
この人たちがどこへ行っても疎外感を抱くのは
場の話題が合わないとか場の人達のマナーがよくないとかではなくて
じゃあそれはなんなのかというと
当人の読み書き・発達・認知あたりに軽度の難を疑っていいと思います。
というかたぶんオフライン生活でも何かしらの困難を持ってるのでは?と考えます。
idのあるところでこのタイプの不平を漏らしてる人の書き込み履歴が
必ずぼんやりした感じで自分の意見らしいものが皆無なのもそれで、
要するにほぼ思考がまとまらないし言葉にもならないっぽいんですよね。
コミュニケーション自体がうっすら難しく、文字コミュニケーションは更に苦手。
「どこへ行っても居場所がない」
「どこへ行っても場所が悪い」
「どこへ行っても自分に意地悪」
といった主観になって、
社会が悪い人が冷たいという感じのぼんやりした不平不満に回収されるから
「自分が原因かも」とは気づけなくなる。
(これは性格が良い悪いの話ではなく知的能力の話をしています。)
これとよく似た症状&不満を呈する人たちがいます。
高齢者です。
元々の知能が高かった人は末期まで活発に活動して認知能力も維持し、
元々の知能が高くなかった人はどんぼんぼんやりして認知症様の状態になります。
(アルツハイマーなどの病変は除く)
後者にすごく似てません?
真っ先に何らかの知的能力の不調や欠損を疑うのは合理的だと思います。
周りが何を言ってるかよくわからない、
軽度知的障碍者と高齢者は結局同じ問題を抱えて同じ困難にぶち当たってません?
彼等の最良のネット参加と言うのはおそらく
積極的に参加できずにボーっと読んでる(一部しか理解できない)
みたいな感じだろうと思います。
(スレッドの流れが自分の狭い好みにそぐわない話や理解が難しい話になると文句を言いに現れる)
差別主義者だとかバカにして笑ってるんだみたいなことを言われますが
そんなくだらないことするためにわざわざ長文書きません。
「自覚がないけどちょっと人より能力が落ちるから独特の困難にぶち当たってる人」
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
ざっと調べただけだけど、なんか胡散臭いとか、やり方が下品だとか、気に食わないとか、そういうのはわかる。
でもそれってただの感情論だしなー。
一応、建前(?)としては、前市長が買収問題で辞職したというのもあるし、根回しとかせずすべてオープンな場で是々非々でやろうとしているっぽい。
もっと穏便なやり方があったんじゃないかとは思うけど、裏でごにょごにょしてみんな仲良くなやっていきますってのがいいことだととも思えない。
功績のほうは、赤字だった財政状況を改善したとか、小・中学校の給食費を無償化したとか、ちゃんとしたんだなとは思ってる。
やり口が気に食わないとか、振る舞いが好きじゃないってのはどうでもいいから、石丸伸二という人物が政治家としてどうなのか詳しい人教えてくれよ!
“当選するための選挙妨害なら健全・・・じゃないけど政治的な動機ならまだ分かるというものだし、それも民主主義のコストだと言えなくもないが、目立って集金したいだけの存在が妨害してんのは市民社会からの搾取だよな ”
“特定陣営との繋がりのない(少なくとも繋がりの立証されていない)聴衆のやじと、選挙に立候補してる他陣営による選挙妨害の区別がついてない人にも表現の自由がある。それが日本。”
“北海道警察の事案は応訴の仕方が悪かった感はあるんですよね。選挙妨害罪の実行行為を制止したという構成にしておらず、謎の法的根拠をごにょごにょ主張してたんじゃなかったっけ。”
この前行きつけのバーで知り合った10歳近く上の男性と2人で食事に行った。
お互い独身。
行きつけのバーで何回か会ってて、わたし的には好きと言う感情はまだないが2人でご飯を食べるのは別にいいかなくらい。
場所は近所の行きつけのビストロを指定されたのでそこに向かったら彼は先に一杯やってた。
2人きりで飲みにきたのは初めてで、若干オラついた話し方なのが気になった。
そして会計。
2人で13000円くらい。
そしたら彼が俺がカードで払うわ。と
まあそこでさらっとごちそうさま!と言えばそれで済んだことかもしれないけど
とりあえず聞くじゃないですか、わたしどうしましょうか?的なごにょごにょ。
うーん、PayPayとか?
と言われて、うん?となりつつ
QRを交換した。
そこまではまだいいとしてw
向こうが〇〇円でいいよとかそういう類のことも言ってくれなかったのでこっちからいくら払えばいいですか?とも聞けず
じゃ、じゃあ半分で6500円送ります…
6500円で!とか4000円でいいよ!とかはっきり言ってくれた方がまだ氷点下まで冷めなかったかも。3℃くらいにはなるが
てか先に一杯飲んでなかったか?笑
次の日
〇〇うまかったね〜次は〇〇行きたいね〜
と連絡来てびっくりした。
次があると思ってるのか笑
会話もそこまで面白くなかったし冷めているのでもう2人きりになりたくなかった笑
それから毎週、飲みに行かない?〇〇行かない?って連絡きてたけど理由つけて断った。
さっきも今週末あいてるか聞かれたけど断ったら素っ気ない返事が来たからさすがに諦めたと思う笑
行きつけのバーで会うかもしれないけど