マクドナルドでセットを食べていた時のこと。
昼時で混雑しており、何とかカウンター席を確保して食事を始めた。
すると隣に座った若い男性はスマートフォンを取り出し、動画を再生しながらポテトをつまみ始めた。
私は行儀の善し悪しについて語るつもりはない。
問題にしたいのはマナーではなく、ただそこにある食べ物が「命」だったこと、それを自分が今「いただいている」という意識をほんの少しでも持ってほしいと思ったのだ。
食べるということは、命をいただくということ。
それは厳然たる現実だ。
たとえ加工された食品であっても、元は牛であり豚であり鶏であり、魚であり、どれもが生きていたものだ。
以前に私が教員をしていた頃、小学5年生の道徳の授業で『いのちの食べ方』というドキュメンタリー映画を見せたことがある。
食肉加工工場や畜産現場の様子が描かれている作品で、映像は正直かなりショッキングだった。
だが、私は子どもたちに「食べるとはどういうことか」をしっかりと考えてほしかったのだ。
スーパーマーケットのきれいなパッケージに入った食品だけを見て育つのではなく、その背景にある“命の循環”に少しでも目を向けてほしいという願いがあった。
「授業中に魅せられた映像のせいで子どもが肉を食べられなくなった」といった内容だった。
電話口の相手は感情的で、「教育の名のもとにそんなものを見せるのは非常識だ」と私に何度も怒鳴った。
こちらが丁寧に意図を説明しても相手が納得することはなかった。
確かに刺激の強い映像を一律に見せるべきではないという指摘は尤もかもしれない。
それでも納得できなかった。
しかしそういった大切なものが”無かったこと”にされていく風潮に、少なからず危機感を抱いている。
現代の豊かさの中で命の重さや食の意味といったことが、どんどん見えづらくなっているような気がしてしまうのだ。
最近ではデリバリーの存在もより身近となり、一歩も外に出ずとも美味しい料理が食べられてしまう。