2000年代のインターネット文化を支えてきた、無料ホームページサービスが相次いで終了を迎えるそうだ。そこには、個人の日記、創作、ファンサイト、匿名掲示板のまとめなど、時代の空気をそのまま封じ込めた数々のコンテンツが存在していた。これに対し、「文化財として保存すべきだ」という声が上がっているのも当然のことだろう。しかし、その声にただ同調して「すべてを残せばいい」のだろうか。
たしかにデジタルデータは、紙と違って保存や複製が容易で、情報密度も圧倒的に高い。しかし、それは「無限に保存できる」ということを意味しない。保管にはストレージや電力、冷却、セキュリティ、人員などのコストがかかり続ける。さらに、時間の経過とともにファイル形式やプラットフォームが陳腐化すれば、読み出し自体が困難になる。デジタルであるがゆえの脆さも、文化保存の観点から見逃すことはできない。
そもそも、文化とは「すべてを残す」ことによって形作られてきたわけではない。人類の歴史を振り返れば、私たちが今手にする古文書や神話、楽曲や民話の多くは、何世代にもわたって人々によって「選び残されたもの」だ。たとえば死海文書のように偶然に保存された例もあるが、多くは、後世に伝える価値があると判断されたがゆえに、複写され、語り継がれてきたのだ。
この「選別」という行為は、単なる取捨選択ではなく、文化に対する責任である。現代においても同じことが求められる。膨大なデータが日々生成される今だからこそ、私たちは「何を残し、何を手放すか」を考えなければならない。歴史的意義のあるウェブサイト、時代の象徴となるネットミーム、あるいは特定の技術的転換点を示すデザインなどは、アーカイブ対象となり得るだろう。しかし一方で、スパム、広告、内容のないテンプレート的なページなどは、必ずしも保存の価値があるとは言い難い。
重要なのは、「残す」ことが目的ではなく、「未来に何を手渡すか」という視点だ。国や公的機関だけでなく、企業、研究者、個人といったさまざまな主体が、自らの価値観と責任に基づいて選び取っていくべきなのである。そしてその多様な選択の積み重ねが、やがて次の時代における「文化」となっていく。
文化とは、偶然の産物ではなく、意思の集積である。だからこそ、すべてを残す幻想ではなく、「何を残すか」を問う勇気こそが、デジタル時代における文化継承の第一歩なのではないか。