小説家目指してる人のSNSとか見ると、「公募の〇次選考通過!」とか書いてるよね。でも、一般人からすると「それってどれくらいヤバいの?」って思うじゃん?ぶっちゃけ、公募の選考ってめっちゃ狭き門なんだよ!
まず、公募ってのは出版社とかが開催する新人作家発掘のコンテスト。応募数は数百から、大きいのだと数千とかザラ。で、一次選考通過ってのは、その中から上位10~20%くらいに残ること。めっちゃ頑張った原稿がやっとスタートラインに立った感じ!二次選考はさらに絞られて、上位数%とか。最終選考まで行くと、もうトップ1%とかのエリート! でも、受賞するのはその中の1~2作品だけ。ハンパない競争率!
だから、一次通過でも十分自慢できるし、最終選考とかならガチでスゴいってこと。次見かけたら、「おお、マジすげえ!」って心の中で拍手してあげてよ!小説家への道はキラキラしてるけど、めっちゃタフな世界なんだから!
はてなで人気のあるnoteでNIKKEのブレッディやエレグの人気があることを以て
オタクがムチムチ好きになっていると分析していたがそもそも、彼女らはムチムチではない
ブレッディは、お腹にちょっとお肉が乗っておりムチムチに見えるがしっかりとくびれはあり末端(顔や前腕、手、ふくらはぎ)は一般的なキャラと同じくスマートである
二次元と三次元を比較してもアレだが現実の世界で手を見て、この人は全身がムチムチだろうと想像したことがあると思う
基本的にムチムチとは末端にも影響するのだ
末端に影響がないムチムチとはそもそも例外的な存在であり一般的なムチムチではない
胸が大きく、ウエストもくびれているのにお腹には程よくお肉が乗っており、お尻が大きいのに末端は普通と言う奇跡、さらに彼女は小顔であった
以降、ムチムチのグラビアアイドルが彼女のように人気がでたかということはそんなことはなかった
篠崎愛という奇跡が産んだ例外的なムチムチが受けただけなのだから
過去よりムチムチ好きというのは存在しているのだが我々は非常に苦労してきた
日本のキャラは一瞬、多様な様に見えるが末端は全く多様ではなかったから
お胸、お腹、お尻、太ももという限られたパラメータをグリグリやっているだけで今もそう
全体がムチムチした本当のムチムチの存在は非常に限られておりそれらが人気を博す気配はない
今のムチムチしていると言われてるキャラは、決して真のムチムチではない
包容力を内包する真のムチムチではない、性的魅力だけを強化された似非ムチムチでしかない
ムチムチの神髄は末端にあるの、神は細部に宿るんだよ
なるほど…?
じゃぁ読み方としては初出の登場人物や地名が出ても、あまりうろたえずに、とりあえずワーキングメモリ?に棚上げして読み進めろ、そのうち解決するからってことですかね。ありがとうございます。
日々の仕事が消え、人間関係の悩みや病の煩わしさからも開放され、朝や日の入りがとても静かでとても美しく見える
日を追うごとに口にできるものは減り、死の恐怖が間近に迫ってくる
即身仏と関わりの深い行
「よか行ばなさいます」
機能性文盲について詳しくは知らない横増だが、ワーキングメモリーがそんなに強くなくて、戻り読みや先読み、つっかえをせずに通して読むことができないせいなんじゃねえかなと思う
逆に言うと、そういう層でも楽しく読める形態を生みだしたという点で、なろうは偉大なのかもしれない
紐がどう使われるのかよく分からんのだけど、思ったのは、情報の非対称性というのは現代においてもなお未解決な問題なんだよな、ということ。
今回はまあ結婚相手の情報だが、情報の非対称は例えば、リフォーム会社とか、ペットの獣医さんとか、色々ある。
家のお風呂をリフォームをしようとしてどの会社がいいのか調べようと思っても情報がないので、エイヤで選ぶしかないわけよね、ペットの手術とかもそう。どの獣医さんの腕がいいのかとかネットに載ってない。
mVPN-o-Torでも年間逮捕例あるのに今更VPNごときでドヤるって高卒かなってw論文から大分レベル下がっちゃったねw
俺は、昔から「いい人」と言われることが多い。
人当たりがいいとか、穏やかだとか、そんなふうに形容されることがよくある。
もちろんそれは、俺が意識的にそう振る舞っているからにほかならない。直接かかわりのある人間に対しては、可能な限りいい顔を見せるようにしている。
仕事でもプライベートでも、相手が気分よく接してこれるように、あえて一歩引いた態度を取ったり、角が立たない言い回しを選んだりする。表面的には誰とでもうまくやれる「調整型」の人間だと思われているだろう。
だが、そうした態度は単なる性格ではない。
俺は「いい人」でい続けることに、大きなメリットがあると考えている。
人間関係が円滑になるのはもちろん、敵を減らすことができるし、万が一誰かが攻撃的な態度を取ってきた場合でも、周囲の同情や信用を得やすい。
つまり、自分の立場を守るための保険として、「いい人」という仮面は非常に有効なのだ。
俺の素晴らしい仕事に対して、あれこれとつまらないケチをつけてきた、とあるイキリクソ女がいた。
同業者の一人で、やたらと上から目線で口を挟んできては、俺のやり方を揶揄し、あたかも自分がすべて正しいかのように振る舞っていた。
俺は彼女に対しても、表向きは一切反論せず、にこやかに対応していた。内心では、何度舌打ちしたかわからないが、それでも俺は努力して「いい人」でい続けた。
ところが、そのクソ女が、本人の過去のとんでもない言動が明るみに出て、周囲の信頼を一気に失った。
さらに、彼女の態度が問題視され、取引先から注意を受けたという話も耳に入ってきた。
正直、ザマーミロとしか言いようがない。
あの時、俺が感情的にやり返していたら、今ごろ立場が逆転していたかもしれない。だが俺は黙っていた。その結果、彼女は自滅したのだ。まさに、自らまいた種が自らに降りかかったというわけだ。
こうした経験を経て、俺はあらためて確信した。「いい人」でいることは、ただの優しさやお人好しではない。
それは一種の戦略であり、強さでもある。相手に対して攻撃的にならずとも、自分の正しさや誠実さを信じていれば、いずれ真価は伝わる。
むしろ、他人を貶めようとする人間こそ、長い目で見れば自然とボロを出すものだ。