
ちょうど一年ぐらい前に出版されたショッピングモール論、『埼玉化する日本』。
著者の中沢明子さんは東京生まれ・東京育ちの1969年生まれのライターで、出版ディレクターでもあるとのこと。巻末のプロフィールには「得意分野は消費、流行、小売、音楽」と書かれ、文中にも“消費バカ”を自称している箇所があり、消費個人主義には造詣の深い方と思われる。
この『埼玉化する日本』は、おもに首都圏近辺のショッピングモールを、個人消費のコンテキストから捉えている。商品金額の大小だけでなく、センスの良し悪しや「買って良い商品」「買ってはいけない商品」といった視点をまじえながら、これからのショッピングモール(とそこでの個人消費)を展望した書籍、と言えそうだ。
良くも悪くも本書は、郊外やショッピングモールを東京との接続性を前提として捉えている傾向があり、「鉄道沿線を前提としたショッピングモール論」という風に読めた。ショッピングモールへのアクセスや、東京都心部と郊外ショッピングモールの使い分けを語る際にも鉄道が意識されており、幹線道路についてはあまり言及されていない。
これが、本書の不思議なテイストの源泉になっている。エキナカの充実や池袋の躍進についても多くのページを費やし、それらが郊外の「普通の」ショッピングモールとの差異化に成功しているさまを描いている。このあたり、東京周辺の消費状況に詳しい筆者さんならではの旨味だと思うし、一般的な郊外論には出てこない話だと思う。
反面、私のような田舎育ちの郊外暮らしからすれば、鉄道沿線のショッピングモール論は“喉の通り”が良いものではない。
そもそも、アメリカでショッピングモールが普及した背景として重要だったのは、鉄道網ではなく幹線道路網の充実だった。郊外という空間もまた然り。日本の大都市圏近郊では鉄道網が異様に発達しているため、確かに鉄道網に根差したショッピングモール論や郊外論が成立する。少なくともある圏域はそのとおりなので本書も成立しているわけだが、ショッピングモールやショッピングモール的なアメニティに頼っている地方都市~町村部の生活人口の大半は、鉄道を使ってショッピングモールに行くのではない。いや、鉄道に頼れる地域に住んでいる人でさえ、コストコやイオンに行く際にはなるべく自動車を選択するだろう。ショッピングモールでの買い物とは――アメリカにおけるソレに似て――とかく大容量になりがちだからだ。
こうした事情は作中に登場する地方都市群にも言えることで、松本市、高松市、高知市といった地方都市の消費の表舞台はモータリゼーションと深く結びついたショッピングモール達である。これらの地方都市に大都市圏から訪れる人々が辿り付く風景と、地元で暮らしている人々が愛顧している風景とは乖離しているのではないか。そして地方都市の周辺に住まう人々はといえば、日常の消費活動はショッピングモール未満の店舗で済ませ、土日になればショッピングモールの駐車場めがけて長蛇の列をつくるのである……。
だから、ショッピングモールと消費の話をするなら、自動車と、その自動車を用いて消費活動を専ら行う人々に軸を置いて語るべきではないか、と私は思う。そしてモータリゼーションと繋がった消費論を期待したくもなってしまう。本書のタイトルは「埼玉化する日本」だが、本書の言うところの「埼玉化」が可能な郊外とは鉄道網が発達しているような郊外であり、「埼玉化」が不可能な地方の国道沿いに住まう身としては、本書のタイトルを「埼玉化する日本」ではなく「東京と埼玉のショッピングモール論」に変更して欲しいと思ってしまう。
他方、「東京と埼玉のショッピングモール論」と割り切って読むなら、本書は確かに興味深い。東京周辺の高いアクセシビリティと交通インフラを踏まえたショッピングモール論として読むと、エキナカや池袋の話題とショッピングモールの話題が地続きになる。たぶん、東京生まれで埼玉に住んでいる著者さんの実感とも繋がるのだろう。そういったエリアのショッピングモールに焦点を当てた書籍としては、いけているのではないか。
ここまで、できるだけ冷静に書評しようと思っていたけれども、東京と地方・消費個人主義と郊外の話となると、私はつい熱くなってしまう。あくまで個人ブログなので、ここからは、あまり冷静ではない自分語りに近い感想をグシャグシャ書いてみる。
前述のような本書の美点はさておき、著者の中沢さんとは年齢も生育環境も違う私としては、「消費のヒエラルキーを大前提とした東京中心主義なショッピングモール論」であるなぁ、と嘆息せずにはいられなかった。
本書に登場するブランド物や店舗には、必ずといって良いほど(特上)(上)(中)(下)といった著者評価が付けられている。そうした格付けは、曰く、“消費感度”“高感度消費”なるものに基づいて価値づけられているという。
つまり「センスの良い消費は偉い」というわけだが、これこそ、首都圏と、その首都圏から情報発信することで消費を煽ってきたマスメディアに通底したセントラルドグマではなかったか。
若者が大人に対抗するのでなく、若者同士でしのぎを削るように“恰好良さ”や“センス”を競いあう――そのためにブランド物や店舗による差異化・差別化を用いるライフスタイルが普及していったのが1970年代~80年代の東京だった。“新人類”や『なんとなく、クリスタル』が話題となったのもこの時代だ。


これはもう、私のコンプレックスに違いないのだが「経済的に生き残りたければ、今まで以上の信心をもって東京を拝みなさい」――そんな解釈をしたくなってしまうのだ。そして悪いことに、そのような解釈を否定できない自分もここにいる。埼玉のような郊外になれない郊外(や地方都市)には、果たして未来はあるのだろうか。
当初、できるだけちゃんとした書評を書こうと心がけていたが、キーボードを叩けば叩くほど捻じれ、推敲するほどグシャグシャになってしまうので、もう降参することにした。どうしても駄目だ、私にはこの本の書評らしい書評が書けない。冷静に読むことなんてできません。
いっそ、ここまで自分が冷静に読めないと、おかしくて笑い出したくなってしまう。『なんとなく、クリスタル』や『ヤンキー経済』を読んでも感じなかったエッセンスが本書には含まれていて、それが私の精神のどこかと化学反応を起こしているのだろう。改めて、私は田舎者だな、と思った。
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