BLは「女性の性的消費が男性性に依存させられる」という話を定期的に見るのだけれど、そのたびに「すみません……でもなんか違うの……でもでも怒られても仕方がないよな」という微妙な気持ちになる。
多分、BL文化は「少女マンガの読者からこぼれ落ちてしまった女の子」たちのシェルター的に育っていた背景があるからなのだと思う。自分もその1人だ。
BLの源流とされるのは、1970年代「花の24年組」と呼ばれる作家たちの作品群だ。少女マンガなのに、主人公が少年である物語が多かった。
代表格の竹宮惠子先生によれば、当時の少女マンガには制約が多く、主人公が少女だと描けない物語が山ほどあったという。少女が主体的に動こうとすると「生意気」とされ、編集部から許可が下りない。だからこそ少年を主人公に据え、「女の子が言えないことを言ってくれる」物語にしたそうだ。萩尾望都先生も「少年を描くことで、女性が受けてきた社会的制約から解放される強い感覚があった」と語っている。要するに「少年=少女=私」。少年を着ぐるみ的に着せてもらった作品群と言えるのかもしれない。
そんな24年組の雰囲気を引き継いだのが、BL雑誌…というか、美少年作品を取り扱う雑誌「JUNE」で、編集長を務めた佐川俊彦氏は『「JUNE」の時代BLの夜明け前』で、こういう風に語っている。
女の子が美少年の姿になると「自由」になれる。女の子のままだと制約が大きすぎて何にもできない、冒険ができない。さまざまな現実のプレッシャーから逃げて身を守る、戦時中の、空襲の爆撃から守ってくれる「防空壕」みたいな役割を果たせるのが、「JUNE」なのではないか?僕はそう考えていました。
「24年組」の作家さんたちの多くは、本当に男の子になって冒険するみたいな、宇宙にも行くみたいな物語が描きたかった。少年マンガ的なノリで、自分も少年になって、「自由」にふるまいたかったわけです。
その「自由」の中に、もちろん「性的な自由」も入ってくる。女の子のままじゃダメで、美少年になったらできる。でも「中の人」は女の子なので、その対象の相手は男になる。
当時の多くの女性は「結婚して、仕事をやめて主婦になる」という道を歩んでいた。そうした「ジェンダーロール」や「社会的圧力」に居心地の悪さを抱えた少女たちにとって、BLは切実な願いを託せるファンタジーだったように思う。私自身も、一生働きたい、自立したいと願っていた少女だった。けれど現実では「女としてダメ」という言葉を向けられることも多く、その中で自己肯定感は削られていった。その度にBLの物語は脱出口のように機能した。
BLでよくある展開として「こんな俺なんて」となる受けに「そんな(外側からの評価なんて)関係ない、俺はお前と一緒にいたいんだ」と攻めが寄るシーンがある。これは「女としてクソだと言われ続けていた私」をどうにかして誰か認めてくれないかという願望をもった自分には不思議なことに強烈に響いた。違うけど根本は同じ、みたいな。こじれた少女マンガ……と言ってもいいかもしれない。
余談になるが「JUNE」を出版するサン出版では、ゲイ雑誌「さぶ」も出ていた。「JUNE」はゲイカルチャーではなく、「少女のための雑誌」と明確に分類がされていたそうだ。
もちろんBLは常に歓迎されてきたわけではない。90年代にはミニコミ誌を中心に、ゲイ当事者から「女たちは勝手にゲイを弄んでいる」という批判が噴出した。これが「やおい論争」だ。
論争の発端となったゲイ当事者でもある佐藤雅樹氏はミニコミ誌 『CHOISIR』20号 (1992年5 月) でこう綴っている。
俺たちゲイのセックス描いて、男同士がセックスしてる漫画読んで、喜んでいるというじゃないか。そんな気持ちの悪い奴らを好きになる理由も必要もない。第一、不快だ!
(中略)ゲイのセックスは、男からは嫌悪、女からは好奇の視線でしか見られない。オレたちのセックス覗いて喜んでいる女、鏡見てみろよ、覗き見してる自分たちの表情を!
この論争は読者にも衝撃を与え、BLのあり方を見つめ直すきっかけとなった……が、昨今はBL市場があまりに大きくなり、この歴史を知らない人も多い。
私は、BLは単なる「女から男への性的消費」では括れないと思う。そこには当事者批判の歴史も、多様な表現への発展もある。そして「少年の着ぐるみ」を着て得る自由は、百合やバ美肉にも通じる部分がある。
根っこにあるのは、性的指向以前の、もっと切実な願い――現実で奪われた行動の自由や存在の肯定を、別の姿を通して手に入れたいという欲求だ。
私は「BLは無罪だ!」と大声で言う気にはなれない。「少年の着ぐるみ」を着させてもらっている身としては、「いいとこ取りしようとしている」罪悪感があるからだ。行き過ぎた表現への懸念もあるだろう。それでも、この場所で救われた自分がいる。一部の大きな声で、すべてが否定されるのはなんだか悲しい。この文化が衰退しませんように。
Permalink |記事への反応(16) | 13:04
インターネッツ老人会で風と木の詩とかリアタイで見てた人達はそうかもしれないけど、今のBLって全然別物じゃね?
商業BLに限っては、昨今は成人同士のカップリングが多いし、男性向けエロの過激な部分に毒されてる表現も多いから、JUNE的な少年愛文化とは全然同じに見えないよー。
男が読んでいる漫画だって単なる性的消費じゃない面があったかもしれないね。 でも、そんなの顧みられず規制されていったよね。 自分の好きなものに火がついてから文化が衰退してし...
栗本薫がゲイとバチバチ喧嘩してたみたいな話は聞いた
"私は「BLは無罪だ!」と大声で言いたいのにミソオスのせいで言えない"と書くだけでこの分量
でも、自分達は萌えキャラを批判したいんですよね〜
なんかBL畑のこういう長ったらしいお気持ちや言い訳多いわ 男を性的消費する人たちですって胸張って自慰行為してたらええやん むしろそう胸張ってくべきなんちゃう
肉体への性的価値は、女性のほうが圧倒的に高い。 男は女の裸を見たがり、女も女の裸を見たがり、男の裸をそれほど見たがらない。 裸の価値を金に例えたら、 女は大金持ち、男は貧...
もう生意気だとか言われる時代じゃないんだから、男女でやればいいのでは…?
そうであるならば、キモオタが好む美少女物が、性的指向以前の、もっと切実な願い――現実で奪われた行動の自由や存在の肯定を、別の姿を通して手に入れたいという欲求ではないと...
キモオタが好んでる美少女って大半がセックスできる中島だしな。 Vtuberだって格ゲーとかサブカルの話できるオタク友達におまんこついてるからウケてるわけでさ。
やおい論争が掲載されたミニコミ誌 『CHOISIR』は、一部を除いて以下で読める。 https://wan.or.jp/dwan/dantai/detail/57 やおい論争の発端となった20号 (1992年5 月)は、以下。 https://wan.or.jp/dwan/d...
原文を読んでるが抜粋と印象がちょっと違うような・・・。 ともあれ面白い。かなりおもろい。紹介してくれてありがとう。いま「『やおい論争』第三期(フェミニズムはやおいをバッ...
だから今回男オタクが呼びかけているのは 「お互い創作に救いを求めている社会的弱者同士なんだから、俺たちが迫害されている時に一緒に声を上げてほしかった」という内容だろう。 ...
言い訳乙
いいからゾーニングしなさい 私はあの作家が攻撃対象になっているのは不当だと考えています ゾーニングされてないのはBL文化全般の罪で個人の責任とかじゃないので
BLは受け攻めの順序とかまで掲示してゾーニングしまくってるやん
ゾーニング自体どうでもいいけどそれは一般的にはゾーニングとは言わないのでは
「ゾーニング」って「zone」+「〜ing」だよ? 一般的には「区分け」の意味だよ。 本屋に行ったら雑誌は雑誌コーナーに、漫画は漫画コーナーに、BL本はBLコーナーに置いてある。 同じ種...
セックスしてるBL本はエロ本コーナーに置きなさい
CHOIRのやおい論争総括を読んだ後であなたの文章を拝読した男だ! 悪かった。 今までBLをゲイへの性的消費などと罵ったが、すべて撤回して謝罪する。 ゲイの立場に立つ佐藤...
男性向け性表現にしても、様々な議論が行われてきたし、「CHOISIR」でもそのことは取り上げられている。やおい論争が始まる前の「CHOISIR」14号(1991年10月)では、有害コミック騒動につ...
士郎正宗は、本当に女の子になって冒険するみたいな、宇宙にも行くみたいな物語が描きたかった。少年マンガ的なノリで、自分も少女になって、「自由」にふるまいたかったわけです...
昔は男の子に仮託して描くしかなかったんですとか言われても知りませんよとしか言いようがないよな、特に若い世代の男性同性愛者にとっては。 そういう事例を出されても「ではやは...