日本記者クラブは1969年11月、日本新聞協会、日本放送協会、日本民間放送連盟の会長3人が設立発起人となり、全国の新聞、通信、放送各社に呼びかけて創設されました。
来日する外国の大統領や首相、閣僚の記者会見を日本の報道界が自分たちの手で開きたい、と考えたのがクラブ創設の大きな理由でした。それまでは、日本にはプレスが共有する報道・取材の拠点はなく、外国の賓客は日本外国人特派員協会(FCCJ)で記者会見に応じていました。
日本記者クラブは、日本で唯一の「ナショナル・プレスクラブ」です。会費により運営され、政府などからの公的な財政援助は一切受け取っていません。非営利の独立組織であり、2011年4月には公益社団法人の認定を受けました。
会員には、全国の主要な新聞社、テレビ局、通信社が法人会員として加盟し、個人会員として各報道機関の幹部、現役記者や記者OBも加わっています。外国メディアも法人会員や個人会員として参加しています。さらに当クラブの目的に賛同する大使館、国際機関や企業、団体も賛助会員としてご協力いただいているほか、ジャーナリズムを学ぶ学生を学生会員として受け入れています。現在、179社、2023人の会員がいます。
各省庁には報道各社の記者が常駐する「記者クラブ」がありますが、当クラブとは成り立ちも性質もまったく異なるものです。 会員制度はこちら
日本記者クラブの最も大事な仕事は記者会見を開くことです。来日する外国の大統領、首相、閣僚や幅広い分野の専門家、日本の政治家、経済人、研究者、専門家ら「ニュースになる人」をゲストに招きます。記者会見や昼食会、研究会と呼び方はさまざまです。ゲストは原則としてオン・ザ・レコードで話し、取材した会員や記者がメディアで報道し、人々に広く伝わります。
23年度は、社会がコロナ後に移行する中、日本記者クラブの活動は完全に元に戻るのか、人々の行動変容等によって何らかの対応を求められるのかを測る試金石の年度となりました。
行事総数は210回、このうちクラブの中核事業であるプレス会見(記者会見・研究会や記者ゼミなど)は189回だった。記者研修会は3年ぶりに実地開催が実現するなど、情報発信基地としての役割を果たしました。コロナを機に始めた、会場とオンライン会議システム「Zoom」を活用したハイブリッド開催が当たり前の状態になりました。どこにいても記者会見に参加できる手軽さが手伝って参加者数はコロナ前に比べて増えました。ただ、会場参加者のみを比較するとコロナ以前に比べて減り、会場参加の比率はコロナ下に比べれば上がったものの4割に届かないままでした。新しい記者会見の姿と受け止めるべきかもしれないが、特にニュースの当事者がタイミングよく開いた場合は、会場参加がオンラインを上回ることもあります。
国際原子力機関(IAEA)のラファエル・マリアーノ・グロッシ事務局長の会見は7月4日と7日の2回行われました。東京電力福島第一原発で生じるALPS処理水を海洋放出する計画について、IAEAの専門家が検証を重ねてきた結果報告を携えての来日だったということもあり、参加者は4日は377人、7日は246人と注目を集めました。またジャニーズ事務所の創設者による性加害に関連する会見では、国連「ビジネスと人権」の作業部会による会見には276人、その1時間後に行われた「ジャニーズ性加害問題当事者の会」のメンバー7人の会見(いずれも8月4日)には216人が参加し、両会見は放送局や新聞、通信社により生放送、ライブ配信で報じられたほか、翌日の朝刊で複数面に記事を展開した社もありました。ほかにも、世界三大映画祭のカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞した役所広司さんと共演の田中泯さん(6月13日)、日本将棋連盟会長に就任した羽生善治さん(12月1日)、新任大使の呉江浩・駐日中国大使(4月28日)、結党102年目にして初めて女性で委員長に就任した日本共産党の田村智子さん(3月19日)も会見しました。
パレスチナ暫定自治区のガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスとイスラエルの軍事衝突を受け、ギラッド・コーヘン駐日イスラエル大使(10月12日)と、ワリード・シアム駐日パレスチナ大使(10月16日)が会見したほか、シリーズ「ハマス・イスラエル衝突」を始めました。そのほかにも23年度は、「ジャニーズ問題から考える」「生成AI」「関東大震災100年」「中国で何が起きているのか」「能登半島地震」「<政治とカネ>を問う」「2024 米大統領選」など時機をとらえた17のシリーズ企画を開始しました。
11年目に入った現役記者向けの勉強会・土曜記者ゼミ「調査報道」と「IT講座」は、23年度も記者が記者に教える形式で、調査報道の手法や実践例、パソコンやウェブの使い方を紹介しました。
新型コロナ感染拡大防止のため開催形式や時期を調整して行ってきた記者研修会が4年ぶりに8月に開催されました。取材の基本のキから、性被害者を取材する際の心構え、オープンデータの活用術などをテーマに、会場とオンラインのハイブリッド形式で実施しました。
14年から継続している東京電力福島第一原子力発電所への取材団は、処理水の海洋放出が始まった原発構内をはじめ、中間貯蔵施設の見学、双葉町の伊澤志朗町長や大熊町の吉田淳町長のインタビューなどを行いました。また、26年1月から改正刑法が施行されることを踏まえ、刑事施設を取材する企画も始まった。第一弾では収容定員が日本最多の府中刑務所を訪問しました。。
2023年度事業報告はこちら
ジャーナリズムの信用を高めたジャーナリストに毎年、日本記者クラブ賞を贈ります。記者が選ぶベスト記者賞です。1973年に創設され、これまでに選ばれた仲間は計60人(24年度含める)にのぼります。
24年度の日本記者クラブ賞は、40年以上にわたり永田町を取材し、政治ジャーナリズムの活性化に大きく貢献した共同通信社客員論説委員の後藤謙次さんに、特別賞は、選挙応援演説中の首相にヤジを飛ばした市民が警察に排除された問題を粘り強く検証してきた北海道放送ヤジ排除取材班と、目の見えない少女の日常と自立を25年にわたり追い続け、命と家族について問うたテレビ静岡「イーちゃんの白い杖」取材班に贈りました。
日本記者クラブ賞はこちら
いつ、だれが、何のために、日本記者クラブを作ったのでしょう。
日本記者クラブは1969年11月、日本新聞協会、日本放送協会、日本民間放送連盟の会長3人が設立発起人となり、全国の新聞、通信、放送各社に呼びかけて創設されました。設立当初の会員数は144社、733人でした。
来日する外国の大統領や首相、閣僚の記者会見を日本の報道界が自分たちで開きたい、と考えたのがクラブ創設の大きな理由です。
当時、日本にはプレスが共有する報道・取材の拠点はなかったのです。外国の賓客や重要人物は、来日すると日本外国人特派員協会(FCCJ)を訪れ、昼食会や記者会見に応じていました。
外国の指導者が日本へのメッセージを発信し、記者の質問に答えようとしても、日本の報道機関はそうした機会を用意できなかったのです。外国人が作る記者クラブが代わりにその役割を果たしていたことになります。
「外国人記者に会見を任せる不自然な状態を解消し、われわれ日本のプレスがナショナル・プレスクラブを作りたい」「1970年の大阪万博で多くの外国賓客が来日する前に発足させよう」「外国に限らず、日本のさまざまなリーダーや専門家を招き取材したい」「記者会見を常時、主催するために会見場を確保したい」――そういった機運が報道界で強まりました。
全国の新聞、通信、放送社が賛同し、法人会員として参加し、日本記者クラブが誕生したのです。
日本記者クラブは帝国ホテルに仮のクラブルームを置き、活動を始めました。組織はできましたが、施設は間借りです。
ニュースはいつ起こるかわかりません。記者会見をいつでも開くためには、会見の会場を自分で管理し、維持すべきです。その必要に応じるため、1976年、新聞各社が出資した(株)日本プレスセンターによって日本プレスセンタービル(10階建て、東京都千代田区内幸町)が完成しました。
日本記者クラブも引っ越し、ようやく自前の記者会見会場を持つことができました。さらに会議室、レストラン、ラウンジといった、ナショナル・プレスクラブにふさわしい本格的な施設が整いました。
これにあわせて、会員制度も拡充しました。
外国の報道機関や特派員も同じ条件でプレス会員になる仕組みができました。外国の在京大使館や政府機関、民間企業、非政府組織(NGO)といったニュースソースは賛助会員として活動しています。
2011年には、政府の公益認定等委員会の認定を受け、社団法人から公益社団法人に移行しました。法律により、公益法人の公益目的事業は「不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与する」と定義されています。日本記者クラブの活動がなぜ「不特定多数の利益」となるのでしょう。
日本記者クラブの目的は「この法人の事業が、会員のジャーナリズム活動や報道を通し、広く国民が共有する情報となることにより、国民の知る権利、国民生活の向上安定、および国際相互理解の促進に資すること」(定款第3条)です。
日本記者クラブが記者会見を主催し、会員である記者が取材・報道するジャーナリズム活動の拠点であるからこそ、国民の知る権利=「不特定多数の利益」に寄与すると法律上も認められたことになります。
日本記者クラブには1969年の設立以来、40年を超える実績と伝統があり、日本の社会に根付いています。クラブが招くゲストと取材する記者の間には信頼関係が存在し、さまざまなニュースや報道が日本記者クラブから発信されています。
民主主義社会を支えるシステムのひとつと自負し、ジャーナリズムの公共基盤として活動を広げていきます。
戦後初の米現職大統領の訪日であった。米国の大統領が訪問先の外国で、公式のプレスミーティングを行ったことはないといわれていたので、クラブが申し入れをしても、それが受け入れられることはないだろうというのが、当初の大方の見方だった。だが、クラブは、この訪日が、わが国の国民にとって大きな意味を持つとの認識で、9月に外務省を通じ昼食会の申し入れをあえて行い、渡辺誠毅理事長名で大統領宛に招請状を届けるなどした結果実現したもの。帝国ホテル「富士の間」で行われたこの昼食会は米国へも生中継された。
昭和天皇と香淳皇后が戦後初めて米国を公式訪問し帰国したのを機に、両陛下の記者会見が皇居「石橋の間」で当クラブ主催で行われた。従来、天皇・皇后から宮内庁詰めの記者たちが話を聞き記事にはしていたが、宮内庁側はこれを記者会見とは認めていなかった。しかし、この記者会見以後宮内庁の態度も変化し、現在は内外プレスが参加する皇室の公式会見も定着している。天皇は、この会見で初めて戦争責任や広島の原爆投下関連の質問に答えた。
従来、中国要人は、国内はもとより訪問先の外国でも「中国にはそのような習慣がありませんので」と言って、記者会見に応じなかった。が、最高実力者・鄧小平氏が当クラブの記者会見で千両役者ぶりをいかんなく発揮して以来、続々他の中国要人も内外で西側スタイルの記者会見を行うようになった。この後来日した華国鋒、趙紫陽、李鵬、胡耀邦、江沢民、彭真、朱鎔基、胡錦濤といった人々もことごとくクラブの招きに応じ記者会見を行った。
1979年1月22日に行われた大平正芳首相の昼食会で、酒井新二理事長が、有名なジェファーソンの言葉を引いて、”政治同様にマスコミに対する批判が高い中で、プレスとしては充分自制して報道活動にあたらなければならないと考えているが、この機会に新総理の政府とプレスの関係についての見解をうかがいたい”としたのに対して、大平首相は「自由は寛容によって支えられている財産だ」として次のようにその考えを示した。
「自由は寛容によって支えられている財産」
とっさのおたずねでございまして、どのようにお答えしていいか、当惑をいたします。だた、私は日頃からプレスの、取材の自由、報道の自由というもの、これは政府にとって相当やっかいなものであることは間違いはございませんけれど、それだけにデモクラシーを支える大きな柱だと思っています。 従って、われわれは真剣にプレスの取材に対しましては応えなければならないし、その批判に対しましては充分にエリを正していかなればならんものと思います。しかし、いま、酒井さんがプレスの側においてももちろん自制がなければならんという趣旨のことをおおせられましたことは、大変ありがたいことでございます。 自由というものは他者に対する寛容によって支えられている尊い我々の財産でございます。政府も、プレスの方も、双方ともそういった共通の自制をこころえて、お互いに対処いたしたいものと考えております。
ペレストロイカとデタントを推進し、マルタでのブッシュ大統領との会談で、冷戦に終止符を打ったゴルバチョフ大統領の会見は、海部首相との北方領土問題をめぐっての6回とも8回ともいわれる首脳会談のあおりを受け、予定より8時間遅れの未明の記者会見となった。ライサ夫人とともに午前0時30分過ぎに到着し、1時間15分の会見をこなした大統領は、帰りにエレベーターの中で白木事務局長に、「この会見は、私としてはどうしてもやらねばならなかったこと」と述べ、クラブがこうした機会を準備してくれたことに感謝の意を表した。
日本記者クラブは下記の海外ナショナル・プレスクラブとも姉妹関係にあります。日本記者クラブの会員は、会員証を提示することにより、これらのナショナル・プレスクラブの施設を利用することができます。
3月19日13:00~14:30
「トランプ2.0」(5) 保守系シンクタンク アメリカン・コンパス設立者 オレン・キャスさん3月24日17:30~19:30
試写会「それでも私は」3月25日13:30~15:00
「戦後80年を問う」(3) 中村秀一・一般社団法人医療介護福祉政策研究フォーラム 理事長、元厚生労働省老健局長日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 1 |
2 | 4
| 5 | 8 | |||
9 | 10 | 11 | 13 | 14 | 15 | |
16 | 18 | 20 | 21 | 22 | ||
23 | 26 | 27 | 29 | |||
30 | 31 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |