(粘液がダメなら切った爪とか抜けた髪でいいんだけども)
ナメクジは歩く。歩くとその後に粘液がかわいた、道のような跡ができる。
動いたあとの粘液なんて勝手にうまれてくるので本人はゴミのようなものだとおもっている人が多い。
しかしそのゴミからいろいろなことを読み取れる他ナメクジがいる。
他ナメクジからするとキレイな粘液は自分につくれないものなので貴重品である。
寂しそうだとかとにかく迫力があるとか、色合いを読み取れておもしろいのである。
その当時はそんなことをおもっていたかもしれないし思っていなかったかもしれない程度で覚えていない。
結局は見せるために書いたわけでもない(かろうじて空や水滴が見てくれたらよい)し
キレイといわれて騒がれるのがいやなら土の上だけ歩いて粘液を外に出さないこともできる。
とにかく自分が歩いたあとのナメクジ粘液がそういうヒョウカをうけることもあるんだなと思うしかないものだ。
そのうちナメクジ界のごく一部にはヒョウカの高い粘液をみて自分もそういうふうに歩こうとおもうナメクジがでてきた。
ナメクジは喰って寝るだけではないんだといわんばかり、
徒弟制度で代々キレイな粘液をつくりだしては体力を消耗して早死にしていく。
一ナメクジ分のナメクジ生を終わりかけたある年老いたナメクジからみると、
わかいナメクジたちのようにあれは必見だとかあなたも感想を言えばいいのにとかおもうこともない。
あるところに2匹のナメクジがいる。
Aナメクジは生活の合間におもしろい銀色の粘液をささっと紡ぐが他人に見せたくない。
BナメクジはAナメクジの粘液のきれはしをみつけてダイヤモンドを見つけたように喜んだ。
AがBに話しかけたのをきっかけにすべての粘液をみせてもらうことができるようになった。
そのうちBナメクジは粘液を出しやすい食べ物を手に入れられる環境に住んでいるので
Aナメクジに近いとおもえる粘液(といっても長さだけで、色は金色だった)をはじめてひねりだすことができた。
Aが「公開された粘液のサンプルは見た」とつげるとそれだけでBは喜んだ。
でもAナメクジはBナメクジの粘液についてあまり好意的な評価をしないのである。
Aは「見たよ。それ以上の評価を求められても困る」といっていた。
根本的にAは、AやBのつくる粘液には、なにも価値を認めていないのだから当然だ。
だから言葉を補うとしたって、「A自身にはわからないために意味(感情面)は全くよみとれないが、
見た目でいえば○○の部分がかけているから均一に歩けばもっとキレイな粘液になるかもしれない」という技術的な指摘にとどまるのである。
粘液に含まれる感情的な色については「わからない」の一点張りだった。
AとBは一匹のナメクジとしてみると縞のぐあいや好きな葉っぱなど類似性が高いので、
友人としても希有な絆を結ぶことができた。
Aにとっては(自分で始めた話のくせに)Bの相づちがAとあまりにもかけはなれていて、
Bとも絆をきってしまおうかとおもうこともあるようだ。
たぶんAはA自身にも、他の粘液にたいしても、感情が無いわけではない。
粘体の奥にこじれた感情をおさめているのだが、それが自覚される日はもっとずっととおい。
BはAにたいしてなるべく礼儀正しくマウントしないようにしているが、
BはAになるべくみせないようにしているが、実は、家族をひとかかえつくってもうすぐ孫ナメクジもうまれる上に
それでいて趣味の粘液だけで評価を受けようと粘液即売会に打って出た。
Aはそのことにあまり楽観的になれないでいる。
AがBのきっかけになるようなダイヤモンド的な粘液をつくっていたにもかかわらず、
自身の粘液をまだすぐ隠したり消すことを考えると、
本ナメクジには全くもって、筋の通った、わかりやすい感情なのだろう。
しかしそれは、ほんとうのところ、○○ではなく××であるべきだ、とBは思う。
どちらにせよ、Aのナメ生の欠落を仮埋めできるのは年寄り化けナメクジばかりで、
機械的に「まっとう」な反応を示すユビキタスナメクジも生まれてるけれど、Aにとっては充分な相談相手ではない。