私は最近になってよく考えるようになった一つの問題点というものは、現代の若者が、いわゆるインターネットや携帯端末が、非常に進化がされてしまっている環境において、常に触れていることにより、本来、人間同士で、コミュニケーションや、交流といったものを自然な形で培われるべき能力が、意識的あるいは無意識的な形で、徐々に失われつつあるのではないか、ということを、よくテレビや、ネットなどを見ているうちに、感じてしまったり、またはそのように考えることが多くなってしまっている状況があるわけであって、これは決して、私一人だけが考えている問題ではなく、多くの人も、もしかしたらそう感じるのかもしれない、あるいは既に感じているのだという可能性も否定はしきれず、だからといって、私は決してインターネットや携帯が不要であるとか、完全に排除するべきであるなどというような極端な考え方を持っているわけでもなく、ただ単純に、その便利さというか、有益な側面が存在する一方で、その反面として、不便さや害というか、マイナスな影響のようなものも同じくらい存在しているように思えてならないのだが、その一つの例を挙げるとするならば、私自身も最近よく経験したことなのだけれども、たとえばレストランや喫茶店のような飲食店で食事をしたり、飲み物を注文する際に、以前であれば、ごく普通に店員に注文を伝えるのが一般的であり、それが自然であったにも関わらず、最近では、多くの店がタブレットを使って注文を行うようにされてしまっているせいで、私のような古い人間からすると、注文をするときに、非常に戸惑ったり、困惑するということが、もはや日常的に、あまりに当たり前すぎるほど頻繁に起きており、また、そのことによって、店員とコミュニケーションをとる機会が全くなくなったり、あるいは本来必要なコミュニケーションがそもそも存在していたことすら忘れてしまったという若者も多いのではないかと思うところであり、そのような社会の変化は果たして本当に望ましいものであるかどうかについては、私自身がその判断をできるほどの知識を有しているとは思わないのだけれども、少なくとも個人的には、こうした技術が普及されている状況を目にするたびに、一抹の不安や寂しさのような感情を抱えていることは否定できないし、しかしだからといって、それが社会全体にとって完全にマイナスであると決めつけるような、根拠や理由は持ち合わせていないし、むしろ私が古い感覚や古い価値観に囚われすぎているだけではないかという自己批判のようなものも、私自身の心の中には常に存在しているということも、きちんと理解はしているつもりであり、それに加えて、私が若かった頃と、現在の若者たちが過ごしている時代や状況というものは、そもそも全く異なったり、比較すること自体が不可能であることも理解しているつもりなのだけれども、そうした理解がある一方で、時代の変化に対する受け入れがたさのような、矛盾した感覚を感じる自分自身に対して、私はどのように折り合いをつけるべきかということについて、なかなかうまく答えを見つけ出すことができていない状況であり、その答えが見つからないことによって、日常的に、小さなことで不安や焦燥感を感じてしまっていることが増えているように思うが、その一方で、これらの問題が本当に真剣に取り扱うべき問題であるのかどうかということすらも、自分自身の中で疑問に感じられる瞬間が多々あり、それは私が自分自身の考えをまとめることが、以前より苦手になっているという理由なのか、それとも社会全体がますます複雑化され、問題があまりにも増えすぎてしまった結果として、もはや私たち自身が正しく認識することすら難しくなっていることの結果なのかどうかさえ、わからないのだが、しかしその答えを追求しようとする努力すら、私にとっては非常に負担の大きいものとなりつつあり、結局、日々考えれば考えるほど、より混乱したり、考えそのものがまとまらなくなってしまい、結果的にこうして、ますます自分の言いたいことや伝えたいことが、文章として正しく伝わらないまま、いつまでも長く書き続けてしまうという状況になってしまっているのであるが、このような状況になっているのは、自分自身の能力不足のせいなのか、それとも技術や社会構造の急速な変化に追いつけていない私のような存在が、もはや現代社会においては避けられない必然的な現象の一つなのかということについて、私はまだ結論を出すことができないでいるのだ。