その人は70代なので、割と納得が行く年齢ではある。ただ、その人の姉は80代で2人とも健在なので、そういう事情を加味するとやるせない。
自分は鬱になり、好きなジャンルでの仕事が出来なくなり、その原因の1つは故人にあるので、そういう意味ではまるで悲しくない。とは言え喜んでいるかと言えばそうでもない。
人生には色々な側面があり、自分にとって悪魔でも誰かにとって天使な事が往々にしてある。葬式には多くの人が参列して故人の死を悼み悲しんでいた。
故人を見たり触れたりするのはともかく、話しかけている様は正直馬鹿馬鹿しいと感じてしまった。とは言え、それは人それぞれ。
今の葬式はかなり自由で、その葬式は仏教を介さず、故人を参列者が自由に囲い任意で帰るだけのものだった。意味もわからない《お経》よりも、故人にまつわる音楽や映像を流した方が誰にとっても幸せだろう。当然ながら選択肢の問題であり、仏教を介した葬式をしていた別の枠もあった。
自分が子供の頃は《通夜》と言えば文字通り夜通しで酒を飲み語り合い、ある種の祭りでもあったが、現代人の生活は仕事や時間に追われているし、土着的な関係でもない。数分、数十分でも会えば充分な関係。《通夜》は3時間程度で終わり、翌日の火葬などは2時間で終わった。
今回の葬式に関わらず、いつから参列者による故人の写真撮影が平然とおこなわれるようになったのだろうか。自分が子供の頃は業者や身内の一部が一眼レフなどで仕事や役割として故人を撮影する事はあっても、参列者が平気でパシャパシャと撮る事なんてなかった。スマホという道具が常識や歴史や文化を変化させているというのを目撃して違和感があるのと同時に感慨深いものであった。
逆に、棺を運ぶのが男だけ、という風習が今でも残っているのが意外だった。これ現在のポリコレ的に問題にならないのだろうか? とは言え、基本的に泣いているのは女で、そして受付や食事の用意や手伝いをよくしているのも女で、互いにそこには疑問を持っていない古典的で典型的な場所でもあった。いつか、こういう事もポリコレ的に問題にされるのだろうか?
故人に対する何かというよりは、自分はどうやって死ぬのだろうか、という事を考えさせられた。自分の人生はそれなりに自由に生きてきたが、人並に挫折も経験して、今は妥協の中で生きている。よくある話だが、人はいつ死ぬのかわからないのだから、犯罪でもない限りは、後悔の無いように好きに生きたいものだ。