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2025-07-08

『夏の夜の蛍』(なつのよのほたる

夏の夜だった。

蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、遠くで鳴く蛙の声だけが、しんとした闇に響いている。

女は、湯上がりの火照りを冷まそうと、濡れ縁に腰を下ろしていた。洗いざらし浴衣の襟元が、少しだけはだけている。

男は、その斜め後ろに座り、ただ黙って団扇で風を送っていた。

言葉はない。

団扇が空を切る、ふわり、ふわり、という優しい音だけがふたりの間に流れていた。

その風は、女の肌を直接撫でるわけではない。けれど、男が起こした風が、女のうなじに残る数本の濡れた後れ毛を、そっと揺らす。そのたびに、女は背中に甘い痺れが走るのを感じていた。

一匹の蛍が、ふたりの間を横切るように、淡い光の軌跡を描いた。

光っては消え、また少し離れた場所で光る。

その明滅が、まるで、言えずにいる互いの想いのようだ、と女は思った。

男の視線が、自分うなじに注がれているのを、女は感じていた。

触れられているわけではない。でも、その視線は、どんな指先よりも熱く、肌を焼くようだった。息が詰まる。心臓の音が、うるさいくらいに耳の奥で響く。

女は、ゆっくりと振り返った。

暗闇の中、男の瞳が、静かな熱を帯びてこちらを見つめている。

その瞳の中に、今にも溢れ出しそうな、激しい何かが映っているのを、女は見た。

「……涼しく、なりましたか

男が、かろうじて絞り出したような声で言った。

女は、何も答えなかった。ただ、小さく、ふるふると首を横に振る。

いいえ、少しも。むしろあなたのせいで、もっと熱くなってしまった、と。

声にならない言葉が、潤んだ瞳から、静かにこぼれ落ちた。

Permalink |記事への反応(0) | 22:56

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