人を恨むのに、二十年もかけるというのは、よほどのことだと思う。
思いつきの怒りなら三日もすれば冷める。
けれど、二十年。
恨みを温め続けるには、燃料がいる。
それが金だったのか、親への思いだったのか、誰にもわからない。
けれど私は思うのだ。
ここ二十年の世の中は、悪くなかった。
夜職の人のお世話になろうと思えばなれる。
それでも、誰かを追い詰めてしまうのは、たぶん「自分の物語」を生きられなかったせいではないか。
兄が死に、母に裏切られ、仕事も続かない。
それは「中年クライシス」という言葉で片づけるには、あまりに生々しい。
ある日ふっと、何かが切れてしまうのだろう。
この人は「キレる45歳」だったのかもしれない。
社会のせいではない。
仕事が続かないのも、心が安定しないのも、
ただ、思う。
たとえば宗教のような、誰かに見守られているという感覚があったなら。
母親はそれを選んだ。
それが、せめての安定だったのだろう。
宗教というのは、怖いけれど、人を支える力も持っている。
月に二十万稼いで十五万を寄付したとしても、
残る五万円で暮らしながら、教団の人と顔を合わせ、
それで心が保たれるなら、決して悪いことではない。
それは、推し活にも似ている。
歪んだ推し活、と言えばそうだが、
それで誰も傷つかないのなら、それでいい。
人は誰でも不安定だ。
裏切られないものとして信じていた。
でももし、それができなかったなら。
そんなふうに、時々教団に寄り添いながら、
すべてを捧げるのではなく、少しずつ、
冷めたお茶をすすりながら思う。
人は結局、何かに帰依しないと、生きていけないのかもしれない。
そんなふうに生きていけたら、もう少し、
誰も恨まずに済むのかもしれない。