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< ■ |anond:20260204191407 >

2026-02-05

自分らしく生きればいい。」

この言葉を向けられるとき、私はいつも一瞬、言葉を失う。

励ましなのだろうとは思う。善意であることも、たぶん疑ってはいない。

それでも、その言葉が私の中にすんなりと落ちてきたことは、一度もない。

自分らしく。

その「自分」とは、いったいどこにいるのだろうか。

自分というものは、ひとりで完結して存在できるものではないのではないか、と私は考えてしまう。

人は誰かに呼びかけられ、視線を向けられ、何らかの感情を向けられることで、はじめて自分自分として意識する。

好意であれ、嫌悪であれ、無関心でなければそれでいい。

誰かの世界の中に、無視できない存在として位置づけられたとき、ようやく<私>は輪郭を持つ。

<私>は、常に「他者にとっての他者」として現れる。

のものでもない純粋自己など、少なくとも社会の中では、ほとんど意味を持たない。

そう考えると、「自分らしさ」とは、きわめて不安定概念である

それは、自分がこうありたいと願う自己像と、他者の中で形作られている自己像とが、かろうじて重なっている状態に過ぎない。

自分らしくいられないと感じるとき、その二つの像はずれている。

そして多くの場合、そのズレは、自分一人の内側だけでは修正できない。

自分が変わらなければ、他者の中の自分は変わらない。

しかし変わろうとするたびに、今の自分否定することになる。

そのどちらを選んでも、傷つかずに済む道はない。

自分らしく生きる」という言葉が、決して軽やかなものになりえない理由は、たぶんそこにある。

それは完成された状態を指す言葉ではなく、調整し続ける過程名前なのだ

しかも、その過程幸福と一致する保証はどこにもない。

何も考えず、与えられた役割をなぞるだけでも、生きていくことはできる。

しろ現代社会では、その方が穏やかで、安全である場合すらある。

それでもなお「自分らしくありたい」と願うことは、自ら進んで複雑さを引き受けるという選択に近い。

から私は、この言葉他人に向けて使うことができない。

自分に向けるのでさえ、ためらってしまう。

その言葉要求する重さを、知ってしまたからだ。

自分らしく生きればいい。」

もしそれが本当に可能だとしたら、それはきっと、誰かに軽々しく勧められるような生き方ではない。

少なくとも私には、そう思えてならない。

Permalink |記事への反応(0) | 09:04

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