夏の夜だった。
蒸し暑い空気が肌にまとわりつき、遠くで鳴く蛙の声だけが、しんとした闇に響いている。
女は、湯上がりの火照りを冷まそうと、濡れ縁に腰を下ろしていた。洗いざらしの浴衣の襟元が、少しだけはだけている。
男は、その斜め後ろに座り、ただ黙って団扇で風を送っていた。
言葉はない。
団扇が空を切る、ふわり、ふわり、という優しい音だけが、ふたりの間に流れていた。
その風は、女の肌を直接撫でるわけではない。けれど、男が起こした風が、女のうなじに残る数本の濡れた後れ毛を、そっと揺らす。そのたびに、女は背中に甘い痺れが走るのを感じていた。
一匹の蛍が、ふたりの間を横切るように、淡い光の軌跡を描いた。
光っては消え、また少し離れた場所で光る。
その明滅が、まるで、言えずにいる互いの想いのようだ、と女は思った。
男の視線が、自分のうなじに注がれているのを、女は感じていた。
触れられているわけではない。でも、その視線は、どんな指先よりも熱く、肌を焼くようだった。息が詰まる。心臓の音が、うるさいくらいに耳の奥で響く。
女は、ゆっくりと振り返った。
暗闇の中、男の瞳が、静かな熱を帯びてこちらを見つめている。
その瞳の中に、今にも溢れ出しそうな、激しい何かが映っているのを、女は見た。
「……涼しく、なりましたか」
男が、かろうじて絞り出したような声で言った。
女は、何も答えなかった。ただ、小さく、ふるふると首を横に振る。