街なかの銅像がどれも裸婦像なのを指摘されると
女性の生命の神秘!美しさ!表現の自由!とかいうの気に入らないんだよ。
肝硬変でちょっと黄色い顔して腹水で妊婦もおどろくほど腹パンパンにして定期的に穿刺してしぼませてもらったりしながらもまだ生きてんだ。すげえ神秘だ。腹に小さい穴あけたらビューって水出んのかなって思う。神秘だ。
美術専攻じゃなかったけど大学の時に受けた美術かデザインかの授業では俺は専門でもなんでもないのに徹底的に言語化や定義を問われた。
「◯◯について✕✕だと思ったからこういう作品作ります」というと「◯◯とは?」「✕✕とはつまり?」という問答がずっと続いた。
つまり、「生命の神秘とはなにか?どういう事象があれば神秘なのか?それがなぜ女性の裸に結びつくのか?出産できれば生命の神秘があるといい出すのはなぜ?出産=経産婦で良いなら老婆にしないのはなぜ?」などと詰められる。
答えられないならテーマに対してきちんと掘り下げて作品をつくれていないと詰められる。安易に手垢のついたやり方でそれっぽいのつくって満足してるだけだと。
広告と同じだよな。
安易になんかウケそうとかいって手癖でそれっぽいのつくって「なんでこのテーマの広告でこんな表現してんの?」って燃えて当然ろくに考えてないからテーマとの整合性なんて答えられるはずもなく燃え続ける。で、安直にウケる表現に乗っかって喜んでしまったオタクとかが乗っかって喜んだのをなかったことにできず(というかバカにされたと思い込んで)、顔を真っ赤にしてとりあえずフェミのせいにしてフェミ叩きに勤しむと。
友人の付き合いで受けた授業だけど、言葉にする、定義するって考え方は自分の中に残っているので、雑な理由で街なかに裸の女の像ばこり並べること意義を問わず
「こういうのはキャンセルカルチャーだ」と言われると俺の父親のような生命の神秘を像にしないで無視しているいまのほうが親父をキャンセルしてるだろうがと思う。
腹水穿刺する直前の破裂しそうにパンッパンの腹を「たいこだぞ〜ポンポン!」とか言いながら叩いて笑ってそのまま破裂して死ぬんじゃねえかと思いながらも無事生還する父親のほうが医学と生命の神秘の素晴らしさとかあるだろ。駅前の銅像にしてくれや。
1型糖尿病でポンプでインスリン入れながら日常生活送れるのありがたいしこれも神秘だと思うから俺を銅像にしてくれ