これは大層な話じゃない。理由は単純で、不条理だと感じるから。京大まで出た。十代から二十代前半をほぼ勉強に突っ込んだ。睡眠も遊びも切り捨てて、可能な限りの時間を机に投資してきた。受験というゲームで勝ちを取りにいくために、全てをそっち側に寄せてきた。結果だけ見れば、世間的な評価は一応上。履歴書に書けば強い札だし、社会に出た瞬間に目に見えない加点が働くこともある。そこまではいい。
ただ実際の人生はそこからが長い。京大ブランドは、持っているうちは強いと思い込んでいるけど、微妙につまずいた瞬間にひっくり返る。京大出てるなら当然できるだろ、という圧が常について回る。言語化されないまま漂う期待値が、ずっと首を締める。こっちは普通に苦しんでいるだけなのに、周りの空気は普通を許さない。中途半端でいることが許されず、落ちた扱いになる。
この状態で生きている時に、MARCHや関関同立あたりの男が、普通に人生を楽しんでいる姿を見ると、胸の奥がザワつく。別に彼らは悪くない。普通に働いて、恋愛して、結婚して、子どもができて、週末は友達と遊んでいる。それを見て、素直にいいな、と思える時もある。でも、同時に、なぜ俺はこんなに苦しいのに、努力量がそこまで多くなさそうな人たちは普通に幸せを満喫しているんだ、と感じてしまう。
本当は嫉妬に近い。けれど嫉妬というより、努力に対する見返りが釣り合っていないという怒りの方が近い。こっちは何年も積み上げて、今も足掻いている。なのに幸福度の総量が、彼らと比較して高いかというとそうでもない。むしろ不安定で、心は擦り切れていく。じゃあ努力とは何だったのか。頑張れば良くなるという信仰で走ってきたからこそ、裏切られた時の落差がえぐい。
努力して手に入れた札は、勝利の証明であると同時に、失敗の罰にもなる。京大卒という事実は、次も勝たなければ意味がない。普通のポジションにいるだけで、落ちた扱い。日常でつまずくと、学歴の札がむしろ重荷になる。努力できるんだから、もっと頑張れよ、と言われている気がする。自分で自分を責める癖も加速する。
だから俺は、安心して話せる相手が限られる。東大卒や京大卒で、人生がうまくいっていない人。そこにしか安心感がない。頑張った上で負けているという経験が共有されている。敗北から生まれる変な静けさや、自分を笑う能力が似ている。そういう人とは会話がスッと通る。同じ種類の痛みを知っている。勝っている東大生はまた別枠だが、くすぶっている東大生や京大生は、落ち合える場所がある。
一方で、学歴レンジが少し下になると、前提が噛み合わなくなる。俺が人生しんどいと漏らしても、京大なんだから大丈夫だろ、と返される。この言葉は傷つける意図はないと分かっていても、こっちの状況は、持っているからこそ苦しいという構造にある。そこを理解されないと、悲しいとかじゃなく、ただ距離が生まれる。学歴で人を線引きしている感じにも見えるかもしれないが、単に見えている景色が違う。
世界は平等じゃない。身長、家、金、学歴、性格、運。全てが混ざって人生の位置が決まっていく。綺麗なゲームなら順位も報酬も正しく整列するが、現実はめちゃくちゃだ。頑張っても報われないことは普通にある。むしろ頑張ったせいで身動きがとれなくなる。高い場所を狙うほど、落ちた時の痛みは深くなる。普通でいいと言われても、普通が許されない世界に来てしまった以上、簡単には戻れない。
俺はこの不条理にずっと腹を立てている。努力した側が苦しみ続けて、努力していないように見える側が楽に生きているように見える状況に対して、納得できない感覚がある。これは正しいかどうかではなく、ただの心の反応。みっともないし、余裕ないなとも思う。でも消えない。
この歪みは、もう俺の一部になっている気がする。努力してきたからこそ拗れ、積み重ねたせいで曲がり、抜けなくなった。これを抱えて生きるしかないのだと思う。上に行こうとして落ちた人間には、分かる部分がある。だからこそ、同じ傷を持つ人としか深く話せない。それだけの話。
世の中には毎日努力しててもMARCHにすら入れない奴等がおるんやで