
はてなキーワード:「あいつら」とは
私は発達持ちでうつ病で手帳3級を持つ障害者だ。現在はルーティンワークと重労働が主で、そのほとんどを非正規が担う職場で働いている。そういう条件であるために、「いろんな奴がいる」。明らかに「こいつの社会性じゃ普通の会社じゃやってけねえな」という感じの奴から、家族の介護などの事情や本人の持病がある人、主婦のパートさんまで、色々だ。その中の一人として私も働いている。
私はうつ病を発症するまでは正社員として企業で働いていて、発達にも気付いていなかった。
当時の私は発達由来の過集中で本当は大して高くはない能力をブーストするのが日常であり、終電や徹夜も珍しくないハードワーカーでもあった。これも発達由来なのだろうが、完璧主義で、周りのマイペースさ、やる気のなさが許せないとも思っていた。指示を出して上がってきた物のクオリティが低いと、何度も修正をかけ、それでもどうにもならなければ自ら徹夜で仕上げていた。
そうしてのうのうと定時に帰っていく彼らに対して、「あいつら、人に迷惑をかけることを申し訳ないと思わないのだろうか」と苛立っていたし、OKを出す基準が甘い先輩たちに対しては、「何も考えていないんじゃないか?」と不信感を持っていた。
「そんな事で恥ずかしくないのか」と。
そんな風に色々勝手に背負い込んで働いているうちに、バーンアウトしてうつ病になった。
障害者なんてものは世の中に迷惑をかける側だと思われているだろうが、障害者でない人々がそうであるように、同調圧力の強いこの社会で「人様に迷惑をかけるのは罪である」という価値観を、多くの障害者もまた内面化している。
先天的な障害のある人は生活するうちに周囲の態度からそれを知ってゆくだろうし、後天的に障害を得た人が障害の受容をする時、もっとも乗り越えねばならないのは「障害者は他人の足を引っ張る、役に立たない存在である」という、元々自分の中にある障害者への差別意識であるという。
私もその壁にぶち当たり、ひどく悩んだ。死んだ方がよいのではないかとも思った。他人の足を引っ張ることしかできない、迷惑な人間には生きる価値がないのだという考えには、今でもずっと呪われている。
ビルの高層階でデスクワーカーとして働いていた以前とは全く別の環境で社会復帰した当初、私はいったん無能な自分を受け入れ、そんな自分なりになんとかやっていこうと思っていたはずだった。だが、働きながらも呪いはずっと深層心理化で効き続けていて、私は「役立たずだと思われないように」「人の足を引っ張らないように」と、また自らに課すようになっていた。
気づけば、気がついた事はなんでもやり、誰かがやらなければならない事は自分がやり……、と言ったように、せっせと働くようになっていた。
それはそれでよいことだ、と思われるかもしれない。
しかし、少しでも量をこなせるように、早く終るようにと私が立ち回る一方で、同じラインで働く中にはやはり極度にマイペースな人間や、仕事が遅い人間、周囲が見えていないかのような動きをする人間もいるのだった。
本来15分で終わるような仕事を1時間かけてやる奴がいるために、その間溜まってゆく仕事を代わりに片付けるのが私の役目になってしまい、それに追われて仕事が捗らず、結局最低限の量をこなすだけで終わってしまう。
別に誰に言われたわけでもないのだから仕事を肩代わりする必要はないのかもしれないし、最低限の量でもできているならよしと思えばいいのかもしれない。
だが、良くも悪くもそれができないのが「責任感」という名の例の呪いなのだった。
無責任な奴だと思われたくないし、人に迷惑をかけて平気な奴だと思われたくない。フリーライダーなんかと一緒にされたくない。私はあいつらと違って努力しているのだ。
「あいつら」というのが誰かと言えば、それは世間的な偏見の中の生活保護受給者であり、障害者だ。現実のの生活保護受給者や障害者ではない。例えば桐生市の職員の頭の中にある受給者のステレオタイプ、障害者差別をする人間の頭の中にある障害者のステレオタイプのことだ。
人様に迷惑をかけるなという価値観とともに私に(そしてほとんど全ての人に)、そういった人々が、「迷惑をかける人間」のステレオタイプとして刻み込まれている。無能で、怠惰で、依存的で、甘えた人間は、社会の敵なのだと。
私は障害者であるくせに(あるいは障害者であるがゆえに)、甘えてはならない、役に立たなければ生きている価値がないという強迫観念に駆られながら働いている。
一方で、一緒に働く(おそらく)健常者のクソほどマイペースな男や、隙あらば楽をした方がお得だと思っている女性は、自分が人に迷惑をかけているなどとは思いもしないもまま、伸び伸びと私の労働にフリーライドしているのであった。
なんだこの状況?
今年は本当に過労で死ぬんじゃないかと思った。自分の半分以下の仕事しかしない人間のフォローをし、毎日筋肉痛で、疲れすぎて眠れない日が続いた。
しかしある日、その当人と雑談をしていると、「発達障害の子どもは健常な子とは見るからに違うからすぐわかる。うるさいし言動が普通じゃない。税金がそういう子に使われてると思うと複雑」と言う話を、もう少し婉曲な、しかしそれだけにもって回った嫌な感じで話すのだった。
私は発達もうつ病もクローズドで働いているのだが、よりによって発達障害を差別している本人が発達障害者の労働力にフリーライドして、半分の仕事量で同じ時給を貰ってるもんだから、頭がクラクラしてしまった。
私が元増田を読んで最初に書こうと思ったのは、『しんどいなら無理しないラインでやればいいんだよ。他人の責任まで負う必要ない』と言うことだった。
それは私にも言えることだろう。
私も忙しい思いをしているうちにフラストレーションが溜まり、心の中ではバカだのクソだの、怠けるなだのと悪態ばかりついている。
そんな風に抱え込むくらいなら、自分の責任だけ果たして、できないことはできないで済ませてもいいはずだ。しかし、それができないのだ。仕事だから。自分の範囲ではないと放っておくのは無責任だから。無責任であることは罪だから。自分が罪人になりたくないから。石を投げられる側になりたくないから。
あまり考えがまとまらないまま書き始めたら、まとまらないまま終わるしかなくなってしまった。
1つ言っておかなければならない事があるとすれば、増田の悪態は溜まりに溜まったフラストレーションの噴出であり、障害者を傷つけるためのものというよりは、毒を吐き出さずにいられない類のものなんだろうということ。
それは現実を生きる障害者に向けられているものではなく、あくまで偏見の中の障害者というステレオタイプに向けられたものだから、当事者は無視していい。
YouTubeの「精神科医が語るサイコパス」的な動画で「サイコパスは器質的に他人の感情に同調できない。だから他人がどうでもいい」などと言われていて笑ってしまったのだが、その後の論調が終始「恐ろしいサイコパス」「どう対処するか」という感じでめちゃくちゃ恐れられていて、「そんなに怯えなくても」と少し思ってしまった。
他人をどうでもよく感じてしまうのは俺もそうだし、面白いなこいつと思い仲が良くなるタイプは大体似たような人の心が無い人間なので、多分俺たちはサイコだと思うのだが、別に他人を傷付けることや犯罪に興味があったことはない。どちらかといえば、「みんなこんな事で傷付くのか?」といううっかりの方をやりがちだった。今は普通の人がどう振る舞うか分かっているので、そんなことは(なるべく)しないが。
嘘を付いて他人を操るとか、魅力的に振る舞うというのは、別に良心の呵責があるかないかで行われるものなのか?俺は他人を操る事に罪悪感は感じないが、「他人なんか操ってどうするんだ?」と思うからそんなことはしない。それに他人だって俺に操られたくはないだろうから、その意思を尊重する。人が人を操るのは良心の呵責の問題ではなく、それによって得られる利益が欲しいからだ。俺はサイコだが地位とかカネに興味がないからそういう事をしない。興味があるならサイコでなくても人を利用するし、その気があれば誰にでも訓練次第でできるはずだ。
その攻撃性はサイコ器質の生み出すものではなくて、誰か(ここではサイコパス)を「われわれ」とは違う「あいつら」と命名することで排除してもいいものと集団的に定義する「普通の人」も、一般的に持っているものに過ぎないのではないか?反社会的なサイコはそれを「わたし」と「それ以外」でやっているだけだ。
俺の人の心の無い友人は、いいヤツ…とは言えないかもしれないが、面白くて信用できる連中だ。むしろ心で物事を判断しないからこそ信用できる。俺は時々、いざとなれば平気で徒党を組んで、心のままに「異端」を潰す、普通ヅラした人間どものほうが恐ろしいと思う。
当然、我々は気高く美しく文明的で理性的、「あいつら」は劣ったケダモノ
(この「我々とやつら」という言葉を生み出した社会学者だかが誰だか忘れてしまったので誰か教えてくれん?)
差別することで生存に利する部分があったのではないかという仮説もある
たとえば搾取する階層を作れば、自分たちはより多くの富が分配される=生存率が高くなる
ヨソモノは資源を奪い合う敵でもあり、攻撃的な感情を持ったほうが生存率が高くなる
そして男は攻撃性が高く社会性が低い(正確にいうと自分が攻撃する相手に対する共感性が低い)、
集団のトップに上り詰め集団を支配したいという感情が強い側の性、
これらが組み合わさった結果、男は「女を完全に支配したい」欲求が強く「男は女より格上である」という感情が強い
このためだと思うけど
年寄りにありそうな保守的な意見(「けしからん!」とか言うタイプ)と
インターネットに居そうな法を犯したり迷惑をかけない分には自由だろっていう若者的意見が混在してて
自分が賢いと思ってるからか罵り合うことはせずなぜか共存してる
あと、自分が後者だと思ってるくせにたまに前者みたいな保守的なPTAや姑みたいな事言い出す人とか(たぶん良いこと言おうとしてる)
どっちが良いという訳では無いが、大体サービスにおいてはどっちかに偏るので、両者が半々で指示されてる記事を見るとおもろいというか
ちなみに5chは後者よりも更に露悪的な「法を犯そうが面白ければOK」みたいな人とか、全部が皮肉であってスタンスはない人とか、揚げ足を取ることしか考えてない人とか色んな人居るが
はてな界隈ではとりあえずルールははみ出したら袋叩きにするという村的な空気があるのであまりはみ出したことを言う人は居ない気がする、論破すれば良いだけの人を見下してるというか
まあはてな村とはよく言ったもんだ
色んな人が居るという意味でね
サービスの住人ってもっと色がつくから村というより「あいつら」なんだよね
はてなは「あそこの人たち」が近い
生きづらい人たちが正しさに依存するんだろうね。
絶対に正しいことに従っていれば、間違っているのは、悪いのは、みんな「あいつら」だから自分は悪くない。生きづらくても、自分は正しいということを軸にすれば生きていられる。
そう思っていた時期があった。だから絶対に正しいことを探した。
私の頃はまだネットがなかったから宇宙物理の本を読んだりとかして、そういう方向で絶対に正しいものを探した。
でも、いつからかな。自分を許せるようになった。正しくない自分でも生きてていいって思えるようになった。
それから、生きづらさはなりを潜めて普通に息ができる生活が送れるようになった。
だけど、それは私が絶対に正しいことを探していた時にネットがなかったからそういう道を見つけられただけで、今はネット上に「絶対に正しい顔をしているもの」がたくさん溢れてるから、もし生まれるのがあと20年遅かったら、その絶対に正しい顔をしているものに依存してしまって、自分は正しいから生きていていいっていう間違った自己承認から逃げられない人生を送ったと思う。
私は正しくなくても生きていていい。もちろん正しくない他の人だって生きていていい。
だけど、自己肯定感が欠落してて自分が生きるのに理由が必要でその理由に自分は正しい価値観を持っているから、なんてのを選んでしまったら、当然自分が間違えることを認められないし、「間違えてる」他人は許せないし、それで攻撃的になるんだよね。
リベラルでも暇アノンでも、他人に対して攻撃的な人ってのは悲しい循環論法を持ってて、自分は正しい、だから自分と考えが違うあいつは間違ってる、間違ってるあいつを叩きのめす自分は正しい、みたいな感じで他人への攻撃が終わらない。
そこから降りる道はただ一つ、自分は間違えることもあるし、間違えても別にいい、ってことを認めるだけなんだけど、でも親でも恋人でもいいから他の人から「無条件の承認」を受けたことのない人はどうしても生きるのに理由が必要になっちゃって、それに正しさを選んじゃうことは修羅の道なんだけど、人って性善説で出来てるから正しく生きようとかって容易に思ってしまう。
私は正しくなくても生きてていい。あなただって正しくなくとも生きてていい。
正しさを盾にして身を守っている人に、この言葉が届けばいいなって思う。
最近だと理系学部に女性が少ない問題に関してもそうだし、りゅうちぇるの件だってそうだ。
それらの問題を語る奴らはみんな口を揃えて言う。
「自分以外の何か」が悪いと。
本当にそうなのか?
非モテユーモアみたいな風潮が女性を理系学部で過ごしにくくさせてると言うなら
特に沢山の男性差別エントリ・ブックマークで生まれているはてなでさぁ!
りゅうちぇるの件…あの人が生きるのに辛さを感じるネット世論に
トランスジェンダー含む多様な性のあり方に対して無理解なコメントがはてなでどれだけ生まれてきた?
(言っておくが増田で問題提起してる人達の事も言ってるんだよ。自分は本当に悪くない側なのかい?)
そういう事情がある事なんて無視して皆平気で「自分ではないあいつら」は問題だって言えるんだ
何でそこで「私達が」問題なのかもしれないと言えないんだ
「そんな事言ってるお前はどうなんだ?」って言うやつもいるだろう
最近は自分ははてなブックマークのコメントはあんまり書かないようになったしスターもしていない
それを外野の視点から「あの人ら主張は全然噛みあってないけど、オタクのお色気を社会から排除するために連帯してるんだな」って認識してしまう事って、そんなにおかしい?
それは全然おかしくないよ。でもな、主張が噛み合ってない人達があるイシューについて意見を同じくしてるときに、ただその事実をもってその全体を「嘘つき」と呼ぶのは
敵認定した相手にだけ「嘘つく」の適用基準がガバガバすぎるダブルスタンダードを批判されてるのに、何が「『表現規制派』という括りが適切に思える程度には連帯してるよね?」だよ。
いいか、お前の言ってることはこういうことだよ。
①「あいつら」は『表現規制派』という括りが適切に思える程度には連帯してる
これ、端的に言ってクラスの底辺に2〜3人いるじゃん。お前、よくそんなんでこれまで他人の国語力を云々してきたよな。大丈夫か? メモリーのストック尽きてるのか?
言い方って大事だよ
何かに抗議するにしても、もしも温和な方法で解決できれば余計な争いが生まれない気がするのだけど
まあわかる、トーンポリシングを問題にするときの理由の一つに「温和な言い方では黙殺される」というものがある
「毎回同じ人に名指しで抗議しているわけじゃないでしょう?」ということを言いたい
そりゃ言う側は毎度毎度「あいつら」に対して「何度同じことを言わせるんだよ!」と思っているかもしれないのだが
言われた側は名指しで指摘されるのは初めてかもしれない
言う側は何度も言ってきたことでうんざりしているってのもとてもよく共感できるんだが……
名指しで言われた側が「ああそうか、確かにご指摘の通りまずかった」となる可能性はあるだろうと
言う側としては名指しで抗議される前に襟を正せと思うかもしれない
だがこうも思う、「いつまで大声を上げなければいけないんだろう」と
遠くない未来に「もう黙殺されることは少なくなったのに、あの人はいつまでたっても過激な抗議の仕方をやめないんだな」となるかもしれないと想像する
その未来は逆にいうと、まだ抗議されるべき問題は残っているが、温和な抗議でなんとかなる世界ということだろう