「経済成長を止めると個人の寿命が縮むから良くない」という主張には、一見するとヒューマニズムの仮面をかぶった欺瞞がある。だが、現実はそう単純ではない。
まず、経済成長によって植物資源を破壊する行為が継続された場合、短期的な個人寿命の延伸と引き換えに、地球規模での生態系が崩壊する。
そのとき問われるべきは、ある個人が5年長く生きるかではなく、人類全体が今後100年、1000年というスパンで地上に存在しうるかという問題だ。
植物が滅ぶというのは単なる食料の話ではない。酸素供給、炭素固定、土壌保持、気候調整、あらゆる生命の前提を担っている。
これを失うというのは、生存環境そのものの崩壊であり、科学技術や医療で個人の寿命を延ばすなどという話は、もはや前提が成り立たない。
経済成長の名のもとに生命基盤を切り崩す構造は、焼畑農業の延長に過ぎない。今の命を少し長らえるために、未来の命を根絶やしにするやり方だ。
それは寿命の問題ではなく、寿命という概念自体が成立しなくなる世界への加速だ。
寿命が縮むから成長は止められないという理屈は、火のついた家の中で「今すぐ風呂に入らないと健康に悪い」と言っているのと同じだ。
問題は風呂じゃない、家が燃えていることだ。優先順位を理解しない限り、どれだけ医療が進もうが、どれだけGDPが上がろうが、それらはただの燃えカスの上に積み上げられた数字に過ぎない。
人類の存続を語るとき、個体の寿命を尺度にするのは愚かだ。寿命とは生存条件が満たされた上で初めて意味を持つ変数であり、その基盤が崩れているときに、延ばすだの縮めるだのと言うのは倒錯だ。