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言葉によって輪郭がクッキリすることがあるが、言葉の発明というよりは、時代の変化に合わせて言葉が生まれるのかもしれない。「オラつく」というのも、昭和の頃ならオラオラしている人が普通なので、ピンと来なかったはずである。今のおとなしい世の中だと、オラオラしている人間が浮いてしまうので、「オラついている」と失笑されてしまう。オラオラしているのが変わり者であるという認識の浸透があってこそ「オラつく」という言葉が生まれたのである。「オラオラ」と「オラつく」の使い分けも、現在のわれわれだからピンとくるのであり、何百年も経ったら、判然としないはずである。昭和の頃は多少の暴力だと警察が来ないので、威圧は暴力と直結していた。オラオラしている人がいれば(暴力を振るわれても警察が来ないので)本気で怖がっていたのである。今は警察を呼べばいいと思っているから、オラオラした人間を見ると「オラついている」と失笑するわけだ。思い返してみれば、昔から、草食系の若者と肉食系の若者というのは、両方とも存在していた。どちらが幅を利かせていたか、という違いだけである。人間が変化したというよりは、やはり警察が変化したのが大きいと思うし、最近はオラオラしてるだけで捕まりかねない。刑法そのものは変わってないのだが、昭和の頃だと、多少の暴力で警察を呼ぶとかありえないし、呼んでも相手にされない。今だと肩に触った程度でも警察に通報するのが当然だし、実際に捕まる。それでは今から昭和にタイムマシンで戻って、暴力容認の世情に向かって、現在の進化した言葉を投げかければ変えられるかと考えたら、不可能だと思う。いろいろな背景があるだろう。昭和の頃は、商品名を連呼するCMで溢れていた。宣伝するために広告を出すのであり、決して漠然としたスポンサーの好感度のためのものではなかった。昭和の頃でもスポンサーへの苦情というのはあったが、今のようにデリケートではない。そもそも暴力がなぜ悪いのかという論もあり得るし、たとえば自分で自分を殴ったりすることは(拳で膝を叩いたりすることはよくあるはずだが)暴力ではない。暴力とはただの暴発であることもあるが、厳しい上下関係ゆえのことが多いし、人間関係あっての暴力である。昭和の頃だと、知り合いに殴られて警察に通報というのはあり得ないが、これは昭和の人間関係が濃いというのもある。人間関係に警察が立ち入らないというのは、警察の怠慢ではなく、社会の在り方を踏まえたものである。今日であれば、われわれは人間関係に気をつけており、土足で上がり込むような関係性は忌避しているので、知り合いに殴られたら逮捕という準備がある。
気性が激しい女子がいる。不真面目な男子とは違って、病的な真面目さを感じる。スポーツで女子を指導すると宗教っぽくなるのは「こうやってみてはどうか」と妥当なことを言っても頑なに拒絶されるからである。教祖と信者という宗教的関係でなければ従わない。チャラチャラした男子部員とはまったく話が違うのだ。絶対に言うことを聞くものか!という意固地さが女子にはある。合理的な指導者は退場するしかないし、宗教的な指導者しか残らない。洗脳するしかないのである。男が「この人の言うことなら聞く」というのは義理堅さだが、女がそれだと、なにかしら狐憑きのような激しさである。男の忠誠心は盲目的ではなく、どこかしら政治的立ち回りというか、派閥のバランスまで目配りした行動だが、女はただ一直線で盲目である。だから女を指導するとしたら「手なづける」しかないのである。女は劣った生き物であるからこそ、強いオスだけに従うという動物的本能があり、(弱いオスには絶対に従わないという反逆精神があり)それでこうなるのかもしれない。ごく普通の意見交換すら成り立たないこともある。では、どうすれば、女がひざまずく教祖になれるのか、それもわからない。女がホストに貢ぐのも、たぶんホストを「強いオス」だと認識しているのだと思う。ホストはどう考えても劣った人間だが、まあ野性的というか、「強いオス」に見えてしまうのだろう。とりあえず、この手の我が強い女を従わせるには「強いオス」だとハッタリをきかせればいい。関東連合に加入するとか。
このところパワーワードという言葉が流行っているが、着眼点のいい言葉だと思う。われわれを刺しに来る強い表現についてのモヤモヤをひとびとが感じていて、パワーワードという言葉で輪郭がクッキリしたのである。「人権」「差別」などが典型だが、それ以外の事例でいうと、守秘義務というのもパワーワードだとわたしは思っている。都合の悪いことを言わないインチキ臭さが、あたかも正義のように変換されてしまう。プラス点だけ列挙してマイナス点は言わない詐欺師で世の中は満ち溢れているが、マイナス点を言わない大義名分として「守秘義務」がよく使われる。職業的に義務付けられていることもあるだろうが、たいていは個々人の民事契約でしかない。法律上の守秘義務という文脈では、かつて西山事件というのがあった。毎日新聞の西山記者が外務省の女性事務官と肉体関係を持った上で情報を聞き出した。女性事務官は情報漏洩の罪、西山記者は教唆の罪を問われた。この事例からすると、「情報を教えろ」というのは教唆の罪となるリスクがあり、守秘義務という言葉がパワーワードとなるのだろう。外交上の機密情報と民事契約の内容は次元が異なるはずで、詐欺師同士が「これは秘密だぞ」と仲間内で約束している内容など知ったことではないが、そのあたりの混同を解きほぐすのも難しい。詐欺師がもっともらしく守秘義務といえば、なんか正義のようになってしまう。都合の良いことは言う、都合の悪いことは言わない、それも人間として、当たり前といえば当たり前であるから、何でもかんでも開示せよ、ということではないが、インチキ臭いのも確かであり、決して立派なことではない。都合が悪いことは言わないというのは仕方ないにしても、後ろめたさの裏返しなのか、守秘義務というパワーワードで刺しに来るのはやめていただきたい。