以下は、宮本武蔵の肖像画の首が前に出ていることについて、霊的な視点から見て良くないとの書き込みをしておられたネット上の師の書きこみに対して、その理由と、後天的な治癒の可能性を質問したのに対する解答です。
一概に首が前に出る事の可否と言うても、生理的な湾曲に掛け算した自然な前垂れと、反折した状態に近く水平的に前に出るのとが在ると思われ、宮本武蔵は私の目だとどうも後者に観えるんで、まず身体論的なコンテクストからも最終的には褒められた物ではない、というのが第一の勝手な考えです。客観的に、あの肖像画では少し前に出過ぎてんでしょうか、他の(健全な)古人と較べても?さて人は霊的な悪寒にかられる時、もっと一般的に何かが怖て、それどって蹲ってまうんと違く活動的な状態に在る時、矢張り首を竦めるような姿勢をとるものでしょう。単純例で夜のお墓を通過する時とか、皆さんはんで押したように多少なりともこの姿勢をとっとります。これ、実は既に悪寒の形でキャッチ出来とるとおり、首のその自然なカーブの途切れ目から霊的な物に入られとる状態です。肉体と霊(の状態)は相当共通するものであり、背骨という肉体の中核の、更に最も可動性が高くそれ故柔らかくあらなならん不備が在るいうことは、健康体かて最も霊的な物に狙われええ条件ということなのです。霊的な物ということは、当然万に一つも邪な物と違うことが無いということ。ただ普通はこの首の反折が一過性で済むのですが、肉体は結局心をこそ最大に反映します。表面的には固い身体かて、心の根幹の根幹では人間として最もいむべき事をやってんという、いわば自信のようなものが普通は存在するだけに、在るようで中々無い症状なのに、武蔵のように或る経験を持つ人間はこの症状にまでたどり着かざるを得ないのだと思いますし、そない症例を身近(も身近)でイヤと言う程知る(私)だけに、身体論的にはこの姿勢に異様に敏感で、前記のごとく書かせて貰た次第です。健常体の人間には気場で言うと必ず真球が包備されとります。これが安定的に破れるんは普通無いんで治癒には相応に手間取りまして、まあ剥落部分に気の塗装を施せばいいと言うても、気の世界は敏感で色むらが出易く、その色むらが出た球表がすぐさまくだんの頸部に(回転→)移転する厄介極まる性質が在るから、これを根治するには全塗装、野放図に塗りたくるのではなく患部に気の絵の具を分厚く盛り付け、絵の具を精密に同心円状にグーッとゴムさながらに引延ばす根気の要る作業に成功した末の全塗装、しかありえないと言えますね。勿論球の原像は丹田球で、こういう内外の感覚を保持したまま行う非常に敏感なチャレンジと成ります