指輪物語を現代に甦らせるにあたり、
フロドとサムを
主人と庭師(従者)という
封建社会の主従関係ではなく、
まるで現代の
ドラッグストアの店長と店員みたいな関係に、
ウォッシュしてしまったのは、
果たして正しかったのだろうか?
映画ロードオブザリングにおいて、
フロドとサムは友人である。
だか指輪物語では主人と召使いだ。
サムはフロドのことを旦那さまとしか呼ばない。
当たり前だが映画のように
「フロド」などとファーストネーム
で呼ぶことは決してしない。
しかし映画でも原作でも
サムはフロドと共に旅に出て歩み続ける。
そこに、変わりはない。
フロドは指輪所持者であり、
指輪を破壊するという
大いなる使命を与えられたものだが、
物語の終盤では、
指輪のあまりにも強大な魔力により
自身を損ない続けていった結果、
もはや旅をひとりで続けていける状態ではなくなる。
そんな彼を最後まで支え続けるのがサムだ。
かたや忠誠心により。
かたや友情により。
ピーター・ジャクソンは、
現代に指輪の物語を甦らせるにあたり、
封建時代の主従関係では現代人は感情移入できないことを恐れたのだろう。
そのことの是非をたまに考えてみるのだが、
いまだ答えは出ない。
Permalink |記事への反応(0) | 18:42
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