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< BBAの赤ちゃん言葉がキ... |anond:20251114230813 >

2025-11-15

木登り

子どもが生まれる前は、危険とか安全なんて、少し考えればだいたい片がつくと思っていた。

働いて生活を安定させて、リスクの高い選択を避けて、周りと大きく外れなければ、人生はまあまあ平穏に進む。

そんな感覚で生きていた。

今思うと、それは“気楽な合理主義”みたいなものだった気がする。

 

ある日、うちの五歳の息子が、公園の木に登ろうとしていた。

「おい、どうするべきかな」と考えているうちに、気づけば思ったより高いところまで登ってしまっていた。

そこから落ちれば、最悪命を落とすかもしれないし、良くても大怪我だろう──そんな想像が頭の中で勝手に動き出す。

 

その瞬間に、自分が親になってからずっと抱えていた“合理の揺らぎ”みたいなものが、一気に表に出てきた。

危ないから降ろすべきなのか。

でも、危険を避け続けるだけでは強く育たないのではないか

代わりに安全スポーツで満足させる方法もある。

しかし、自然の木というのは何かしら特別意味を持っている気もする──。

そんな考えがぐるぐる回ってまとまらない。

 

しかも気づけばスマホで調べている。

“木登り 怪我 確率

“木登り メリット デメリット

ChatGPTまで開いて、都会と田舎環境差とか、経験の有無が性格にどう影響するかとか、調べれば調べるほど深みにハマる。

 

子どものいない友人に話すと、

「そんなの、どっちでも良くない?」

とよく言われる。

言ってることは分かる。

ただ、こちらとしてはその“軽さ”がどうしても引っかかる。

危険かどうかだけじゃなく、“もしもの最悪”が具体的に思い浮かんでしまうからだ。

この感覚は、説明して理解はされても、たぶん実感としては共有されにくい。

 

木登りの影響なんて、人生全体から見れば本当に微々たるものだ。

研究だって結論割れるし、どちらにしても大きな差が出るわけじゃない。

でも、微々たる差だからどうでもいい、とはなぜか思えない。

自分の子どもが怪我をするかもしれない、その一点が妙に重い。

理屈では処理しきれない種類の重さだ。

 

そういう変化は、生活の細かいところにも出てくる。

昔は、安い納豆うまいだけで満足していた。

今は、高い店で良いものを食べていても、頭の片隅に“帰ったらあいつ家の前の木に登ってないだろうな”という心配がついてくる。

価値観が変わったというより、人生の重心が勝手にずれたのだと思う。

 

木登りを許すか禁止するかは、結局のところ各家庭の価値観しかない。

危険をどこまで許せるか、どこまで怖がるか。

合理的説明できる部分もあるけれど、最後最後は「自分がどんな生き方大事にしているか」というところに戻ってくる。

 

から他人議論しても噛み合わないことが多い。

子どものいない人は「もっとシンプルに考えれば?」と言い、

子どものいる人は「それがシンプルに割り切れないんだよ」と返す。

どちらも間違っていないが、そもそも見ている“風景”が違う。

 

木登りひとつでこんなにも考えてしま自分不思議に思えることもあるけれど、

結局のところ、親ってのは毎日少しずつ、

自分はどこまで許せるのか」

「どう生きたいと思っているのか」

その境界線を試されてるんだろうと思う。

Permalink |記事への反応(0) | 12:04

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