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2025-03-07

キャラクター私物化について考える」

キャラはお前のものじゃない」

そんな言葉が頭をよぎることがある。

二次創作において、解釈自由は誰にでもある。

A×Bが好きな人もいれば、B×Aが好きな人もいるし、解釈の違いで争うつもりはない。

でも最近、「キャラ自分のものにしすぎでは?」と感じることが増えた。

具体的には、以下のような行為のことだ。

問題提起(具体例を挙げる)

「○○の女」「○○の母」といった所有感の強い呼称

「○○と言えば××さん」という解釈固定化

自分オリキャラテンプレキャラを改変する」行為

これらが、なぜか「公式でもないのに、公式以上にキャラを所有しようとしている」ように見えてしまう。

「○○と言えば××さん」—— その一言が、他の○○推しを潰し、界隈を過激化させる

「○○の女」「○○推し」「○○担」

そういった言葉で、キャラ作品ファンが盛り上がることは、決して悪いことではない。

だが、そこにもう一つ、見逃せない現象がある。

「○○と言えば××さん」

これは、一見すると単なる称賛だ。

「××さんが描く○○くん、最高すぎる!」

「××さんの解釈が、ほぼ公式!」

「××さんの○○イラストを見て、○○を好きになった!」

その気持ちは、めちゃくちゃ分かる。

実際、自分も「この人の解釈、めちゃくちゃ刺さる」と思うことはある。

だが、ふと気づいた。

「○○と言えば××さん」

—— それ、本当にただの称賛か?

「○○を描くなら、やっぱり××さんだよね」

「○○は××さんの解釈が一番しっくりくる」

「××さんの○○が完璧すぎて、他の人の○○が目に入らない」

「××さんの○○に影響されすぎて、公式の○○が解釈違い」

こうして、「○○を描きたい」「○○について語りたい」他の人は、次第にこう思うようになる。

「私の解釈なんか、わざわざ出す必要あるかな……?」

「○○を描きたいけど、××さんと違う方向性だし、荒れるかも……」

「○○推しの間で定着したイメージと違うから発言しにくいな……」

そして、こうなる。

「○○について語るのは××さんだけでいいよね」

「○○は××さんの解釈が完成されてるから、新しいもの特にいらない」

……いや、それ、普通に怖くないか

「○○推し」のはずなのに、○○の話ができなくなる空気

「○○が好き」だったはずなのに、なぜか「○○を語る資格」が問われる状況。

こうして、「○○推し」は減っていく。

「○○について自由に話せる空間」ではなく、「○○について話していい人が決められる空間」になっていく。

しかし、問題はそれだけでは終わらない。

解釈固定化が進むと、公式が新しい情報を出したとき問題が発生する。

「えっ!?公式、××さんの解釈と違うこと言ってるけど?」

「いやいや、○○はこういうキャラじゃないって!」

「○○の解釈、壊された……もう終わりだ……」

そして、一部の○○推し過激化する。

「こんなの○○じゃない!公式わかってない!」

公式解釈違い、○○は××さんの描く姿が本物」

「こんな展開、ありえない!炎上させるべき!」

その結果、どうなるか。

「○○推しって、怖いよね……」

もはや、○○自身は何もしていないのに、○○の印象が悪くなる。

キャラは誰のものでもないはずなのに、気づけばファン言動キャラの印象を決めてしまっている。」

「○○の女」「○○推し」と名乗ることが、いつの間にか○○の"顔"になってしまう。」

もちろん、推し大事に思う気持ち尊い

でも、「○○が好き」という言葉が、なぜか「○○のファンは面倒くさい」につながってしま現象には、少しだけ違和感を覚える。

本当に、○○のことを大事にしたいなら、推し名前を掲げて暴れることが、最善の方法なんだろうか?

そんなことを、ふと考えてしまう。


「○○と言えば××さん」

これには当然いろいろな亜種がある、その中でもひとつ違和感を持ったものをついでに挙げておく。

推しのケモ化」である

推しのケモ化」そのものは、二次創作としてよくあるし、それ自体否定するつもりはない。

例えば、ファンタジー作品獣人キャラを、より獣らしく描いたり、動物モチーフにした作品でその要素を強調するのは自然なことだ。

でも、問題は「何でもかんでも、描き手の好きなケモフォーマット、それも描き手のオリケモのテンプレートに押し込める」ことだ。

そのキャラ個性世界観を考えた結果のケモ化ではなく、

「どんなキャラでもこの形にする」 というやり方。

たとえるなら、

キャラをケモにする」のではなく、「キャラをオリケモテンプレの型に流し込んでいる」 感じだ。

これが違和感の正体だ。

推しの要素が衣装や小物しかない。

顔は同じ。

体つきも同じ。

ついている耳と尻尾もみんな同じ。

「○○くん(ケモ化)」ではなく、

「△△さんのオリケモフォーマットに、○○くんの服を着せただけの何か」 になっている。

例えば、こういうのを見たことがある。

「この作品の全キャラを、私が考えた“オリケモ”にしました!」

推しを私のケモテンプレに当てはめました!」

「全キャラ共通の耳と尻尾をつけ、体型・顔は統一!」

そこには「キャラのケモ化」ではなく、

推しの顔を消して、自分フォーマットに取り込む行為」がある。

たとえるなら、キティさんの着せ替えのようなもの

顔や体つきは全部同じテンプレ

服や小物だけ、そのキャラっぽい要素を足しただけなのに「○○くん」として扱われる

キティさんはもともとそういうキャラからいい。

公式キャラをそうやって「何でもかんでも、自分フォーマットに落とし込む」のは、

もはや「推し二次創作」ではなく、「推しの吸収」 ではないか

…いや、これも一種解釈範囲なのかもしれない。

キャラデザインを変えること自体は、二次創作自由の一環として許容されるべきなのかもしれない。

だとしたら、とやかく言うべきではないのだろう。

問題はここから先だ。

この「ケモテンプレに飲み込まれキャラ」を、その姿のままグッズ化して販売しているのをよく見る。

「このキャラは○○っぽいからケモ化しました!」→ わかる

ジャンル関係なく全キャラをケモ化しました!」→ まぁ個人自由

「そのデザインでアクキー作りましたBOOTH販売中です!」→ ……???

俺は厄介なオタクである自信がある。

更に付け加えると、そのキャラのグッズはほしい。

公式から供給が少ないと特にそう思う。

だが、俺が欲しいのは「そのキャラのグッズ」であって、キャラ個性無視してテンプレートに押し込められた、別の存在ではない。

公式供給が少ないのはわかる。だからこそ、ファン二次創作のグッズを作ること自体否定しない。

だが、いくら供給が少ないからといって、俺の「○○くんグッズ欲しい!」という欲求を満たすものが、「俺の知らない姿に変えられた○○くん」だったらどうだろう?

公式がグッズを出してくれないなら、自分で作る」→ わかる。

推し二次創作グッズを作る」→ まぁアリ。

推し自分のケモフォーマットに落とし込み、その姿でグッズ化して販売」→ ……???

俺は「○○くんのグッズ」がほしいのであって、

「○○くん(※ただし△△さんが考えたケモフォーマットで変換済み)」のグッズがほしいわけではない。

もはやこれは、「二次創作グッズ」ではなく「オリジナルグッズ」なのではないか

公式がグッズを出さないからこそ、ファン供給を補う気持ちはわかる。

でも、それが「公式キャラ」ではなく「個人解釈押し付けられた姿」であるならば、

それを「推しグッズ」と呼んでいいのか?

俺は、公式の○○くんがほしい。

俺の知らない姿に変えられた○○くんではなく。

これはケモに限らず、女体化などの○○化にも当てはめることができるのではないだろうか。

まとめ。

解釈自由だし、二次創作は誰のものでもない。

でも、キャラ根本的な部分は、あくま原作にある。

「○○は俺のもの

「○○と言えば××さん」

公式の○○は解釈違い」

「○○はうちの子

「○○の○○化!」

そういう言葉を見かけるたびに、少しだけ違和感を覚える。

そのキャラは、本当に「そのキャラ」なのか?

俺には、わからなくなるときがある。

Permalink |記事への反応(2) | 12:02

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記事への反応 -
  • 一人称だけ変えても女の文章丸出しで草

  • n次創作者からするとBOOTHでグッズ販売までやってないから界隈が違いすぎてビビる グッズ販売そのものが己の所有物化みたいなところあるしな 公式のキャラをそうやって「何でもかん...

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