今日、近所のコンビニエンスストアなるものに立ち寄り、いわゆる「セルフレジ」なる機械にて会計を済ませた。
ピッ、ピッ、と電子音が鳴る。品物についておるバーコードなる紋様を機械にかざすだけの、まことに簡便な手続きである。
されど、この一連の所作、どうも古の無人販売所、あるいは賽銭箱に銭を投げ入れ、神仏の加護を願う行為の変奏のようにも思われてならぬ。
かつて路傍に置かれた野菜の代金を正直に箱に入れる行為には、村落共同体の暗黙の掟、あるいは目に見えぬ存在への畏敬の念が介在していたのではなかろうか。
翻って現代。我々は液晶画面の指示に従い、疑うことなく商品を機械に読み取らせ、電子的な貨幣にて対価を支払う。店員という「人」を介さぬこの行為は、ある種の隔絶と、同時に機械という新たな「カミ」への直接的な奉納の儀のようにも見える。
バーコードは品物の呪力を封じた護符か。スキャンする行為は一種の祓であろうか。支払いの完了を告げる電子音は、神託の証左か。
人の手による温かみが薄れたと嘆く声もあろうが、形を変えども、人は何かしらの「規則」や「儀礼」に則って生きることをやめられぬ性を持つのかもしれぬ。スーパーの袋詰め台で、人々が黙々と品物を整然と袋に収める姿なども、どこか日常に潜む祭祀性を帯びて見えなくもない。
レジ袋が有料となり、人々が「マイバッグ」なる自前の袋を持参するようになったのも、単なる経済合理性だけでは説明がつかぬ、新たな「持ち物」への意識、あるいは外部からの「ケガレ」を自らの領域に持ち込まぬための結界のような意味合いを、深層心理のどこかで帯びているのでは、などと思うた次第。
これもまた、名もなき「常民」たちの、声にならぬ習俗の生成過程なのであろうか。日々移ろいゆく世の慣わしを、こうして記録しておくことも、また無意味ではあるまい。
「スキャンする行為」について言及が無い。 作り直したほうが良い。