決まった場所にたどり着くまでに無意識にどっかに置いてるという
貼り紙は視界に入らないし呟き続けてもふっと自分が何言ってるかわからなくなる
5分前にやろうと思ったことが思い出せない
推奨環境とかシステム要件とかハードウェア要件とか、要するにソフトウェアの箱に書いてある(かつて書いてあった)メモリがどれだけ要るとかCPUがどうだとかいうやつって、どうやって決めてるの?
積算みたいな根拠があって決めてるのか、それとも「常識的に考えてこのぐらい要るだろ」みたいな感覚で決めてるのか、あるいは動作試験やって「これじゃ厳しいわ」って決めてるのか、どうなの?
一旦PC側でネットを切ってから再接続したら繋がることは繋がるんだけど、
10分くらい使ってるとまた切れる感じ。
これがただ単に繋がらないだけじゃなくて、『GoogleとYoutubeにだけ』繋がるっていう謎な感じ。
ブラウザのキャッシュとかじゃないよ、見たことない動画とかでもちゃんと見れるから。
なんだろうこれ、誰か助けて。
ろんぐらいだぁすとかの万策尽きた系のアニメが頻発してる現状みると、
3年で動画から原画にあがれないやつはクビを切るという制作会社の制度は正しかったんだと思える。
下手なまま原画にあがられると作画クオリティが下ってアニメ全体が不安定になってしまう。
よく動画や原画は給料が安いっていう話を聞くが、それと同じぐらい原画の人手が足りないという話もきく。
原画の人手が足りてないのであれば需要のほうが高まるので給料も良くなるはずだし、
給料が安いという事は同じレベルの作業できる人が沢山いるという事だ。
ここから考えられる事は実際に足りてないのは「一定のレベルを越えた原画マン」であり
「一定のレベルを越えてない原画マン」は沢山いるのだという事だろう。
「一定のレベルを越えた原画マン」を多数のアニメで取り合うためアニメ業界が全体的に原画不足になってしまい
「一定のレベルに逹っしていない原画マン」が原画として参加する事でリテイク作業が増えスケジュールが圧迫し万策が尽きてしまう
そうすれば「一定のレベルを越えた原画マン」の奪い合いはなくなり作画も安定しスケジュールが圧迫される事もない
一般のアニメ視聴者からしてみても安定した作画のアニメが見れるので喜ばしい事である。
ここで問題なのはそうなったとしても動画や原画の給料事情は改善されないので「一定のレベル」を越えられない人たちはやはり苦しいのだろう
ASDと診断された、と言ってもうつ病の薬をこれ以上飲まないために検査を受けただけで、世間一般に言うほどめちゃくちゃ人間関係に困ってる、ということはない。
失感情が原因かもしれないが"生きづらさ"みたいなのはないし、子どもの頃から変な部分も「特性である」と理解してくれる友人に恵まれてイジメとかも受けたことがない。
学生時代はステージでの活動や時代錯誤な校則を変える活動なんかをしていて、実際に校則を変えたし、部活動でも優勝経験がある。
まず上の前提を読んで「IQ120とか自慢かよ」「結局自慢かよ」「ナルシストかよ」と思った人がいるかもしれない。
私は事実を脚色なく述べたまでであって「自慢をしよう」「他の人にマウントを取ってやろう」という気持ちで書いてるわけではない。
実際に指摘されたことがあるので、今は「ああ、これは自慢に見えるんだな」と思うことができる。
ASDや失体感・失感情をイベントを主催したりする上で障壁になるため、告白したところよく知らない人に「病気自慢かよ」と言われたこともある。
私も「コミュ二ケーション障害」と聞いて「普通に会話もできるし、一般的に"コミュ障"って言われてるようなことはないから、当てはまらないな」と思っていた。
でもそれだけじゃない。
こういう「これ書いたら自慢に見えるかな?」と思うことができない「他人から自分の発言がどう見えるか?」が分からないこともまたコミュ二ケーション障害らしい。
対面での会話時は逆に表情やジェスチャーが加わるので、誤解されることが少ないと思う。こちらもまた誤解することも少ない。
先の「それ取って」(http://anond.hatelabo.jp/20161104204321)なんかは日常生活では問題なく分かるし会話にも困らないけれど、私にはコミュニケーション障害がある。
一般に言う「コミュ障」はただの口下手であることが多いと思う。実際にはそれよりも広い意味があると理解してほしい。
「コミュ二ケーション障害」「コミュ障」は会話によるコミュ二ケーションが困難なこと、も含まれるがそれだけではないということ。
「私コミュ障でさー」とカジュアルに使われるほど一般的になっているけれど、そういう時に言う「コミュ障」と実際の「コミュ障」は別物であるということ。
先にも述べたようにだいたい「口下手」か「人見知り」に置き換えられると思う。それは「コミュニケーション障害」じゃない。
もし「いつも喋ってると言いたいことと違った風に解釈されて困る」っていうならコミュニケーション障害を疑ったほうがいい。
私のように自閉症特性は強めだけど、何も困っていない(実際は眠る時間がまちまちだったり、偏食があったり、感覚過敏があったり、前述の失体感で慢性の肩こりがあって突然倒れたりもするけど、まあ困ってない)人もいるんだし、もうちょっとカムアウトしやすい風潮になるといいな、と思った。
いつか自分のブログに載せたいな、と思っていたけど「病気自慢かよ」がネックになってアップできないでいたので、便乗してここに書いておく。
そういう心配なく、自由に「自分はこう思ってたんだけど、世間一般的にはこれが正しいらしい!」とか驚きを感じたことが書きたいなあ、と常に思ってるんだけど、元々趣味の方面で目立ってしまっているので、最近は自粛してる。
これもひとつの特性らしいけど、みんな仲良くしたほうが誰に取っても得だと思うので、誰かの特性を指差して笑ったり、さげすんだりせずにいてほしいなと思う。
最近特に思うけど自分の気に入らないことを見つけて「なんだとー!」って怒るのは、怒ってる方も疲れるんじゃないかな。
「自閉症特性は治すものではないので困ってないなら病院に来なくてもいいですよ」
困ってる人は病院へ行こう。
これも勘違いがあるけど、一般的に「コミュニケーションに問題がない」と言われているのは、自閉症スペクトラムの中でもアスペルガー症候群の人であるということ。当事者の人も勘違いしてることが多い。
なぜなら言語IQが高いのがアスペルガーの特徴で、動作IQが高いのが高機能自閉症の特徴だから。
これも広く知ってほしい。よって口下手な人や人見知りの人に向かって「アスペかよ」というのもまた違う。
(もちろん症状は様々なので、コミュニケーションに問題があるアスペルガーの人"も"いるとは思う)
個人的な意見だけど、実際に会ったことのあるアスペルガーと診断されてる人は外国語ペラペラだったり弁がたつ人が多い気がする。
困ってないカジュアルなASDは黙ってろっていう風潮もよくないと思う。同じASDなら仲良くしよう。
困ってるか困ってないかの分かれ目は、自己肯定感の有無だって聞くよ。
ASDはメンタルの病気じゃないので、メンタルヘルスを病まないように心がけよう。
ちなみに「対人関係で困らないように生活する努力」は子どもの頃からしてる。自分の場合は反発も多いけど、親の躾が厳しかったのも功を奏してる気がする。(就活や転職、アルバイトの面接でも落ちたことがない)
困ってないASDを見て「楽しやがって」って怒るのは違うと思う。それはうらやましいからだよ。
全然楽じゃないけど、何かを頑張って結果が出ると嬉しいから色々試行錯誤する。
うらやましいと思うなら頑張ろう。私は今困ってないのはその分頑張ったからだと思ってる。
「生きづらさ」がもし社会的エチケットに起因するものなら、頑張って身につけるべき。
アンガーコントロールだってできる。視覚過敏も聴覚過敏も対策できる。
それ以外は適当でも構わない。頑張りすぎるのが我々の特性でもあるんだから。
「IQが高い=頭が良い」というのも勘違い。世の中の「これが解けたらIQ○○以上!」っていうのに毒されすぎだと思う。
IQっていうのは器用さみたいなもんで、普通の人が普通にするようなことができないから、それを補うために上がってるらしい。
だから標準が最善と考える私にとってはIQが高いのは恥のような感覚がする。
学歴だけの話をすれば、数字が上手く記憶したりできないからめちゃくちゃ頭悪いよ。
普通に生活できるならそんなものは必要ないと思うし、何か恩恵を受けたこともない。
余談だけどIQを上げる塾、みたいなのも世の中にはあってIQだけ上げたいなら訓練すれば上がるらしい。同じようなテストを受けたことがあるかどうか聞かれるのはそのため。
あと全発達障害者や全ASDが人間関係に困ってないといけない、みたいなのやめよう。
(これを自分の中で「かわいそうマウント」と呼ぶことにしてる。かわいそう、かわいそう、と言いながら相手が困窮してる状態を望んでいる様。)
繰り返しになるけど、困ってるのなら病院に行くこと。
「生きづらい」と思うことがまず普通の状態でないということを知るべきだし、まずメンタルを治してから生活習慣を身につけたり何やりするべき。
自分の居心地のいい環境を作ることは普通の人と違う異常なことじゃなく、ASDにとっては「普通」と思うことが大事。
普通の人と同じことが出来なくても気にしない。
人に話しかけられたらニコッと挨拶するとか、行儀礼節をわきまえるとか最低限のマナーを守るぐらいでいい。
上に書いたみたいに、突然倒れたりすることがあるから特性を周りの人に知っておいてもらいたいのに、なまじ普通に見えるおかげか言ったところであまり正しく理解されない。
最近流行りのASDや発達障害の家族をコンテンツにした当事者以外の人によるイメージ操作もある気がする。(特別視しすぎ・失敗をネタにしすぎ)
もうちょっと発達障害者やASDに優しい世の中になってもいいんじゃないだろうか。
シロクマ先生の言葉を借りれば「よく発達した発達障害の人」といえるのかもしれない。
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20161018/1476751839
カトリックにおいて、聖餐のパンとぶどう酒は、実体としてキリストの体と血へと変化するとされるが、(化体説)
これに対してルターは、パンとぶどう酒の実体は変わらず、ただキリストの体と血の実体と共にあるのだとした。(共在説)
またツヴィングリは、パンとぶどう酒はキリストの体と血の象徴にすぎないとし、(象徴説)
カルヴァンは、パンとぶどう酒の実体は変わらないが、そこにキリストが霊的に存在しているのだとした。(臨在説)
こうした論争を聖餐論争、あるいは聖体論争という。
技術標準を採択するのに大きく関与したり世界的なルールメイキングの主導権を握ったり出来ないよな
昔のソフトウェア開発だとコンパイルをできる大型計算機ってのはとっても高価で一台しか無かったそうな
おまけにコンパイルするためには平気で1日とか2日とかかかっていたそうな
ソフトウェアにバグが混入しておるとその分の稼動が全て無駄になってしまうので
ソフトウェア開発者はコンパイルをする前に入念なチェックをしていたそうな
入念なチェックをフェーズに分けて行うための仕組みとしてウォーターフォール型というものが考案され
抽象的なソフトウェア仕様からコンパイルに書ける前のコードになるまで
段階に分けてソフトウェアにバグが無いかチェックしていたそうな
詳細設計書というのはその名残で、コンパイルをかけるときにバグがあってはならんから事前に設計するようにしたんじゃ
ところで結局ウォーターフォール型では各工程で不都合が生じたときに前の工程に戻ることが難しく
本当の意味でのソフトウェアの品質や工期が伸びてしまうのが大きな問題で
それを解決できないか試行錯誤しておるうちにハードウェアが進化して開発者みんながパソコンを持てるようになり
ソースコードを書きながらコンパイルできるようになったもんじゃからこの方法は海外では廃れてしまったのじゃ
一方日本ではウォーターフォール型というものが古来より日本の社会システムにある天下り制度とマッチしてしまったこともあり
ウォーターフォール型が大変好まれて今も使われているというわけじゃ
これが日本の大企業からろくなソフトウェアが生まれない理由なんじゃと思うのぅ
今、国家社会主義アプローチが嫌われてるのは、自民党がそもそも国家社会主義であることと、それからより保護主義的な民主党政権の失敗の影響だね
だいたい同感。経済的な価値が物事の価値すべてだと思い込んでるというかこういう話する奴とか身近でされると「うぜー」って思うだけ。
みんなの一部であるお前は命をとしてその所有権を守ろうとするだろうか。
所有権を主張するということは実力を持ってその権利を守るということだ。
みんなとやらにその実力があるなら示して見せよ。