マイノリティを排除しない、人を傷つけない、多様性を尊重する、という優しさにあふれた教育を受けてきた若い世代が、今、政治的なリベラルに背を向けている理由。
心根の部分では、「自分は善人でありたい」というマインドが幼少期から染みついているにもかかわらず、リベラルを名乗る政党や言説に対しては拒否反応を示すことが多いのはなぜか。
おそらく、リベラルな考え方そのものが嫌いなのではなく、リベラルを名乗っている人たちが嫌いなのだろう。
何かと対立を作り出し、ちょっとした意見の相違でも攻撃的になり、妥協できず分裂する。そうした政治的抗争の渦中に巻き込まれたくないし、マウントを取って正しさを説法する側にもなりたくない。
つまり、既存の政治的な勢力に回収される形になるくらいなら、リベラルのポジションを取りたくない、という感覚が働いているのではないか。
一方で、同じやさしさを高齢者世代に向ける気にはなれない。むしろ、そこにはあきらめにも似た無力感が漂っている。
年金問題、社会保障費、医療費負担など、少子高齢化のツケがこれまでにない重さで若い世代にのしかかっている今、「善人ではいられない」現実を突きつけられている。しかし、その問題に正面から向き合うことは、心理的にも負担が大きすぎる。
高齢者問題に正面から向き合わない代わりに、そのストレスを解消するために、目の前の誰かにはとても優しくする。そうした形で、自画像のバランスを取っているのが、今の若い世代の平均的な姿に思える。
このような社会的ストレスに対する心理的な補償作用は、「高市仮病で日曜討論逃亡」→「リウマチ患者に対する想像力もないのか」といった反応に象徴的に表れているように思えた。
そこには、「善人でありたい」という心情があふれんばかりに表出していると同時に、既存の政治的リベラルに対する敵意が、同時に噴き出しているようにも見える。
よく考えると、高市の言説は、他党の政策を細かく攻撃するというより、「私はこう考える」「これは国益だ」と自分の立場を打ち出す型に近い。 「差別だ」「非人道的だ」と道徳で相...