ワイアードな二次元論壇です
同時に響いてくる沢山の音が識別されるのは、一体どうしてなのか?
どうして一つの感覚に融合してしまわないのか?
高さを異にする音がどうして中位の高さの混合音にならないのか?
このようなことが実際には起こらないという事実によって、
われわれの考案すべき見解が一層限定される。
恐らく、音の場合にも、識別され単一の印象に合流してしまわない空間中の相異なる場所に現れる赤と黄の混合色の系列の場合と類似の事情にあるものと思われる。
実際、或る音から別の音へ注意を移す際には、
視空間内における凝視点の転換の場合と類似の感覚が生ずる。
純音列系は、両側が限界を画された、
例えば正中面に垂直に右から左へと伸びている直線のような対称性を呈せぬ
一次元の空間と類似的である。
それは鉛直線や、正中面内でこちらから向こうへ伸びている直線とは、より一層よく似ている。
しかし、色は空間点と結びついておらず、空間内を動き回るので、われわれは空間感覚と色彩感覚とを容易に分離するのであるが、音響感覚にあっては事情が異なる。
一定の音響感覚は上述の一次元の空間の特定の部位にしか現れることが出来ないのであって、
当該音響感覚が明晰に現れる場合には上に言う部位が必ず確定している。
ところで相異なる音響感覚は音感基体の相異なる部分に現れるのだと表象したり、
或いはまた、かの二つのエネルギーのほかに第三のものがある。
詳しく言えば、高低音の色合いがそれの割合によって制約されているかの二つのエネルギーの他に
音に注意を固定する際に現れる神経興発に類する第三のものがある、と考えることも出来る。
あるいは、これら双方が同時に生じるのかも知れない。
この点について裁定することは目下のところ不可能でもあり、不必要でもある。
音響感覚の領域が空間、それも対称的でない空間、とのアナロギーを供するということは、
無意識のうちに言語にも現れている。
楽器がヒントになって左の音、右の音といった表現が生まれてもよさそうなものだが、
われわれは音の高低は云々するけれども、
音の左右を云々しはしないのである。
あとからの合理性----
永いこと存続しているすべての物は、
しだいに合理性が滲みこむので、
成立当時は不合理なものだったということが、
そのためありえぬことのように見える。
成立を扱ったほとんどすべての精確な歴史は、
感情的には、矛盾とも冒涜とも思われるのではないだろうか。
良き歴史家は、絶えず首をふっているのではないだろうか?
学者の偏見---
すべての時代の人々が何が善、何が悪、
何が褒めるべく、何が咎めるべきかわかっていると信じていたというのは、
学者の正しい判断である。
だが、いずれの時代よりも現代のわれわれがそれをよりよくわかっているように思うのは、
学者の偏見である。
道徳と愚鈍化---
社会的慣習は、古い人間たちが有利または有害と考えた、
その経験を表現する。
しかし慣習を支える感情はかの経験そのものに関係しないで、
慣習の古さ・神聖さ・確かさに関係する。
そのためにこの感情は人々が新しい経験を積み、
慣習を修正することに反対する。
つまり、道徳は新しい、より良い慣習の成立に反対する。
道徳は人を愚鈍にするものだ。

Author:ukdata
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