生まれた瞬間から男女平等をインストールされた夫にとっては何の問題もないはずだった。夫は諸手を挙げて歓迎し、妻の新しい仕事が始まった。
あるときふと妻は思う。……(どうしてこの男と私は結婚したのだろう?私はこの男よりも年収が高く、すなわち能力が高いのに。)女の悲しき性、負の性欲だ。
妻はいつしか夫に体を許すことが嫌になってきた。自分よりも「劣った」男の精を受け入れるのが心底嫌になったのだ。
心底、というのは文字通りの意味だ。心の底でだけ拒否している。妻の理性はそれを理解できなかった。妻の意識は、そもそもその可能性を検討しなかった。
劣った男の精をも受け入れる度量が自分にはあると思っていた。……というより、そのように自己の性的な欲望を分析したこと自体が無かった。
妻の人生においてそのような行為の必要性は皆無であった。今となっても、妻にとってはあのときの「冷め」が理解不能なままである。
夫が求めても断られる日が続く。
夫の方は妻がどうして豹変したのかわからない。妻もわからないので当たり前だが。
もともと二馬力の夫婦生活、それが更に世帯年収UPとなったのだ。通常、金銭的な余裕はほとんどそのまま精神の余裕に直結する。実際、転職して1年間ほどはそうであった。
それに妻は仕事で自己実現もできているようだ。順風満帆、という言葉をそのまま体現したような夫婦になるはずだった。
夫は忙しい中尽くした。家事をし、マッサージを申し出(断られ)、アロマを炊き、少しいいディナーをサプライズで予約してみた。
……妻は冷ややかだった。根本的に「劣った」オスが、何をどうしようと妻の女には響かない。むしろその頑張りが、妻にとっての夫をよりいっそう惨めに見えさせた。
なにせ「年収が妻>夫」という根本的問題が未解決である。それが解消されない限り妻の性欲は夫に向くはずがない。しかしその真実は十重二十重と積もった体裁とポリコレのヴェールに覆い隠され、見えなかった。
まあ、仮にこの夫婦にこの真実を教えてやる奇特な紳士が現れたとて、男女平等をインストール済みの夫にとってはなおのこと理解できず、どころか夫婦そろって怒り出したかもしれない。
ポリコレ的倫理観は、それが真実と相反するとき、あたかもカルト宗教の教義のようにふるまう。自己の動物的本能を否定し、自己を客観視することを許さない。夫婦にとってはいわば遅効性の毒であった。
セックスの機会はついに2年に1回未満に減少した。夫は妻を誘うことを辞め、妻は夫から誘われることを期待することを辞めた。
夫は不能になった。
夫は自分の分身がもはや機能を失ったことを自覚こそすれ、落胆することは無かった。
男女平等は夫の精神を去勢していた。去勢された彼氏は優しく魅力的に見えた。妻はその後夫になる男の、去勢された姿にこそ惚れたのである。
夫は家庭にフルコミットすることにした。勇気の決断だ。言葉を選ばずに言えばヤケクソだ。
よりによってプロジェクトが炎上している中で定時退社を切り出す。帰る背中には物理的に冷ややかな視線が突き刺さるような気がした。
気がしただけだ。
……やってみればあっけないものだ。無能の烙印を押されたところで、それがどうした。たかが仮想の烙印だ。焼き印を押される訳でもあるまい。夫は、締め切りの近すぎる仕事を無視するようにした。
今期の査定はB-であった。最低である。昇給はゼロだ。夫の居場所は職場ではなくなった。
夫は家庭にフルコミットすることにした。
……妻が夫を叩くことが増えた。物理的な意味だ。もはや妻の中で、夫は人間ではない。睾丸を取られた犬である。犬は叩いて躾けなければならない。
「私の方が稼いでいるのよ。」いつからそうなったか、妻の口癖である。
実際に妻は優秀であった。実は、激務の夫よりも多くの家事をこなしていた。なにせ夫よりも通勤時間が短く、無能の烙印を押される前の夫よりも仕事時間が短いのである。生来の容量のよさも相まって家事は8割がた妻であった。
「フルコミット」を決めた夫が奮起しても、せいぜい五分五分といったところであった。こうなると養っているという表現がふさわしい。
妻は疲弊していた。働きもせず家事もしない穀潰しを養っていることは妻を極端に疲弊させた。疲れた私に何もしてくれない。ゴミのような奴だ。姿を見るだけで腹が立つ。
妻には夫を叩く権利があった。最近仕事も忙しくなってきたし、叩かなければやっていけなかったのだ。
妻の行為は、本邦においてDVとみなされることはない。妻を失望させた夫が悪いのである。夫もそう思い甘んじて叩かれた。叩かれたことを反省し、家庭を切り盛りしていこうと考えた。
劇的な転機は唐突に訪れた。
夫はペアローンを組んで入手した高気密高断熱一軒家の、Low-Eの窓ガラスに自分から頭を打ち付けた。
夫は妻に手を出すことは無い。その発想さえないほどに夫は男女平等である。しかし暴力的な衝動だけは胸の奥深くで燻っていたのかもしれない。
文字通りの「やり場のない怒り」の奔流はついに堰を切り、しかし妻には向かわず、夫自身に向かったのである。
化学強化されたガラスは映画のように粉々に砕け散った。夫の頭は血まみれだ。
妻は泣いた。かように自分の言動が夫を傷付けていたことをいまさらながら自覚したのである。夫も泣いた。痛かったし、叩かれたことも痛かった。
夫婦は抱き合って泣いた。救急車を呼ぶ発想に至るまで10分以上かかった。
会社に復帰の連絡はできなかった。しようと思って携帯を手に持つと、力が入らず滑り落とした。震えて焦点が定まらない。困ったものだ。
会社への連絡は妻にしてもらった。退職の手続きも妻がやるしかなかった。
妻は自分が夫を叩いたことが直接的原因だと思った。夫を「手の届かないところ」に遠ざけなくてはならなかった。夫の為にだ。
幸い妻は最近忙しくなっていた。家に帰らないことにした。
職場の男性Aは妻の指から結婚指輪がなくなったことに気付いていた。職場の男性Aは妻のことが好きであった。妻もAが好きであった。二人はいつしか恋に落ちる。
最終的に夫婦は離婚。妻は有能であった。Aと恋仲になると同時に弁護士をつけた。
夫には財産分与を争う気力は無かった。妻の不貞はもはや公でさえあったにも関わらず、夫が得た慰謝料も財産分与もゼロであった。厳密には、夫にはペアローンと高気密高断熱の一軒家が残された。