7月25日の13時から行われた東京オリンピック女子ロードレースで起こった奇跡について書いた前回の記事(https://anond.hatelabo.jp/20210727115101)が思いがけず多くの人に読んでいただけたようなので、その時に2位となったオランダ選手についても解説してみました。
そう、前にいたキーゼンホファー選手を見落として自分が1位だと思ったまま、2位でゴールしてしまった彼女の物語です。
名前はアネミーク・ファンフルーテン、1982年生まれの38歳です。
38歳という年齢は選手として決して若いとは言えませんが、現在でもスペインのプロチーム「モビスター」に所属し、エースを務めています。
「エース」というのはそのチームで1番の実力者であり、チーム全員が力を合わせて1位を取らせる人です。
他の選手は「アシスト」となりエースの前を走って風よけとなったりしながら、エースの脚を温存させてゴール前まで送り届けるのです。
そんな彼女が自転車競技を始めたきっかけは、2007年にオランダのワーゲニンゲン大学で疫学の修士号を取得した頃に、同時に楽しんでいたサッカーを膝のケガのために止めることになり、自転車競技に参加するようになったそうです。
スタートは遅かったですが、その後順調に自転車選手としてのキャリアを積み上げ、2009年にはプロチームと契約し、2012年のロンドン五輪では4人のオランダ チームの一員として女子ロードレースに参加して、オランダの選手が金メダルを獲得するのに貢献しました。
そして、2016年のリオ五輪にもオランダ チームの一員として参加しました。
しかし、ここで今回の東京オリンピックで何としても金メダルを獲得したい理由が生まれてしまったのです。
リオ五輪の女子ロードレースは全長137kmのコースで行われ、彼女はゴールまで残り約10㎞という地点で2位に差をつけて単独1位となっており、金メダルをほぼ手中にしていました。
しかし、そこは前日の男子ロードレースで複数の選手が転倒して鎖骨や骨盤や肩甲骨を骨折するという事故が発生していた魔の下り坂だったのです。
そして、ファンフルーテン選手も右カーブを曲がる際に一瞬後輪がスリップしてコントロールを失い、かなりの速度で落車して頭から地面に叩きつけられてしまいました。
その結果、重度の脳震盪と腰椎の3か所を骨折し、直ちに集中治療室に搬送されるという大ケガを負ってしまったのです。
レースは当然、リタイアでDNF(Did Not Finish:ゴール出来ず)扱いとなり、同じオランダの選手が金メダルを獲得しましたが、彼女自身はメダルを手にすることは出来ませんでした。
そんな経験をしている彼女が今回の東京オリンピックでの金メダル獲得に並々ならぬ意欲を抱いていたことは想像に難くありません。
リオ五輪で大ケガをした彼女はその後、事故から10日目には自転車に乗り始め、その年のベルギーツアーというステージレースで総合優勝を果たすというとんでもなく順調な回復を示しました。
ステージレースというのはオリンピックのロードレースのように1日で終わるワンデーレースではなく、様々なステージ(コース)を舞台として何回もレースを行い、その総合成績で勝者を決めるという形式のレースです。
2016年のベルギーツアーは全4ステージ、4日間というものでしたが、有名なツール・ド・フランスというような大きな大会になると、今年は全21ステージ、2度の休憩日をはさんで全23日間で3,383kmを走破するという過酷なものになります。
彼女はその後の4年間も様々なレースで勝利を重ねており、万全な体制で東京オリンピックに乗り込んできたものと思われます。
またチームとしても、パレードスタート後あまりの暑さに冷たいボトルを無理やり背中に突っ込んでいる選手もいる中、オランダ チームの4人はオレンジのジャージの上に揃いの白いアイスベストを着ていたことから準備万端整えてきたことが伺い知れました。
ちなみにパレードスタートというのは、今回のコース全長147kmのうち最初の10㎞は観客への顔見せのため、選手全員が先導車の後についてゆっくりパレード走行するというものです。
TVのニュースやネットで自転車の集団が神社の境内に突入していく映像を見た人もいるかもしれませんが、あれはパレード走行中の映像です。
さすがに多くがプロの選手とはいえ、本気で走っている時にあそこを集団で走り抜けるのは無理があるでしょう。
また、パレード走行中も選手同士は集団の中でどの位置を確保するか戦略を巡らせています。
オランダ チームは4人並んで集団の先頭を堂々と走り、キーゼンホファー選手はスタート直後から最後尾を単独でずっと走っているのが確認できます。
そして、10㎞を走ってアクチュアルスタート地点の是政橋を過ぎたところから、本当の戦いに雪崩れ込んでいったのです。
レースは前回の記事で説明したように、スタート直後にキーゼンホファー選手を含む5人が飛び出して逃げ集団を形成し、しばらくは何事もなく進んでいきました。
ところで、逃げ集団は最後にはほとんどの場合、メイン集団に追いつかれてしまうのになぜ良くつくられるのでしょうか。
理由の一つは、万が一にでも勝てる確率があるからです。逆にメイン集団に残った場合、ゴール前までついていけたとしても「ゴールスプリント」と言われるゴール前数十メートルから数百メートルで行われる最後のラストスパート争いに「スプリンター」でないと勝てないからです。
スプリンターというのは長距離は苦手だが、短距離を爆発的な加速力で速く走るのが得意という選手のことです。
特に今回のオリンピックの場合、国毎に参加人数が違うので単独で参加している選手はスプリンターであっても、他の国がスプリンターにアシストを付けている場合、ほとんど勝てる可能性は無かったでしょう。
メイン集団にいると先頭付近にいないとカメラに映ってもほぼ分かりませんが、逃げ集団であれば必ずカメラに映れます。
目立ちたい理由は選手によって「家族に見てほしい」や「より良いチームにスカウトされたい」というものがあるようです。
さらに、有力チームが逃げ集団に選手を送り込んでおくというのもあります。
万が一、逃げ集団が逃げ切ってしまった場合でも勝利の可能性を残しておくという目的もありますが、逆に逃げ集団のペースをわざと遅くさせて、確実にメイン集団が追いつけるようにするという目的の場合もあります。
そしてレースに戻ると、ゴールまで残り約80km弱の地点に近づいた時にそれは起こりました。
ファンフルーテン選手の前を走っていた選手が突然、転倒したのです。
実は前日の男子ロードレースでもまったく同じ場所で5人が落車するという事故が起こっていました。
道路に横たわった選手と自転車を前に彼女もブレーキを掛けますが止まり切れず、相手の自転車に突っ込んで前に投げ出される形となりました。
映像を見ると分かるのですが、2車線道路の中央部分に細い溝のような部分があるのが見て取れます。
どうやら、この部分でタイヤを取られて転倒してしまったようです。
バイクや乗用車のタイヤの太さなら問題ないのでしょうが、ロードバイクの細いタイヤにとっては危険な構造になっていると思われます。
今後もし、同じコースでロードレースが開催されることがあれば何らかの対策が欲しい所です。
幸い速度が落ちていたため大きなダメージは無かったようで、彼女は直ぐに起き上がりました。
しかし、2台の自転車は知恵の輪のように絡み合ってしまってはずれません。
すると、サポートカーから降りてきた男性が2台を引き離してくれ、転倒した選手の自転車は交換となりましたが、ファンフルーテン選手はそのまま自転車に乗り、再び走り始めました。
しかし、落車した瞬間はリオ五輪の悪夢が脳裏をよぎったことでしょう。
ロードレースでは暗黙の了解として、落車した選手がいた場合などは集団のスピードを上げずに、その選手が集団に復帰してくるのを待つという慣習があります。
また、サポートカーを風よけにして後ろを走るのは普段は許されませんが、こういう時は暗黙の了解で許されたりします。
そうして、メイン集団に復帰してしばらくすると、ゴールまで約60kmの山伏トンネルの手前でアタックを掛けて先行し、一時はメイン集団から1分以上先行しました。
しかし、それでも逃げ集団との差は5分以下には縮められず、ゴールまで約30㎞ぐらいの地点でメイン集団に戻ってきてしまいました。
さすがに5分以上先行している逃げ集団に一人で追いつこうというのは無茶だったようです。
レース後のインタビューで3位になったイタリアの選手が「逃げ集団を追う責任はオランダにあった」と言っていますが、これもロードレースの暗黙の了解のひとつで、そのレースで一番強いと思われているチームはメイン集団をコントロールし、レース終盤に確実に逃げ集団に追いつくよう集団のペースを調整する責任があるという考え方が下敷きにあります。
今回オランダ チームはその責任を果たすことが出来なかったわけです。
ファンフルーテン選手が山伏トンネルの手前で逃げ集団を追うべく先行したのはタイミングとしては正しかったと思いますが、さすがに一人で追いつくのは無理なので他のオランダ チームの選手も同調して動くべきだったと思います。
これは単に無線が使えなかったからというよりは、誰がエースで誰がアシストをするかというチームとしての戦略が徹底されていなかったか、あるいは最初からそんな戦略が無かったように見えました。
オランダ チームの4人はそれぞれがすごい人ばかりなので、調整がつかなかったのかもしれません。
終盤はメイン集団の先頭をオランダ チームの4人が並んで引っ張るシーンもありましたが、時すでに遅しで富士スピードウェイに入ってから2位と3位のイスラエル、ポーランドの選手には追いつくことが出来ましたが、キーゼンホファー選手の背中を見ることは最後までありませんでした。
そうして前にキーゼンホファー選手がいることに気がつくことなく、彼女は自分が1位と信じてガッツポーズをしながら2位でゴールラインを越えたのです。
ゴール時のガッツポーズは暗黙の了解として1位の選手のみがするものとなっているため、彼女が自身を1位だと思っていたのは明らかでした。
ゴール後に自分が2位だったことを知らされ、レース後のインタビューで「銀メダルでも美しい」と答えたファンフルーテン選手の胸中はどのようなものだったのでしょうか。
仮に現国の試験で「この時の選手の心境を説明しなさい」という問題があったら、いくらでも書けそうな気がします。
女子ロードレースが行われた3日後の7月28日、彼女は富士スピードウェイのスターティンググリッドに自転車に乗って立っていました。
個人タイムトライアルというのは、ロードレースと違い数分間隔で選手が一人ずつスタートし、単独走行でゴールするまでのタイムを競うという競技です。
今回は富士スピードウェイとその周辺道路に全長22.1kmのコースが設定され男子は2周、女子は1周します。
それも22.1kmを30分13.49秒というタイムで走り切り、2位に約56秒差という圧倒的大差をつけての1位でした。
この差がどれだけ圧倒的かというと、2位と3位は4秒差、3位と4位は7秒差、4位と5位は4秒差でしたので、どれだけ彼女が頭抜けた選手なのかが良く分かります。
最後の走者がゴールして金メダルが確定してから表彰式が終わるまで、ずうっと嬉しさ爆発という感じで喜びの表情だったのが印象的でした。
歓喜の様子はNHKの見逃し配信(https://sports.nhk.or.jp/olympic/highlights/list/sport/cycling/)で「女子個人タイムトライアル」とタイトルに入っている動画の1:12ぐらいから見られます。
しいて言えば、タイムトライアル競技のコースというのは普通、平地が主体のコースとなるのが通例なのですが、今回は富士の裾野にある富士スピードウェイとその周辺道路がコースとなったため、タイムトライアル競技としては珍しく上り下りの多いコースとなっていました。
そのため、タイムトライアル競技に特化した選手は記録があまり伸びなかったものと思われます。
それでも彼女と同じオールラウンダー型の選手も大勢参加していたので、彼女のすごさは変わらないでしょう。
しかもレース後のインタビューによると、タイムトライアル用の自転車にはDHバーという肘を載せるパッドがついた前に2本の棒が突き出した形の部品がハンドルの上に付けられているのですが、棒の先っぽにギヤの変速(シフト操作と言います)を行うためのレバーやスイッチが付いています。
このスイッチが本番で機能しなくなり、ハンドルのブレーキバーについている本来のシフトレバーを使うしかなくなってしまっていたそうです。
シフト操作自体は出来るとはいえ、タイムへの影響は避けられなかったでしょう。
それでもこの圧倒的大差です。
また、件のスイッチはレース後は正常に動作して、レース前の確認でも正常だったため、これは仕方がないということで整備したメカニックが怒られることは無かったそうです。
ちなみに、キーゼンホファー選手は個人タイムトライアル競技には出場していませんでした。
もし、この競技を得意とするキーゼンホファー選手も出場していたら、ものすごく興味深い対決となっていたことでしょう。
こうして彼女の東京オリンピックは今度こそ本当に終わったのです。
その後、彼女はオランダには帰国せず直接スペインに飛び、7月31日に行われた「クラシカ・サンセバスティアン」という全長約140kmのワンデーレースに出場して、最後は独走で優勝したそうです。
東京オリンピックのロードレースで金メダルを逃した影響の心配はいらないようです。
ロードレースの基礎知識を盛り込んだら随分と長文になってしまいました。
今後も機会があったらロードレース観戦を楽しんでいただければと思います。
それでは、またいつの日か。
きんもー☆
乙。面白かったです。 これを機に日本でもっと自転車の地位が上がりますように。
こういう人間がいると俺のランキングが下がるからやめてほしいんだよな
なんかロードレースって学者がやるもんなんかね
素朴な疑問なんだけどキーゼンホーファーさんはどうして出てなかったの? 参加資格的な条件を満たしてなかったとか?
オーストリアの女子タイムトライアルの五輪出場枠がゼロだったからですね。 https://www.uci.org/docs/default-source/official-documents/tokyo-2020---olympic-games/liste-des-noc-qualifi-s-we-2020.pdf?sfvrsn=80812727_8
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長い3行で頼む
こういうこという人見るとちょっとずれてるかもしれないけどベリーのパラドックスをつきつけたくなる
五輪女子ロードレースが勝てないはずの先行で勝っちゃったよ。 オリンピックのルールとコースに助けられた部分もあるけどね。 それにしても凄いのでまだ見れるサイトもあるから見て...
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自分が素晴らしいと思ったポイントは、優勝者の女性がチームもコーチもなく、自分で鍛え、考え、動き、優勝したという事実。集団戦が基本のようなスポーツの中で、たった1人の闘い...
日本人って柔よく剛を制すというか、小兵が大兵を倒すみたいな話大好きよね
世界中が大好きだぞ
恐らくロードレースの中でも多くの人の記憶に残る試合だろうね オリンピック競技としても記憶に刻まれるし面白いよな
女子ロードレースってプロ最高峰のレースでも運営がグダグダなせいでお取潰しの目に遭いかけたくらいには舐め腐ったレース続けてるんで今回の事は事件として記憶に残るだろうな 男...
解説付きの再放送が決まったら起こしてください
今回の女子ロードで元増田が触れていないすごいところをもうひとつ。自転車ロードはいちおう個人競技ということになっているが、実質的にはエースとエースをゴールに届けるという...
普通に元増田が触れてるじゃん
少人数で逃げた人達だけの即席のチームで、先頭を交代して走っていたことも忘れてはいけない。
なるほど,一人だけの国も結構あるね。
有名所にしか興味ないと不思議に思うかもしれんけどそもそも無線が使えるレースが極少数派なんやで
【ライブ動画で検証】女子自転車ロードレースで強豪のオランダ勢は逃げ集団とのタイム差を把握できていなかった模様 - 東京オリンピック2020 http://bicyclegeek.seesaa.net/article/482631446.html
ごめんズイフトでいうとこないだ始めた初心者が世界ランク1位になっちゃったみたいなこと?
コロナが大変な事になってるのにどうでもええわ
どうでもいいよ。麻原が空中浮遊したようなもんでしょ
赤白のアンナとイスラエルが逃げているって情報が入っていたんだけど 赤白のアンナはオーストリアとポーランドの二人いたのは知らなかったってオチだったりして
やっぱ女子スポーツは未熟なんかね しかしそれゆえに意外性のあるドラマも生まれると 高校野球みたいなもんか
面白くない競技だね
なるほど、分かり易かった ありがとう、面白い記事でした!
わかった気になってるだけ
他人の語った物事はそんなもんやで
論点変わってすまない。 参加人数が1人のオーストリア選手と、参加人数が4人のオランダでは空気抵抗云々の影響で前者が不利ってことだけどさ、 じゃあ参加人数が1人の選手はオランダ...
その場合、4人チームの最後尾の1人は気付かれないように手抜きをして前との間隔を空け、同時に前の3人は一気に加速します。金魚のフンは加速してくれない選手を避けつつ3人を追うこ...
逃げをちゃんと把握していても追いつけなかった、というのはどうだろうな。 確かに逃げ集団の実力を見誤って落ちてこなかったのはあるけど落ちてきた2人を交わした時点で牽制も入っ...
ブコメ1000付いてるのは久々かもしれん
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ブクマに書くのも無粋だからここに書こ 30位以上で二本入ったわーい 去年までも入ったけど3桁ブクマで下の方がギリギリだったんで
増田って〆12月なんだ
あとで読む(かも
俺の記事があった
ダンス甲子園増田だろ?
オイルぬってメロリンQ♪