『推されていた数年間』
名前を呼ばれるのが、怖かった。
画面越しで何千回も呼ばれたその名は、もう本名より重く、苦しかった。
「しほたん」「しほぴ」「女神しほ」──
それは私の別人格。
きっかけはそれだけだった。
はじめは罪悪感があった。
──気づいたら、夜の8時から深夜3時までが“出勤”になっていた。
ありがたくて、嬉しくて、泣きながらお礼を言った。
「田坂さん、いつも来てくれてありがとう」
「本当に助かってます」
「しほぴは田坂さんの味方だよ」
1万円、3万円、5万円。
私が泣くと、金額は増えた。
「生きててくれてありがとう」
そう言われた時、私はもう戻れなかった。
“推される”というのは、祭壇に乗ることだ。
最初は暖かかった。
でもそのうち、皮膚がただれても気づかないようになった。
昼は眠り、夜は配信。
肌は荒れ、声は掠れ、視力は落ちた。
でも、金が入った。
月収は100万を超えた。
──そう信じていた。
でも、あの夏。
配信に現れなくなった。
DMの返事も来ない。
その夜、私は初めて吐いた。
自分が何者だったのか、思い出せなかった。
あれから7年が経った。
私は今、介護施設で働いている。
月給14万円。朝6時に起きて、腰を痛めて、排泄ケアと風呂の介助。
でも、不思議と不満はない。
誰も、私のことを“神”とは呼ばないからだ。
“しほたん”は死んだ。
その墓には、誰も花を供えない。
──田坂隼人。
見た目は変わっていた。痩せ、白髪で、目に深い傷跡があった。
でも、目が合った瞬間、わかった。
彼は、私を“見て”いなかった。
ただ、そこにかつての“偶像”がいるというだけで、心を溶かしたような顔をしていた。
「しほ……ですか?」
「はい、志帆です。介護スタッフですから、なんでも言ってくださいね」
私は笑った。
生きていれば、終わりはくる。
でも、ただ一つだけ信じている。
──これは愛じゃない。
でも、呪いでもない。
これは、“推された代償”の、静かな後始末。
そして私は、それを生きることにした。
〜恐怖は、隣で笑っていた〜
その明るさに、私は最初、救われたような気がしていた。
田坂さんの介助をする日々の中で、
──でも、気づいてしまった。
「今日も○○たんが来てる〜!ありがとねー!」
5000円、10000円、20000円。
彼女は笑っていた。まるで昔の私の声で。
そして言った。
「“推しに投げる瞬間”って、自分が神になれる感じしません?」
その言葉で、血の気が引いた。
あの子は、もう“あっち側”にいる。
何かが過剰で、何かが壊れている。
私はその時、
田坂さんと目を合わせるのが怖くなった。
私のスマホも、彼女のスマホも、画面越しに人間を崇拝する装置。
人の人生を狂わせる、神のふりをした呪物。
その怒りはどこへ向かうのだろう?
推しの彼か、
それとも、
今となっては“すべてが分かってしまっている私”に?
──私はもう、推されることも、推すことも、できない。
だからせめて、働く。
その恐怖から逃げずに、
この場所に、しがみついている。
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