Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

トップ>「自認○○」ミームへの批判について

「自認○○」ミームへの批判について

「自認○○」というミームが最近流行っているのですが、realsound.jpそれに対し「『自認〇〇』をミームとして笑うのは、性的少数者への差別につながるのでやめるべき」という意見が、SNSでのつぶやきや下記記事のような形で表明されることが目につくようになりました。note.comただ、それら「自認○○」ミームへの批判が、どうもピンとこなかったため下記のように呟いたところ。

けどやっぱりよく分からない。「性自認」が嘲笑の対象にされているからといって、それに対抗するために「自認」全体を笑うべきではないというのは、流石に戦線を拡大させすぎなのでは。

「『自認レゼ』というのも一つの尊重すべき自認なんだから、嘲笑せず受け入れるべきだ」という姿勢は、まあ個人の心持ちとしてはありかもしれないけど、社会的に共有されるべき倫理とするには無理があるでしょ。@darakeru.com on Bluesky

次のような反論をいただきました。

その文章で「『自認レゼ』というのも一つの尊重すべき自認なんだから、嘲笑せず受け入れるべきだ」という旨の主張はされていませんし、ミーム的用法そのものの批判をしていますよね。

文章でも説明されていましたが、トランスジェンダーを揶揄する目的で『⚪︎⚪︎自認』という言葉がSNS上で使われるようになり、その流れで『⚪︎⚪︎自認』が本来の意味とは違うニュアンスを含みミーム化したという背景があります。自認という言葉にそのニュアンスが付与されることによって、トランスジェンダー当事者が自分達を説明するための『性自認』という言葉にもそのニュアンスを読み取られるようになるという問題が起きています。

以下のスレッドでも書いていますが、思考実験や倫理の話でなく困っている人が実際に存在している問題だということをご理解いただければ幸いです。

@yoshi-miura.bsky.social on Bluesky@yoshi-miura.bsky.social on Bluesky

私もそう思いますよ、この数年のネット上でトランスジェンダーがここまでデマにまみれたバッシングをされ人格や人権を否定されていなければね。

こういうくだらないミームによって人々のトランスジェンダーに対する認識が歪んでいっても現状それを是正することは難しく、また容易にトランス差別の流れに棹さすことになる状況なので。

(この方の他のポストも読んだ上で)ネット上での『自認』の用法について「興味深い思考実験の題材」くらいの感覚で言及している人も多いようだけど、我々は思考実験の材料でなくあなたと同じ人間なんですよね。

「そのミームによって『性自認』という言葉とそれを必要とする人々の生活に悪影響が出るのでやめてください」という実害に基づく当事者からの要請である、という視点が欠けていませんか。

『自認』の元の意味をどうこう言うのは「『ホモ』は元々『同じ』という意味でそれ自体に差別的なニュアンスはない」と言うくらいズレてるんですよ。「害があるからやめましょう」というシンプルな話。

そして、“その程度の害”かどうかを害を受けることのない非当事者が判断しようとするのは全くもってナンセンス。

@yoshi-miura.bsky.social on Bluesky

しかし、これら反論に僕は次の2点から同意できません。

  1. 性自認と自認は異なる概念であり、性自認は確かに尊重しないといけないけれど、「自認〇〇」、特になんらかのキャラクターを自認するような自認は、そこまで尊重するようなものではないのではないか。
  2. ある単語をある人が不快に感じたからといって、即その単語を使うべきではないと結論を出すことはできない

この2点について説明した上で、自認〇〇ミームについての僕の考えを述べたいと思います。

1. 「性自認」と「自認〇〇」は分けて考えるべき

miura氏は

「『自認レゼ』というのも一つの尊重すべき自認なんだから、嘲笑せず受け入れるべきだ」という旨の主張はされていません

という風に述べていますが、元々の記事を書いたDr.ギャップ氏は次のように述べ、「性自認だろうが自認だろうが、それは尊重されるべき」と主張しています。

「自認」という言葉には「自分で認める」や「自分でそう認識する」という意味があります。そこには「実際には○○ではない」という含みはなく、その含みを「自認」という言葉に乗せたのは悪意や攻撃の意図でした。そうした背景がある以上、あくまで自虐としてのつもりであれ「自認」という言葉に「実際には○○ではない」という含みや、「本当」と「自認」の間にあるギャップへの皮肉・冷笑的なニュアンスを乗せることは、そのルーツにある悪意や攻撃を強化することにつながると感じます。

(略)

「自認」というものは、性自認に限らず客観的に証明できるものではなく、あくまで主観的なものです。その「性自認」が他の性の位相と──特に「身体の性的特徴」という客観的なそれと区別されること、そうして一つの位相とされることが、「客観的に証明できなくても、しなくても良いものとして、本人の認識を尊重しよう」という身振りに見えるのです。

つまり、「自認」というものが性に関することであろうとなかろうと、客観的に証明できなくても、しなくても良いものとして尊重しようと言っているわけです。

上記のような倫理基準に従えば、それこそ「自認レゼ」というような自認に対して、たとえそれを言う当人が、自分がレゼであることを証明できなくても、嘲笑の対象にせず、自認を尊重しなければならないことになります。

「『自認レゼ』というのも一つの尊重すべき自認なんだから、嘲笑せず受け入れるべきだ」という旨の主張が元記事に直接書かれているわけではありませんが、「自認は性自認に関わらずどんな自認でも尊重すべきだ」という元記事の一般的な原則を個別の事象に援用すれば、「自認レゼ」という自認もまた、認められるべきという結論になるはずです。

そして、それは難しいだろうと、僕は思うわけです。

僕はそもそもチェーンソーマンという物語をアニメ・漫画ともに履修していないので、レゼというキャラクターを自認することのおかしみはよくわかりません。

ただ、僕がわかる例としていうなら、「俺は令和の坂本龍馬」とかいってるようなおじさんは大抵、口先だけはでかいこと言うけど、そのために自分が実際に汗を流したりはせず、周りに迷惑をかけるような迷惑おじさんなので、あまり関わり合いになりたくないし、某令和の新撰組を名乗っているような人たちは、(そのひとたちの主張にはある程度同意できるにも関わらず)新撰組って身分制を強制している体制側について白色テロ繰り返していたような奴らじゃん、そういう奴らみたいなことしたいんだ?と、信用できなくなったりします。

ではそういった痛い自認と、性自認みたいな尊重されるべき自認は何が違うと言えば、「個別の具体名に対する辞任か、カテゴリーに対する自認か」ということだと思うんですね。

レゼにしろ坂本龍馬にしろ新撰組にしろ、実際にそういう個別具体的な存在がいた場合、それを自認するということは、その個別具体的な存在を乗っ取り、その功績・イメージを借りているわけです。坂本龍馬を自認しているようような痛いおじさんは、実際に薩長同盟船中八策によって明治維新に貢献した(?)功績を、自分にも重ねて欲しいという欲求が透けて見えるし、新撰組を辞任している連中は、新撰組のイメージだけ借りようとしてるわけです。

一方で、性自認のようなカテゴリーに対する自認はそうではない。「自分は男/女/ノンバイナリーetc...だ」とか言っても、別に「男/女だから〇〇」とか思われるわけではない(むしろ、そのようなジェンダーバイアスを批判するのが、性自認を認める立場)。そもそも、カテゴリーというものが実際は実在せず、社会的に構築されたものである以上、誰かが「自分は〇〇というカテゴリーだ」と主張するときに、それに対し「あなたは〇〇というカテゴリーではない」という批判をするのは、実際は単なる事実の主張ではなく「あなたという存在は〇〇というカテゴリーに入れるべきではない」という、規範的主張になるわけです。

そして、そのような規範が、多数派から少数派への押し付けられるということが、差別であるから、性自認をみとめないことは、性的少数者への差別であり、許されることではない。

一方で、自認レゼとか自認坂本龍馬とか言っている人は、多数派から少数派への規範の押し付けとか関係なく、実際にレゼでも坂本龍馬でもないわけです。である以上、別にそれを他者が尊重すべきとはならないし、「坂本龍馬とか自認するのは実際に何か成し遂げてからにしなよ(笑)」とか笑っちゃうことも、していいんじゃないかと思うわけです。

しかし、このように「個別の具体名に対する辞任か、カテゴリーに対する自認か」を分けず、「あらゆる自認は尊重すべきだ」という基準を採用すると、自認坂本龍馬とか、自認ジャンヌダルクみたいな痛い連中も認めなければならなくなる。それは流石に無理があるのでは、ないでしょうか。

2. 不快かではなく、差別かどうかこそが重要

元記事では「自認○○」というミームについて

  1. トランスジェンダー差別に「自認」という言葉が使われていて、今の「自認〇〇」ブームはその差別的な使われ方にルーツがある
  2. その気がなくても誰かを軽んじることにつながる

という2点から、使うべきではないと主張しています。

しかし、現在の「自認〇〇」という言葉にそのようなルーツがあるかどうかは、かなり論証が難しいと思います。例えば、僕はトランスジェンダー差別で「自認〇〇」という言葉が使われているのを知りませんでしたが、それでも「自認レゼ」という言葉をみて、「ああ、自分の好きなキャラクターの真似しちゃう中二病みたいなやつね」と思いましたし、実際知らずにそのような光景を見たら、自分も「自認〇〇」という言葉で表現するかもしれないなと思います。

そしてさらに言うと、差別的なルーツがあることだけである言葉を使わないようにするのは、結構難しいです。漢字の成り立ちというのは、実際はほとんど立証されているものはありませんが、それでも「『童』という漢字は刺青を入れられた奴隷から来ている」みたいに、差別的なルーツを持つとされているものがいくつもあります。だからといって、そのような漢字を使うのはやめようということにはならないわけです。

一方で、過去のルーツがどうであれ、その言葉は使わないようにしようとすることもあります。例えば「障害者」の害の字、最近は「がい」とひらがな表記したり、「碍」という字に置き換えたるすることがありますが、これに対して日本語の研究者が「障害者の害という字に差別的な意図はない」と主張することがあります。

ただ、そうであっても現在障害者という言葉は、障害者に対して「害」というネガティブなイメージを与え、健常者より劣ったものであるというイメージを定着させると認識する人が多いため、あまり使われなくなってきたりもしています。

つまり、ある言葉を使って良いとするか使わないとするべきかは、「過去そのような言葉にどのようなルーツがあるか」より、「現在どのように使われているか」が重要なわけです。

では、「現在どのように使われているか」の何を持って、使っていいか使わないべきかを決めるのか。元記事では「自認○○」というミームについて

自分が「自認」という言葉にジェンダーの文脈で触れるとき、そこには「その人の認識を尊重する」という前提のようなものがあると感じます。

(略)

そこに「本当は○○ではない」や「本人がそう思っているだけ」というニュアンスを乗せることは、それを聞く人の「自認」の捉え方を変え、他の誰かが使う「自認」を軽くすることにつながるでしょう。

と書いています。つまり、「自認○○」というミームを、自分はジェンダーの文脈で捉えるため、そこに違うニュアンスを乗せられるのが嫌だというわけです。

そして、miura氏はそこから、「自認○○」というミームにより、性自認が軽んじられるため、そのようなミームは使うべきではないと主張します。

自認という言葉にそのニュアンスが付与されることによって、トランスジェンダー当事者が自分達を説明するための『性自認』という言葉にもそのニュアンスを読み取られるようになるという問題が起きています。

こういうくだらないミームによって人々のトランスジェンダーに対する認識が歪んでいっても現状それを是正することは難しく、また容易にトランス差別の流れに棹さすことになる状況なので。

「そのミームによって『性自認』という言葉とそれを必要とする人々の生活に悪影響が出るのでやめてください」という実害に基づく当事者からの要請である、という視点が欠けていませんか。

「害があるからやめましょう」というシンプルな話。

そして、“その程度の害”かどうかを害を受けることのない非当事者が判断しようとするのは全くもってナンセンス。

自分の理解で上記の文章を要約すると

  • 「自認○○」というミームの実際の意味はどうあれ、その流行によって性的少数者性自認が軽んじられるという害が生じている
  • 性自認が軽んじられるという害があるかどうかは、当事者の性的少数者がそう判断したらそう見なされる。非当事者がそれに反論することはできない。
  • 害があるのならやめるべき

ということになるでしょう。

しかしそれに対して僕はこう思うわけです。

  • 「自認○○」というミームの流行によって性的少数者性自認が軽んじられているのというのは、実際にどういう場面でどういう風に行われているのかわからない
  • 「当事者が害を感じている」こと自体は当事者が判断することだが、その害が不当なものなのかそうでないのかを考えるのは、当事者・非当事者関係ない
  • 害があるからそれを即やめるべきになるのではなく、その害が不当なものかそうでないかも重要

miura氏は

「害があるからやめましょう」というシンプルな話。

といいますが、誰かに害があるからといって、それが即「その行為をやめるべき」という話にならないわけです。例えば、政治家に対する風刺表現は、その政治家の害になるかもしれませんが、これをやめるべきというのは、当該政治家とその支持者でしか合意が取れないでしょう。

一方で、性的少数者に対して「ホモ」というような言葉は、すべきではないとされています。これは、実際に「ホモ」という言葉が流行し、それによって性的少数者への差別がなされていたと、当事者・非当事者ともに認識したからによるものです。

「自認○○」というミームのを使うべきかどうかもまた、それが差別を助長しているかこそが重要なわけです。当事者が不快感を感じていることは、それ自体で言葉を禁止する十分条件にはならないと、僕は考えます。

「うるさいひとがいるからやめる」ではなく

ただ、僕がこのように長文を書いても、実際に「自認○○」ミームがどうネットで扱われていくかは、結局論理ではなく空気で決まっていくでしょう。「『自認○○』というミームを使うとうるさい人がいるからやめるか」となれば、「自認○○」ミームは使われなくなっていくだろうし、そうならなければ使われ続けるわけです。実際にそのミームがどんな意味を持ち、それによって何を表現したかったか顧みられることなく。

しかし、あるミームがあって、それが流行したということは、そのミームによって表現したかった思いが人々の中であったから、流行したわけです。もちろん、その思いがいい思いであるとは限らないわけで、それこそ本当に差別に根付く思想が根元にあるのかもしれない。その場合は、きちんと「そのミームはこういう理由で差別だからやめるべき」と理解し、使用をやめるべきです。

今回の「自認〇〇」というミームに対しても、本当にそれをやめるべきか考えるには、当事者・非当事者交えた議論こそが重要で、「どちらの声が大きいか」というのは本質的な問題ではないと、思うわけです。

検索
注目記事

引用をストックしました

引用するにはまずログインしてください

引用をストックできませんでした。再度お試しください

限定公開記事のため引用できません。

読者です読者をやめる読者になる読者になる

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp