Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録
< anond:20250824163544 |anond:20250824163156 >

2025-08-24

安藤憲法季評に対する疑問

安藤馨氏の8/13の憲法季評が話題になっている。

憲法15条3項は普通選挙を定めているが、合理的判断能力の有無に無関係選挙権を等しく賦与する民主政には、残念ながら、有権者の不合理な事実認識によって政治的決定が左右されるという、政治的無知への脆弱性問題がある。政治的選択に関連する事実知識判断能力に応じて、高能力者には複数票を与えるとか、低能力者には選挙権を与えないといった政治制度は智者政(エピストラシー)と呼ばれ、政治的無知の影響を免れやすいとされる。選挙権行使国民一般に重大な影響を与えるのだから医療行為のように一定能力水準を満たした者にのみ許されるべきだと考えてはいけないのだろうか。我々は拙劣医療さらされない権利を有するがごとく、拙劣政治さらされない権利を有してはいないのだろうか。だが、それでもなお多くの政治理論家は智者政を斥け、誰もが政治参加しうることの価値を重視し、民主政擁護する。

既に多くの人が指摘している通り、「安藤氏が智者政を推奨している」という批判は明らかに誤読である。「それでもなお多くの政治理論家は智者政を斥け、誰もが政治参加しうることの価値を重視し、民主政擁護する」と、智者政に否定的な一文があるからである上記引用部分における、この否定的な一文の直前までの文章は智者政の要約に過ぎず、安藤氏が智者政を擁護しているわけではない。

しかし、参政党が政治参加の観点から高い評価を受けるべきことを指摘しつつ、以下の最後結論に至るのは不可解である

参加の価値合理性価値を打ち負かすに足るか。私は果たして選挙権を有するに値するか。現代民主政の実情が否応なしに突きつける難問である

なぜ不可解かといえば、第一民主政擁護論の主要な根拠に触れていないこと、第二に民主政がもたらしうる非合理性を抑止する諸制度が既に現代民主主義に組み込まれている点にも触れていないこと、これらの二点に依る。これらの二点に言及せずに上記のように「民主政は智者政を打ち負かせるのか」と問題提起しても、論理が飛躍しているように思われる。

第一の、民主政擁護論の主要な根拠とは何か。論者による意見の違いは大きいが大まかにいえば、「何の政策が正しいかを、究極的には合理的議論によって決定できない」にも関わらず、民主政は決定された政策正当性担保できる点にこの制度擁護されるべき理由がある。(以下、便宜的に「何が正しいかを究極的には合理的議論によって決定できない」性質を『合理的議論非決定性』と呼ぶ)。民主政はどのように政策正当性担保するか、それは民主主義という手続き正義担保するのである

合理的議論非決定性を理解するために、合理的議論決定性(=何が正しいか合理的議論によって決定できる)の具体例を見ていこう。例えば安藤氏が言及した医療は、何が正しいかを究極的には合理的議論によって決定できる。「何故、この病気Aに対して治療法Bを行うのか」と医者に問えば、「複数治験比較した結果、この治療法Bが最も高い治療成績だと確認できたから」と答えるだろう。医療における合理的議論とは治験比較であり、医療関係者はこれによって何が正しい治療かを決定できる。

そして、合理的議論決定性がある領域で、議会制民主主義を行っても無意味であろう。選挙当選した国会議員多数決で「病気Aに対して治療法Bが有効である」と決定しても意味がない。

しか政策には合理的議論決定性がない。例えば、先の選挙で「給付金か、減税か」が論争になったが、どちらの政策が正しいか合理的議論のみによって最終的に決定することはできないはずだ。もちろん、それぞれの政策には一定合理的根拠があるが、医療における治験比較検討のような決定的なものではない。そうすると、「給付金か、減税か」の決定の正当化は、議会制民主主義に依る他ない。政策決定をした後に記者に「なぜ給付金(あるいは減税)を実施するのか」と問われれば、最初首相はその合理的根拠説明するだろうが、もしも記者が「それは何故?」と5回ぐらい繰り返したならば、その究極的な正当性根拠として「選挙当選した国会議員多数決で決めたから」と首相は答える他ないだろう。

まとめると民主政は、民主主義という手続き正義によって政策決定の正当性担保することにより、政策決定における合理的議論非決定性の問題解決(あるいは回避)する制度であるといえる。

もちろん、政策には合理的議論決定性がないからといって、合理的議論のもの政策決定の過程存在しないのではない。安藤氏の不可解さの第二の根拠として挙げたように、民主政の非合理性を抑止する諸制度が既に現代民主主義に組み込まれている。具体的には、国会議員は公開の場で審議せねばならず、有権者に幅広く報道される。議事録自由に閲覧できる。当然、議員合理的議論しなければ、有権者の支持を失い次の選挙落選するだろう。加えて、三権分立法治主義参政権とそれに密接に関連する基本的人権(表現の自由など)の手厚い保護が、民主政による非合理を抑止するように働いている

さて、安藤氏の論考に戻ろう。同氏は「参加の価値合理性価値を打ち負かすに足るかもしれないし、打ち負かすに足らないかもしれない」と示唆し、それが「現代民主政の実情が否応なしに突きつける難問である」と問題提起している。しかし上で述べたように、現代民主政には非合理性を抑止する諸制度が広範に組み込まれているのに、なぜこの点に言及しないのか。そして、そもそも政策には合理的議論非決定性がある以上、参加の価値合理性価値を当然に打ち負かすはずである。打ち負かせないならば政策には合理的議論決定性が存在することになるが、そうであるならば安藤氏はその存在を論証すべきであろう。そして、政策における合理的議論決定性が存在することを論証したならば、もはや政策決定を民主政で行う意義もなくなる(少なくとも大幅に薄れる)のだから、「現代民主政の実情が否応なしに突きつける難問である」と問題提起も不要になる。

Permalink |記事への反応(0) | 16:39

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

記事への反応 -

記事への反応(ブックマークコメント)

全てのコメントを見る

人気エントリ

注目エントリ

ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp