ラーメン屋に来ている。
そこでは各ラーメンの特徴だったり、それぞれのトッピングがどういう物なのかという説明が券売機の近くにびっしりと書いてあった。
書いてあることはとても分かりやすく、そのおかげで初来店の私も特に不自由なく食感を購入する事ができた。
店員に案内された席に付き、冷たい水を飲んでいるとまた別の客が店に入ってきた。
彼はしばらく食券機の前で立ち尽くしていると調理中の店員を呼びはじめた。
私は「1万円札の両替でもするのかな」と思っていたが、どうやらその客はメニューの特徴などを聞いているようだった。
店員は少しの間説明していたが、その客がどんどん質問するので「食券機の隣に説明もあるのでそちらを参考にしてご購入ください」と言い、また調理に戻っていった。
メニューの説明文は食券機の真横に書かれており目に付かないはずは無いのだが、なぜこの客はそれを読まないのだろうか。
私は少し考えて思った。
世の中には文字に対して忌避感を持っていて、ある程度まとまった文章を無意識的に読もうとしない人が居るのでは無いだろうかと。
最近、SNS上で議論が発生しているときにYouTubeの動画を自説の根拠として挙げている人を見かけた。
その動画では調べても特に素性のよく知らない人物がさも真実かの様にとある主張をのべていた。その主張には特に根拠と呼べる様な文献などが提示されておらず、客観的に信憑性が怪しい物だった。
なぜこんなものを議論の根拠に挙げるのだろうかと私はそのとき呆れてしまったが、ラーメン屋で説明文を読まず店員に説明させる客を見て少し理解出来た気がした。
動画は一般的に口語で語られていて、根拠はさておきその主張は理解しやすい物だ。根拠も曖昧なので分かりやすいストーリーを作るのが容易になる。一方で、物事の根拠になるような論文などは基本的には文書として存在している。文字を読もうとしない人にとってはそのような文書は存在してないのと同じなのでは無いのだろうか。先ほどのラーメン屋の客のように。
近年、非科学的、非論理的な主張を恥ずかしげもなく展開しそれに賛同する人間が増えている様な気がする(SNSの大衆化によりそのような人が可視化されやすくなっただけかもしれないが)。
もしかしたら彼らも、意識的無意識的にかかわらず文字を読もうとしないで、理解が容易な動画もしくはSNS上の短文でしか情報を得られないのでは無いだろうか。
彼らに必要なのは、科学的な根拠となる文献を提示する事ではなく、丁寧に口語で語りかける事なのでは無いだろうか。
そんな事を考えてるうちに美味しそうなチャーシュー麺がやって来たので私は食べる事に集中しようと思う。
AIに書かせてもつまらん