ここに50代の男性がいるとする。
その人物が、ファン付きベストを着て肉体労働者の風体をしている場合。
このふたつのケースで、その同一人物に対して全く同じ印象を抱くことは人にはできない。
そのことは差別ではないかもしれないが、そういった反応が差別と地続きであることは明白である。
人間というのは、かなり多くのことを一瞬の判断だけに委ねている。
その何も考えることなく物事を瞬時に判断するのは、我々が野生の時代を経たことの名残である。
今の人間が他の動物に食われることは非常に稀だが、かつての野生時代には頻繁に出会う現象であったであろう。
そのときに危険な動物であるか、それとも危険な動物であるように見えて実は危険ではない動物を見分けるのに時間をかけるわけにはいかない。
瞬間的にすべてを判断して、その判断に疑問を抱くのは危機が去ってからで十分である。
という仕組みは、その動物が生き残るうえで重要であったし、結果としてそのような特性を持つ動物=人間が生き残り淘汰を生き抜いたのだ。
このふたつがバランスよく両輪となって人の思考を形作るのが理想だが、そのような理想形には程遠いのが実情だろう。
野生の動物に「差別はよくない」などと判断する機能は不必要であるからだ。
だがより人間らしい社会を築く必要性を考えたときには差別はなくすべきであるのは当然の結論だ。
ただし、人間はデフォルトモードでは平気で差別をするし、その差別に気づくことはできない。
なぜなら、野生の動物は差別することで相手の動物が傷つくかもしれないな、などと考えるのは危険だからだ。
全然危険がない動物なのに逃げ出したりしたら、相手の動物さんの気分を害するかもしれない……、などと考えていては生き残れないからだ。
だから瞬間的な判断では、平気で差別するし、そしてその機能は現代社会においても重要な役目を果たしている。
あきらかに危険を感じる人物に対して距離を取ることは、自分の身を守るためには必要だからだ。
ただし、だ。
ただし、だ。
ただし、だ。
その直感的な機能は、必ずよく考えて真実はどこにあるのか?を常に意識する人間らしい心と両輪となってこそ初めて正しく機能するのだ。
直感的な差別と、「これは差別である」とすぐに気づく心のふたつが機能するのが重要なのである。
それは無知の知を知るかのように。
だが実情として、我々はおそるべきことにそのような思考を深めることはしていない。
ある種の人達は、どこかの他人に増田で説明されないと自分たちの「感情」が差別であるとすら気付けないのである。
ミニ四駆好「ちくわ大明神!」