元増田です(初めて使ったので用法があっているかわかりませんが)
この日記を書いた時点で何かついた反応に返信する気はなかったのですが、あまりに運命を感じたので返信させていただきます。
というのも、わたしは数学科の学生で、とくに公理や演繹といったことにとても興味があり学んでいるようなひとなのです。
数学的な論理学(数理論理学)を学んでみて今思っているのが、数学における「演繹」なんてものは、ほかの思考と比べて、まったくもって絶対的な優越性があるとはいえない、ということです。
たしかに数学は公理から導くという意味で厳密かつ客観的だと思われるかもしれません。しかしその「導く」ということの正しさは何によって保障されているでしょう?おおくのばあい、それはあくまで「数学者同士の共通認識」でただしいとされているから、ということになります。
結局のところ数学の正しさも帰納的(当然数学的帰納法のはなしではありません)な「信じる」対象に過ぎず、真に正しいという保証はないのです。
わたしは数学の証明の正しさを追い求めて証明論という分野を学びました。
証明論では、演繹の根本となる推論規則を設定し(設定の仕方等でいろいろな種類があります)それが多くの数学の証明を記述できること、つまり数学の多くがその推論規則を使って導かれていることを示しますが、結局のところその推論規則がただしいことは示していないのです。
さらにいえば、「数学の多くがその推論規則を使って導かれていることを示した」ことじたい数学の考えに依って示しているわけですから、堂々巡りだ、という批判もできます。
そういった論理自体の正しさ、というのは数学の範疇を超え哲学の領域に入ります。
結局のところ数学でも本質的には数学的存在の実在性とか、論理自体の正しさなんかは「信仰して」進んでいくしかないものなのです(有限・無限問わず数学的実在を信じずに数学をすることは可能ですが)。
同じように、あなたの仰る「公理は人間の存在を仮定せずに存在し得る」というのは信仰です。
自分の感覚に寄り添えるようになった 結局何処まで行っても正しさには辿りつけない なら今居る此処で、周りのうつくしさにゆったりと視線を向けていたい 皆んなが当たり前のよ...
無知な人間ほど相対主義・社会構築主義を信じて「人それぞれ」と言う もっと賢い人は数学を学び、客観の存在を学ぶ
数字が客観とかお前エアプだろ。
数学は客観だぞ 人間が存在せずとも、公理が一定なら演繹によって同じ体系が生まれる 「その公理を人間が設定したじゃないか」というのが相対主義者、公理は人間の存在を仮定せずに...
元増田です(初めて使ったので用法があっているかわかりませんが) この日記を書いた時点で何かついた反応に返信する気はなかったのですが、あまりに運命を感じたので返信させていた...
老眼?数字じゃなくて数学な👍
「数学は発明か発見か」なんて議論は世界中でされてるのに、「エアプ」と言っちゃうお前がエアプだろ😂