衆議院選挙が終わって数日が経った。
しかし同時に、「民主主義とは何か」を考え直させられる出来事でもあった。
今回、先の参議院選挙から心惹かれる候補者がおり、その方が衆院選でも立候補されることになったとみつけた。
何を行えばいいかわからない、なので決起集会から参加することにした。
ただ、私はこの政党の政策すべてに賛同しているわけではない。たとえば消費税ゼロを謳っているが、現実的な財源確保として不可能だろう。VAT対象品目の見直しや税率の段階的引き下げならまだしも、と思う部分は多々ある。それでも、この候補者個人の姿勢には共感していた。
会場には早めに到着した。主催者席に座る候補者は、ネットで見るより穏やかで、普通の人に見えた。もしかして別人では、と疑ったほどだ。
ところが決起集会が始まると、徐々にあの雰囲気が戻ってきた。明確な目的意識と、人を飽きさせない話術。理路整然とした言葉運び。ああ、本物だ、と少なからず感動した。
開始ギリギリに入場を諦めかけていた人々を掻き分け、個性的な格好の女性が入ってきた。顔見知りらしき女性と話した後、床に座り込んだ。満員のため床に座る人は他にもいたので、これ自体は仕方ない。冬の寒い日だったが室内は適温だった。
ところが彼女には暑かったらしい。会の進行も気にせずタンクトップ姿になり、ストレッチを始めた。候補者が演説している最中である。周囲の人々が一瞥し、見て見ぬふりをし始めるのが分かった。知り合いと見られる女性も、誰も諌めることはなかった。
これは私にとって異様な光景だった。国の立法府に人を送り出そうとしている場で、自分の快適さを優先する振る舞い。それを制止できない支援者たち。人は自由であるべきだが、この状況への違和感は拭えなかった。
候補者と支援者の話は感動的で思慮深く、ますます応援したくなった。だが同時に、この非社会的行動とそれを容認する雰囲気に、この集団に身を置くことへの躊躇も生まれた。候補者は心から応援するが、支援者の集まりには居心地の悪さを感じる。党内の年齢層が高いせいか、仕組みがアナログなことも気になった。
次に応援に訪れたのは、大きな駅前だった。党首と候補者が揃って演説するという。選挙戦も中盤、どんな話が聞けるか楽しみだった。
党首の主張は理解できる。税金の使途変更、防衛費拡大への反対、雇用の安定化。実現すれば社会的負担を減らせる政策だ。
しかし言葉選びが気になった。この街はかつて若者の街と呼ばれ、今も感度の高い人々が集まる場所だ。新しいものを好み、洗練された言葉を使う。
その駅前で「○○はいいでしょう、みなさん、どうですか?」という呼びかけ。若い世代なら思うだろう。質問形式で議論を誘導するのはレトリックとして不誠実ではないか、と。信念があるなら素直に政策を語ればいい。同意を求める言葉は、自信のなさに聞こえる。
耳を疑った。ガビーンとは何だろう。長年のキャリアを持つ政治家が、なぜこの場にいる人々に届く言葉を選べないのか。聴衆に訴えかけるのではなく、自分の話したい言葉だけを語っているように見えた。
この党首は東大を主席で出て司法試験に合格し、若くして党を任され、弱者の側に立って問題解決に取り組んできた人だ。テレビ討論でもしっかり話される。政治家として評価されるべき実績がある。
それなのに、この演説は何だろう。データの並べ方も、相手に噛んで含めるような話し方も、聴衆を低く見積もっているように感じられた。
この区は常に23区の平均給与トップ3に入る。日々プレゼンをし、人を説得して予算を獲得する訓練を受けた人々が多い。党首の話し方は、そうした聴衆には響かない。
後ろで候補者が不安そうに手を振っている。聴衆の半分は政党ではなく候補者目当てだろう。
党首がようやく話を終えたと思ったら、スタッフが「まだ話し足りない」とマイクを戻した。聴衆は候補者を見に来ているのだ。壇上の党首、スタッフ、候補者の間で意思疎通がうまくいっていない様子が見て取れた。
候補者の演説が始まったのは25分後だった。比例候補とはいえ、若者に届く言葉で話せる候補者の時間が、二世代上の党首の演説に削られたのは残念だった。
それでも、その足で区役所に向かい、候補者の政党名を書いて期日前投票した。
選挙運動平日最終日、金曜の夜に仕事が早く終わったため、もう一度候補者の演説を聞きに駅前へ向かった。
今回、リベラルな政党を心から応援したいと思った。ただ投票以外に何ができるか分からない。勤め人なのでポスティングの時間も取れない。せめて聴衆「モブ」の一人として場を盛り上げられればと足を運んだ。
だがその度に気になったのは、支援者の排他的とも見える行動だった。
この日、自治体の首長と候補者と同じ政策を掲げるNPO代表が応援演説に来ていた。聴衆は80人もいないように見えたが、特記すべきは15人前後が巨大なスローガン入りの旗を持っていたことだ。個性的な格好をした人が多い。
でもさあ、80人くらいだよ。ここにいるの。そこの20%が旗持っているわけ。
遠目から見て、異様な光景。デモ会場なら分かる。他党でも旗を持つ人はいる。ただ大抵は小さな応援旗だ。少ない人数に大漁旗並みの旗を持つ人が20%もいる状況は、書かれたスローガンが正しくても、外から見て近寄りがたい。
あの集団を見て、楽しそうだから仲間に入ろうと思う人がいるだろうか。むしろ威圧感を与えているのではないか。
遠目から候補者の演説を聞いた。掠れた声で、それでも変わらない人を惹きつける話し方。前議員時代に力を入れた戦時中の事故の問題、労働問題、あらゆる格差問題。それは意味のある言葉だった。一人でも多くの人に届いてほしいと願った。
大規模政党から見ればメジャーではない政党の些細な敗北かもしれない。しかし多様な問題提起をし、さまざまな状況に置かれた人々の声を国に届けられる人を、有権者の一人として国会に送れなかった。今、とても気持ちが沈んでいる。
全ての人に優しい社会という理念は大事だし、私もその一員でありたい。
直近の選挙でリベラル側に立つことで、リベラルが票を増やせない根本的な問題に気づいた。
理念は正しくても、それを広げる方法に課題がある。他党の主張を支持する人もいるだろう。だが節目の場では、協調と他者への尊重が必要ではないか。政党側にも支援者側にも。
共鳴する仲間を増やす必要がある時に、外から人が入りづらい雰囲気を作る古参の態度は何なのだろう。
学生時代、キャンペーンスタッフのバイトでチラシ配りをしていた。人の目を見て動きを少しシンクロさせると受け取ってもらえることを学んだ。この政党のスタッフは高齢の方が多く、ぶっきらぼうにチラシを押し付けるように渡していた。チラシに書かれた言葉を届けるというより、チラシ配りという役目だけをこなしている。相手の行動を見て判断し、関心のある素振りを見せなければ、誰もチラシを受け取らない。
視覚障害者用の誘導ブロックに立つ支援者もいた。「誰かが来たらどけばいい」ではない。そんな配慮もできない人が支持している、と候補者の評価まで下がることに思い至らないのだろうか。
若い有権者はチラシではなく、候補者のホームページを見る。だがそのホームページも、パワーポイントで作った画像を貼り付けた雑然とした作りで、政策の深掘りも整理もされていない。フォントサイズもバラバラでデザインに落ち着きがない。
候補者は最初の決起集会で、この政党だからこそ活動ができたと感謝を述べていた。その言葉は本心だろう。だが同時に、支援者たちの善意が、意図せず新しい人々を遠ざけている現実がある。
私自身は無党派層であるが、今回リベラルの候補者を追いかける中で、いくつかの問題が見えてきた。
理念を広げたいのであれば、まず支援者の側から、初めての人が入りにくい雰囲気を和らげる必要があるのではないだろうか。
掲げているスローガンは本来、社会全体に向けた言葉のはずだが、いつの間にか仲間同士の確認の言葉になっていないだろうか。
さまざまな立場や温度感の人が参加できる作法になっているのか、改めて考えてみる余地があるように思う。
どのような態度の人であれ、どの立場の人であれ、まず同じ社会の構成員として尊敬の態度を持って扱う姿勢が必要ではないだろうか。
自分たちの正しさを語るだけでなく、その正しさが現実の社会にどのように作用するのかを、現在の社会を前提に説明してほしいと感じた。
たとえ他党であっても、支持される理由があるはずであり、その点を理解しないまま批判すると、力強い、信頼できる言葉を届ける前に、結果として有権者を遠ざけてしまうのではないか。
これあの政党のことかな。