士郎正宗の原作の改変ポイントで一番大きいのはバトーの設定だよな。
士郎正宗の原作ではバトーは少佐への恋愛感情ってなかったよな?
それがGHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊では当たり前のようにバトーは少佐に恋していて、
イノセンスでは映画丸ごと一本使ってバトーの少佐への純愛を描いている。
あなたがネットと繋がってるときにはいつも私がそばにいることを忘れないで
なんてことを言っている。
これはなかなかキツイ台詞だと思う。セックスさせる気もないくせして。
というかなんで純愛なんだろう?
あれか?
という世界観で出来上がっているということか?
士郎正宗の原作ではサイバー世界で少佐は感度を最高に高めるプログラム(ドラッグのようなもの)を注入しながらセックスをして、その疑似体験を闇で高額で売りさばいたりしている。
しかし、イノセンスの世界ではそのようなものは存在しないのかもしれない。
などと、勝手な妄想を、イノセンスを見たあと考えたりしていた。
むしろ20年寝かしたほうがより面白く感じられる映画だと思う。
これは見るほうが20年の歳月を経てすっかりオッサンになってしまったからだと思う。
若者がオッサンの純愛を見るよりも、オッサンがオッサンの純愛を見るほうがより感じるものは多いだろう。
CGを使った映画はその先進性ゆえに年月により劣化して陳腐さが際立つケースもあるがイノセンスに限ってそのような部分はない。
ただ但し書きしなければいけないのは、当時ですら、これはちょっとCGの使い方として陳腐じゃない?
と指摘された箇所が複数あるということだ。
例えば、ボートハウスの蔵書。同じ形の本がズラッと書棚に並んでいる姿に、CGで手抜きをしているという指摘が当時もあった。
インテリアとしての本でありひとつの統一性を保たせるためにわざとこのような本棚になっているのを再現しているのだ。
おそらくは我々が抱く違和感のようなものはすべてそれは受け手側の無知ゆえに感じる違和感なのである。
そして意外に忘れていない。
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 に比べると随分と地味な印象がある作品だから、
すっかりと内容なんて忘れていると思っていたがしっかりと覚えている。
このへんは複雑なようでいてストーリーラインがシンプルでわかりやすい押井映画の真骨頂なのかもしれない。
そして、これぞ押井映画の真骨頂だと感じて、そして自らの行為に驚いたことがもう一つ。
いや、もちろん長くは寝てない。
時間にして2秒とか3秒とかだと思う。
イノセンス、面白えええなあ、と思いながら見ているオッサンすら一瞬とは言え、眠くさせるというのは、これぞ押井守の映画の真骨頂だな、と映画見ていて笑いそうになってしまった。
ちなみに眠りそうになったシーンは検死解剖のシーンとデジタルねぶた祭のシーン。
そうしないと映画にならない、という固い信念を持っているらしい。
と話がズレるけれど、これはAKIRAとか見たあとには、そうだよな!と実感を持ったりする。
AKIRAってもうこれは海外クリエイターに絶大な影響を与えた金字塔のようなアニメーションなんだけど、
全編ハイテンションでおおすげえええ、って思うシーンの連続なんだけど、見終わったあとになぜか?何も残らない不可思議な映画なんだよな。
なんか、ああすごかったねえ、ああ疲れた、ってなんかジェットコースターを一回乗りおわったあとみたいな感覚しか残らない。
それは多分、あの映画にダレ場がないせいなんだろうな、全編ハイテンションのものすごい勢いで突っ切る映画故に、見終わったあとに爽快感と疲労感だけが残って映画そのものは残らない。
デジタルねぶた祭りが見せ所だろ
デジタルねぶた祭りが見せ所だろ