お前の「弱者男性」という概念の使い方には自己放尿的自己矛盾がある。
もしその言葉を他者に当てはめる資格がお前にあるなら、お前自身は既に強者を自認しているはずだ。
しかし、他者を弱者と切り分け、上から物を言っている時点で、お前の「優位性」は不安の裏返しに過ぎない。
それは自己放尿のような無意識の漏洩、つまり内面の欠如の露呈だ。
性格とは常に関係性の中で動的に形成されるプロセスであり、属性による一般化は知性の自己放尿以外の何ものでもない。
お前のソレは全ての人間関係を静止画で見るような錯覚に基づいており、統計にも論理にも還元できない。
「東南アジア人ぐらいが釣り合う」という表現は、人間の尊厳を数値化して市場原理で換算する自己放尿の発想だ。
これは一種の魂に対する損益計算であり、最も低レベルな物象化である。
人間を価値で測るのは市場の論理であって、愛や連帯の論理ではない。
お前がほんの少しでも真理を愛しているのなら、自分の中にある社会的ヒエラルキーに執着する不安を直視することから始めるべきだ。
それは「弱者男性」でも「東南アジア人」でもなく、自分の中にある値踏みする心こそが治癒すべき対象だ。
もし、この世界のどこかにお前をありのまま受け入れる人が一人でもいるなら、お前の中の損得勘定的自己放尿マインドは、愛の中でようやく浄化されるだろう。